[恋守] -1-*
夏の陽に晒された肌に、夜の風が心地良かった。あれから小一時間ほど海底で休み、これからの予定を立てたり、モカからアドルと出逢ったいきさつなどを聞いたが、そうしている内に訪れた夕暮れ時には、既に彼等の船が近付いていた。
アドルとマレーアの父さんは漁師らしく、浅黒い肌と豪快な雰囲気を持ちながら、しわくちゃの笑顔はとても人懐っこそうだった。それでも大人の男性を見たことのないティアは、その顔を直視すら出来ないほど怖がってしまった。が、それもいつしか打ち解けたのは、美味しい夕食のお陰だったに違いない。
食後は順調に西走する船の上で、単純なカードゲームを二人に教え盛り上がった。その後初めて夜空を見るティアに星座を指し示しては、切なく甘いストーリーを物語った。彼女はそれにうっとりと耳を傾け、海上の世界を心から楽しんだ。
日中太陽の下で輝く銀色の髪も、月の燈りに灯された星を見上げる横顔も、海の中とは異なった鮮やかさだが、どちらの美しさにも違いはないと思った。もしかするとうっとりしているのは僕の方だったのかも知れない。初めての体験に恥らう姿も、姉弟に質問攻めにされ困った表情も新鮮で見とれてしまう。それでも僕と二人だけで話す時に見せる、信頼を含んだ和やかな笑顔が一番好きだった。もちろんそれはモカに対してと同じ、兄妹のような感覚の表れに過ぎないのかも知れないが。
「ティア?」
「あ……ううん。何でもないの」
僕の話に夢中になりながらも、ティアは時々思い出したように背後で話し込む三人に目をやった。やはりモカが自分以外と仲良くしている姿が気になるのだろうか。
やがてアドルがうたた寝を始めた。ぐずる弟を起こして船室に連れていったマレーアが、今度は夏休みの課題を抱えて戻ってきた。幸い僕の得意な数学だったので容易に答えてみせたが、船にまで持ち込む真面目さにいささか驚きを隠せなかった。
船上のレッスンが三十分も続いた頃、コンテナの端にしゃがみ込んだ僕達の頭上から、退屈を紛らわせようとモカが間に割って入った。ふと視線を右へ向けて見た先──船首に近い左舷の縁りに、ティアが蒼白い顔をして薄く笑んでいた。
「私、少し船に酔っちゃったみたい……ちょっとだけ海に戻って良い? 船の下をついていくから心配しないで」
「え? あ! ティア!!」
言い終わらない内に背中から飛び込むティアへ、僕は叫んで立ち上がった。一瞬淋しそうに見えたのは、気分が優れない所為だったのだろうか?
「良いの? あの子、きっと戻ってこないわよ?」
「……え?」
いつの間にか隣に佇んでいたモカが、船の進行方向を向いたまま問う。
「良いって……良い訳ないだろ? 帰ってこないって、結界に戻るってこと? 独りで!? ……モカ、前にティアが嫉妬してるって言ってたけど、それってモカが原因なんじゃないの? 僕と話していてもずっとモカ達の方を気にしていたし、今だって──」
「ジル、あなたって意外と鈍感なのね」
──え?
モカがゆっくりこちらを向いた。いつものような少し意地悪そうな瞳。何だよ……鈍感って。
「あの子の嫉妬の原因はあなたよ。あの子はジルの周りの人魚と人間にやきもち焼いているの。あたし達をチラチラ気にしていたのは、ジルを独占している自分が皆からどう思われているか不安だからよ。今回出てきて少し分かったけど──あなた、人魚界でも人間界でも、結構もてるのよ?」
そして背後で独り手持ち無沙汰なマレーアを一瞥して、僕に目配せした。──マレーアが僕に? それに……
「人魚界って……もしそうだとしても、成人前は皆、僕以外の男なんて見たことないのだから、そんなの一時の錯覚だよ。成人して人間と接触すれば……」
「そうお? ジル以上の男性と巡り逢えないって嘆いてる人魚は何人も居るわよ?」
「なっ……!」
「ともかく!」
いつになくモカが鋭い声を出した。睨みつけるような眼が真実を語っている。
「自分の気持ちに正直になりなさいよ。あなたはティアが未だ十四だから遠慮しているのだろうけど、そんなの関係ないわ。いいかげん早く結ばれてくれないと……こっちも踏ん切りがつかないの!」
「モカ……?」
涙目も喰い縛った口元も、初めて見るモカの一面だった。踏ん切りって……それって──。
「……あの子の鱗はあたしが持っているから、船を見失ってもまた追いつけるわ。それより早くしないとあの子を見失うわよ。さぁ早く!」
モカは潤んだ瞳のまま唇を歪ませて微笑んだ。何て自分は愚かなんだと思う……ずっと一緒に居たモカの、そしてティアの想いにも気が付かないなんて!
「あの……モカ。ありがとう」
僕は船尾を目指して駆け出した。遠くにうっすらとテーベの淡い光を確認する。すぐさま飛び込んだ。夜の海は黒々として、唯一の光であるティアを鮮明に指し示していた。
「ティア!」
彼女はまるで船を見送るように、こちらを向いて立ち止まっていた。僕は自分を包む空気の形を器用に変形して、上手く流れに乗せ彼女の許へと急いだが、僕に気付いたティアは慌てて背を向け東へ泳ぎ出してしまった。
「待ってっ……ティア!」
「どうして……!?」
やがて僕の右手は彼女の左腕を捉えた。海水に溶け込んで目には見えなくても分かる。ティアは泣いていた。
「放して……私、帰るって決めたの」
「何故?」
ティアの右手が僕を引き離そうとした。嫌だ──もう離したくはない。
「だって! 分からないのだもの……時々急に辛くなるの。胸が締めつけられるように苦しくなって……耐えられないっ」
「ごめん……ティア」
「え……?」
ああ……ティアは自分自身の気持ちに気付いていないのだと悟った。当り散らしてしまう理由も、苦しくなる原因も、もし分かっていたなら、ここまで彼女を傷つけることはなかっただろうに──。
「ジョ……エル……?」
ふんわりと彼女の背中に腕を回して包み込む。華奢な身体がすっぽり収まって、空気の層が次第に彼女を取り囲んだ。僕を守る空気は少しずつ彼女の甘い香りに染められ、この上なく心地良かった。
「ごめん……僕が悪いんだ。僕がもっとはっきりしていれば──ティア、好きだよ……ずっと、今までも、これからも──」
「あっ……」
彼女の頤を両掌で包むと、聞こえる鼓動と同じリズムで細い首筋が波打った。戸惑う瞳から溢れ出す涙が、僕の指の間を滑り落ちてゆく。
「ティアも……僕のこと、好き……だよね?」
僕の手に重ねたティアの手に力が込められた。嗚咽を堪えるように呼吸を止め、次の瞬間大きく息が零れる。長い睫に留まった涙が、まるで蜘蛛の巣に絡んだ雨粒のようだ。一度閉じた瞼がゆっくりと開かれた時、その大きな美しい瞳は真っ直ぐ僕の視線を貫いていて、僕の中を何かが通り抜けていった。
「す……好き……──」
頭がそれを考えるより早く、僕の唇はその言葉を僕の体内に封じ込めようと、ティアの唇を塞いでいた。柔らかく滑らかな質感が地球上の何物をも凌駕して、触れている部分からとろけてしまいそうだ。ティアの全身は僕の中で小さく震えていたが、背中側のシャツをギュッと握り締める両手は、以前と同じように頑なだった。
「怖かった……の」
目を閉じたまま胸に頬を押しつけたティアは、ぬくもりを確かめるように僕を抱き締めた。
「姉さんが外界へ出ていくのも、ジョエルが来なくなるのも……でも二人を追い掛けて外へ出る日が来るのも怖かった……その時にはもう、私のことなんて相手にしてくれないのじゃないかって──」
彼女を強く抱き締め返す。それが答えだった。僕達はゆうらり水の流れに揺られて、しばし同じ想いを分かち合った。
「行こう……」
「ん?」
「サファイア・ラグーンへ……僕はティアと一緒に居たいからこそ、其処へ行くんだ」
「……うん」
いつものように僕の左手と彼女の右手を繋ぎ合わせる。空気の膜は僕だけを取り巻いて、ティアは再び海の妖精に戻った。それでも先刻とは違う気持ちの結びつきが感じられた。ふと思い出す。これがモカの荒療治だったのかも知れない。そしてそれはティアのみならず、僕へ向けての物でもあった。
──モカ、ありがとう。
ティアの僕を映す瞳は愛に溢れていた。永遠に失いたくないと思った。その為にも僕はラグーンへ行かなくてはいけない。
僕達はテーベの石が導く船を目指して、西へと進み始めた──。