[1] 準備*
『その日』は冬晴れの良い天気で、朝早くから僕の目覚めもいつになく良かった。母さんの淹れてくれたテーアおばさんの紅茶で喉を潤しながら、海を臨むベンチで独り、凪いだ地中海を見下ろしている。
碧とも翠ともつかない神秘的な色彩。東から昇る朝陽に照らされて、光の粉を散りばめたような海原は、まるで今日という特別な日を祝ってくれているかのようだ。
僕はふと立ち上がって海に背を向けた。視界に映るのは大きな無花果の木が寄り添う小さな家。僕を十九年育ててくれた温かな家──。
そう……サファイア・ラグーンでのあの驚くべき体験から、既に一年半が過ぎていた。けれど僕は未だ『此処』に居る。
アーラ様に飛ばされた後、僕達が意識を取り戻したのは父さんの船の上だった。全員がその場に座り込んだまま暫くは言葉すら発せなかったことを思い出す。結局アーラ様を救い出すことは出来なかった……いや、アーラ様は救いを求めていなかった。それでも僕達はアーラ様の力になりたかった。もちろんあの満足そうな『二人』の姿を見た今、僕達が幸せに生きることが、二人の何よりも嬉しい現実なのかも知れないが──。
甲板で放心状態だった僕達は、しかし誰からともなく立ち上がり、誰もが前向きな言動と行動を始めた。アーラ様とウイスタ様の想いを無にしてはいけない。そんな気持ちが僕達の背中を押していた。
結界へ戻る船の上で大きな海図を広げ、新しい結界を造る為の計画を着々と練っていった。途中パンテッレリーアのアドル家族を訪ね、結界付近の漁場について意見を請い、シチリアのトロールの家では、人間になった人魚達に協力してくれるよう声掛けをお願いした。更にジョル爺やカルロ・父さん自身の船乗り仲間・アネモス公にまでその規模は及び……今まで結界内の人魚以外に面識のないティアは、これだけ大勢の人間達に会うだけで、さぞや度肝を抜かれたことだろう。そしてそれにも増して人魚達のことを考えてくれる人間がこれほど多いことを、どんなに感謝したのか、彼女にとっては表情に全てを表せられない位の大きさだった。
沢山の人間や人魚が父さんの船を入れ替わり立ち替わり、様々な方面へアプローチを掛けて相談した結果、結界からそう遠くない位置に、新しい世界を造ることが可能だという結論に到った。結界に沿うように細く長く、ギリシャにもイタリアにも近い新天地、更に人間の目からは見ることの出来ない、そんな『隠れ家』が出来さえすれば──。
母さんとモカと僕は、カミルおばさんが得たアーラ様の知恵を借りながら、新しい結界のイメージを一つに絞ることに努めた。三人の描く物が同じでなければ完全な物は造れない。その為にもと母さんは二十年振りに深海を、そして結界の中を訪れた。僕と手を繋いで隣を歩く母さんの足取りは、人間の形をしていても人魚だった頃を想像出来るくらい軽やかだった。辺りを見渡すブルーグリーンの瞳はいつになく大きく美しく、父さんがその瞳に目を奪われたのも頷けよう。母さんは僕の知らない十六歳のシレーネそのものだった。
父さんがカミルおばさんの手助けを借りて、真珠のプレゼントを作ったという北の岩場の森・テラばば様やカミルおばさんと共に過ごした今は失き西の自宅跡・そして外界の様子を語る大ばば様の声に耳を傾け、自身も二年暮らした東の館──母さんはあちこちを歩き見回して何を感じたのだろう。館の玉座に腰掛けていた現シレーネのカミルおばさんが「座ってみる?」と席を譲っても応じることはなく、ただ微笑みを浮かべて侍女達と談笑し、懐かしい面々や新しく生まれた子供達を抱き上げ喜びを表した母さん。それでも結界を出る時に微かに呟いた言葉は、きっと母さんの心からの哀しみだった──「さよなら……あたしの故郷──」
前作と同じ形式を取っておりますので、今回も終章にて時間がぶっ飛びました(苦笑)。皆様、どうぞ頑張ってついて来てくださいね(汗)!
また「準備」と云える部分が少なくて、今回は一番の短さでございます。次回は色々とございますので、お楽しみにしていてください。いつも有難うございます♪