[初恋] -2-*
前作をお読みでない読者様に対応し、少々説明の多い部章となっております。前作をお読みの方も復習になると思いますので、お手数ですが少しばかりお気張りください。
文末に系譜がございます。宜しければご覧ください。
結界──。
それは地中海のイタリアとギリシャの間に在る秘密の領域だ。僕は其処に住む従妹のティアことティアラに会いに来ていた。
彼女は十四歳。彼女の姉モカことアモールは、僕の一つ年下でもうすぐ十六歳。そして二人の母さんカミルおばさんは、僕の母さんの姉さんだ。
彼女達は神話上、半人半鳥として描かれた、唄で人を魅了する『シレーネ』の末裔で、半人半魚──いわゆる人魚である。
僕の母さんルーラもかつては人魚だったが、イタリア人の父さんアメルと恋に落ちて、尾びれと人の倍以上の寿命を捨て、僕ジョエル=フェリーニを産んだ。
僕が生まれた時、不思議なことが起きたと云う。母さんの守護石──ルラの石が宙に浮いて、僕の頭上を三周回って落ちたって。ルラの石は母さんの両親──人間のジョルジョ爺と、人魚の亡き祖母テラが、母さんを産んだ時に流した二人の涙の結晶だ。母さんを始め、人魚は守護石を肌身離さず身に着けていなければ生きていけないのだが、母さんはそれ以来距離を置いても苦しくないのだと云う。
「きっとルラの石の力は、もう母さんには必要ないと感じて、貴方の許に移ったのね」
多少なりとも石の発する魔法を使いこなすようになった頃だと思う。母さんは僕を眩しそうに見つめて、そう話した。
人魚は皆、生まれた時に命の源となる石を授かる。普通の人魚は、海溝に眠る先祖達が守護のために石と化して現れるが、母さんルーラやモカのように、人間と銀髪の人魚との間に生まれた金髪の人魚は、母親の涙を石として持つことが通常だった。が、前述した通り、ルラの石には父親ジョルジョの涙も交じっている。それは不思議な石なのだ。
何故金髪の人魚だけがそんな特殊な石を持つのかは不明だが、唯一産むことの出来る銀髪の人魚に原因があるのだろう。はっきりとは解明されていないが、銀髪の人魚こそがシレーネの純血を維持する人魚の中の人魚なのだそうだ。
人間と金髪の人魚の『狭間の子』として、歴史上初めて人間体の『男子』として生まれた僕は、石の力で海中でも呼吸が出来たり、結界の膜に一時的に穴を開けて出入りすることが出来た。だけどルラの石は母さんにとって、父さんの次に大切な宝物だ。出来ればむやみに持ち歩きたくない。それに自身の肉体の鍛錬と──そして、ティアと手を繋ぐための口実に、ね。
「これで良しっと。じゃ、アモール姉さんの所へ行きましょ」
ティアは魔法で穴を閉じ、次の目的地へと急かした。
「え……あ、何で?」
「もちろん、姉さんに二度とこんなことをさせないためよ。ジョエルから謝ってもらわなくちゃ。まぁ……母様には内緒にしておくから安心して。でも姉さん、どうやってそんな魔法を覚えたのかしら?」
そうして僕の手を引き、ティア達の暮らす東の館へと僕を誘った。
ルラの石を持たない時の僕は、ティア達人魚と触れることによって、彼女達の持つ石の力を利用し呼吸する。もう子供じゃないのだからと、ティアは手を繋ぐことを恥ずかしがるが、彼女に恋する僕にとっては絶品のひとときだった。
僕はカミルおばさんにも負けない美しく長い銀色の髪と、真っ直ぐに見つめるティアのひたむきな眼差しが好きだった。
そう、彼女も銀髪の人魚だ。偉大な魔法の力を持つ金髪の人魚を産むことの出来る唯一の人魚。が、まるで伝説と化してしまった大いなる力とは一体何なのだろう? モカは今のところ普通以上に普通の人魚であるし、母さんは人間になってしまった。
けれど僕にとって魅惑的で謎めいているのは、むしろティアの方だった。人間の力を借りずにカミルおばさんが独自に産んだ娘……その生まれ出でた時に、普通なら深海から得る筈の守護石は現れず、カミルおばさんが形見として大切にしていた母親テラの持っていた守護石──テーべの石が、僕の時と同じように宙に浮かんで、ティアの許へ移ったという……まるで運命を感じる神秘的な奇跡だ。
やがて泳ぎ進んだ暗い海の底に、岩山を切り出して築いたような東の館が見えてきた。
モカも母さんもこの館が好きではないと言うが、僕は嫌いじゃない。蒼く点る蝋燭の光が岩の凹凸に陰影を刻む様は、幻想的としか云いようがなかった。
「いらっしゃいジル……と、ティアがその様子だと、もしかしてバレちゃった?」
出かけようと門から出てきたモカと鉢合わせをして、こちらが謝る前に発せられた姉の台詞に、益々ティアは機嫌を悪くさせた。
「姉さんまで……! 二人共、反省してよぉ。ちょ、ちょっと姉さん、何処へ行くの? たまにはジョエルの面倒看て!」
「貴女の方がお似合いよ、ティア! ちょっと海溝まで、お昼寝に行ってきまーす」
モカは僕というお荷物を預けられまいと、そそくさと泳ぎ去ってしまったが……
「……僕って、そんなにお邪魔?」
遠く小さな点になってしまったモカを見つめるティアの隣で、僕は苦笑せずにはいられなかった。するとハッとしたティアは慌てて、
「あっ……あの、えっと……そういうつもりじゃなくて……その……」
と気まずそうに否定したので、僕もさすがに反省して、彼女に薄く笑んでみせた。
「分かってるから大丈夫だよ。でも……そうだよね。右手が使えない状態にしておきながら、邪魔かなんて訊いて……次からはちゃんとルラの石を持ってくるよ」
手を繋げなくなるのは残念だけどね。
「いえ、あのっ、ジョエル、そうじゃなくて……」
「ん?」
「う……ううん。何でもないの……」
ティアはおどおどした瞳を揺らしながら、未だ何かを言いたげに言葉を繋いだが、途中で俯き押し黙ってしまった。
何だろう……? いつものティアなら怒るか拗ねるかするところなのに。
それから僕達は重い門の向こうの部屋で、侍女達と話をしているカミルおばさんに挨拶をした。
「あらっ……ジョエル、久し振りね。アメルの船で来たの? ルーラも一緒?」
結界にはちょくちょく来ていたが、『仕事』で忙しいおばさんとはしばらく顔を合わせていなかった。相変わらず人魚の若さを保っているその表情が笑顔を作ると、ティアに似ていて少しドキッとする。
「ご無沙汰してしまいまして失礼致しました。“シレーネ様”」
そんな美しいおばさんに僕は跪き、その滑らかな手の甲に口づけをした。
シレーネ──人魚界最高の位。おばさんが母さんから受け継いで、もう二十年になる。
「益々立派になって……背も伸びたわね。でもその堂々とした雰囲気は一体誰に似たのかしら?」
おばさんは笑いをこらえるように口元を手で押さえて、背後の玉座に腰を掛けた。
「おそらくは母かと……。父の船で届け物をしに参りました。母は近所で集まりがあるそうで、今日は別行動です」
そうして背負っていた荷を降ろし、中からガラスや金属の容器を幾つか取り出して、補佐のマルタに手渡した。
「中身はシレーネ様の大好物、トマト料理を数品と、庭で採れた木苺のジャムです。両親から宜しく伝えてくれとのことでした」
「それは嬉しいわ。こちらからもお礼を伝えてね。何しろトマトや苺は海の中では育たないもの、貴重なご馳走よ。……ルーラもすっかり人間社会に溶け込んで、忙しそうで何よりだわ。でも……まさかあの子が料理の達人になるなんて思わなかったけれど」
おばさんは“おてんばルーラ”と云われた昔を懐かしく想い出し、マルタや他の侍女達も母さんの少女時代を思い浮かべて、皆で楽しそうに笑った。
「今日はゆっくりしていけるの? ティアラ、お相手をしてあげなさいね」
「えー……」
大人びた装いはあっても、未だ十四歳だ。母親の前では素顔を見せ、子供の表情を示す。
「いえ……本日は届け物を頼まれただけですから。父も船上で待っていることですし、これにて失礼致します」
「そう……私は未だ打ち合わせがあるので、アメルの許へは顔を出せなくて申し訳ないのだけど……今度ゆっくり船の上か海岸で会いましょうと、アメルとルーラに話してちょうだいね」
「承知致しました、シレーネ様」
丁寧な礼を捧げた僕に、おばさんは満足したように微笑み頷いた。それを認めた僕はティアの手を引いて退出しようとした──が、
「母様っ……私が、アメルおじ様にご挨拶しては駄目?」
珍しくティアが僕の動きを遮って、母親に問いかけたのだ。
「駄目よ、ティアラ……十六まで結界の外に出られないのは知っているでしょ?」
「でも……ちょっとだけよ! ほんのちょっと……おじ様と一言話すだけ!」
このやり取りは僕にもかなり意外だった。いつも優等生のティアが、人魚界最大の規律違反を申し出るとは。
そしてさすがにおばさんも驚いたのだろう、ティアの眼前まで近付き、優しく頬を両手で包み込んで、娘と視線を合わせた。
「分かっているわね、ティアラ……あと一年半、十六の誕生日までお待ちなさい。そんなに長い時間ではないわ……人魚の寿命では」
「……はい」
彼女は渋々と頷いて、真っ直ぐ見つめていた視線を尾びれの先へと落とした。
「ジョエル、この子を宜しくね」
おばさんは少し複雑な顔をしたままこちらを向いて、娘を僕に任せた。再び侍女達と話を始めたので、頑なに立ち尽くしたティアを促して静かに外へ出る。
「……」
ティアは進む前方をぼんやり見つめて黙ったままだ。あれほど結界の外に興味を示さなかった彼女が何故──?
「どうして……?」
僕が心の中の疑問を口にすると同時に、ティアも同じ言葉を発して驚いた。
「え……?」
「あ……えっと……どうしてジョエルは母様に、いつもあんなに礼儀正しいの?」
ティアの持つテーベの石の淡い翠色の光が、銀色の髪と白い肌を照らす。彼女の端正な顔立ちを更に際立たせて、僕はしばし言葉を失ったが、ティア自身は先程の母親とのやり取りを恥ずかしく思ったのだろう。僕にそれを忘れさせたくて投げかけた質問だったに違いない。
「もちろん、海の神ネプチューンに次ぐ、海の守り神だからさ」
僕の答えに、彼女は未だ不服そうだった。
「結界の中にいたら、外の海のことは分からないわ。それでも守り神と云えるの?」
「カミルおばさんは時々結界の外も見回っている。仕方ないよ……人間の世界が広がり過ぎちゃったんだ。人間の中には悪い奴がいるのも否定出来ないし。おいそれと出ていくべきじゃない」
「でも! ジョエルの周りの人は皆良い人ばかりなのでしょ? アメルおじ様もルーラおば様も……なのに私は赤ん坊の時にしか会えていない」
「ティア……」
彼女は哀しそうに俯いて、握り締めた僕の左手に力を込めた。
「大丈夫! 十六になったら幾らでも結界の外を案内してあげるから。さ……境界に着いたよ。いつものように笑顔で見送って。ティアは笑顔が一番可愛いんだから」
気を取り直させるように明るい声を出して、彼女の頤に手を掛け顔を上げさせた。おどけてウィンクしてみせても、未だ戸惑いはあるようだが、とりあえず納得して強ばった笑みを作る。
ティアが境界へ向けて掌を広げるや、うっすらとした白い膜にゆっくりと空間が広がった。彼女の魔法の力はここまでだ。その穴を維持することは出来ない。つまり外へ出たくとも、自身は通り抜けることが出来ないのだ。
「じゃあね、“ティアラ”。また来るよ」
僕は穴に足を突っ込んで、下半身だけを外に出し振り向いた。
「ジョエル……」
が、彼女は僕の手を放そうとはしなかった。
「ティア?」
そして彼女の澄んだ海色の瞳が、僕を釘付けにしていた。それは徐々に近付いてきて、けれど次の瞬間、我に返ったようにハッとしてその手を緩めた。
──ティア……?
彼女の指先が少しずつ遠のいて、外界から流れ込む海水が、銀色の髪を優しく撫でる。
ゆっくりと海上へ浮かび上がる僕を、塞がった結界の中から、ティアはいつまでも見上げていた──。
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