[破錠(はじょう)] -1-
「アモール、ジョエルの言うことをちゃんと聞くのよ」
「心配し過ぎよ、母様。父様の住むギリシャからだって、独りで無事に帰ってきたじゃない」
そして四日後、約束の時間。僕は夜明け前から出発の準備をして、心配を隠せないままのカミルおばさんと、意気揚々としたモカの目の前に居た。
父さんは仕事で航海中の為、此処までの移動はジョル爺にお願いをした。今朝は母さんも一緒に船の上で見送りだ。
「それは、そうだけど……」
今までも何人もの人魚達がサファイア・ラグーンを行き来しているが、母さんを除いた全員がジョル爺や父さんの船を利用してきたのだから、この異例の旅路がおばさんにとって心配なのは仕方がない。二十年前、母さんが父さんと共に旅立った時も、おばさんはきっと同じ想いをしたのだろう。
「ティア……見送りに来ないんだね」
まもなく出発という時刻になったが、ティアは一向に現れなかった。初めは周りから気取られないように彼女を探していたが、僕はともかく姉の見送りにも来ないなんて──そんな焦りがつい口から飛び出していた。
「心配しないで。あの子、必ず来るわ」
不安な面持ちの自分とは裏腹に、モカはやけに自信あり気だった。時々左手上方を見上げてはニッと笑う。
「ルーラとアメルの旅立ちを思い出すねぇ」
ヘラルドはそう言ってモカと僕を感慨深く見詰め、僕はマルタから食糧の入った荷を受け取った。モカを強く抱き締めたカミルおばさんがゆっくりと退く。それは出発の時を告げる緊張の瞬間だった。
「母様、みんな、行ってきまーす!」
モカがプシケの背に乗りそう叫んだので、僕もそれに続いた。普通なら結界の中を西の端まで移動する為に乗せてもらうのだが、一気に上昇し境界を抜け、海面へ向けてジャンプする。すぐ傍らの船からジョル爺と母さんの手を振る姿が見え、僕達もそちらへ向けて大きく腕を振った。
──やっぱり来なかったな……ティア。
境界に沿って結界の上をスイスイと泳ぎ進むプシケの背中で、モカに気付かれないように小さく溜息をついた。
前途多難だな、と思う。
気恥ずかしさが手伝って、両親やカミルおばさんにラグーンへ行く目的を話せなかったことはともかくとして、ティア本人に告げずして旅立つなんて──いささか無謀にも程があったかも知れない。が、彼女に本当のことを話したら、反対するのは目に見えていた。可能性の問題だ。今は未だ秘密裏に動くことも間違いではないと思おう。
「ルーラおば様とアメルおじ様も、こうしてラグーンを目指したのでしょ?」
ぐんぐん前進するプシケの上で上手くバランスを取りながら、モカがこちらを振り返った。短めの金髪が頬に絡んでサワサワと揺らいでいる。
「ん? ああ、でもプシケに乗っていたのは結界の中だけだよ。今回はどうするの? ラグーンまで連れていくつもり?」
「ううん。途中で帰すわ。結界に置いてきた娘が心配で仕方ないみたいだし……ふふ、あたしと反対ね」
プシケの勢いが止まらないのはそういう理由か、と納得した。早々に送れば一刻も早く結界に戻れる。しかしそう言ったモカ自身が、突然プシケの目を塞いで、彼女の進行を止めていた。
「モカ……?」
「来るわ」
──え?
モカは僕の後ろ、遠い向こうを見詰めて再びニッと笑った。
「来るって、一体何が……?」
「んふ。ジルの大好物」
そしてモカはウィンクをした。
やがて目を向けた先に小さな点が現れ、それは本当に近付いているらしく、少しずつ大きくなってきていた。僕の大好物? 動いているからには生きているのだろう……が……──!?
「えっ……?」
一直線に向かってきたのは、プシケと同じシャチに見えた。止まっていたプシケがその気配に一気に方向転換したのだから、おそらくは娘のシェルなのだろう。シャチより先に反応するなんて、これが金色の髪を持つ人魚の特異な力なのか。いや、そんなことより、誰が一体シェルを結界の外へ逃がしたというのか。
「……!」
シェルが近付くにつれ、僕には徐々に全貌が見てとれた。シェルの背中には僕達のように人が乗っていた。人、じゃない……人魚、だ……銀色の髪の人魚──ティア──?
「……さん! 姉さーん!」
「ティア!」
目の前のモカは待ち侘びたようにニコニコと手を振って、妹の呼び声に応えていた。──ちょっと待て。何故この結界の外に彼女が居るんだ!?
「……ジョエル!」
「え……?」
間もなく到着というところで、モカが僕の腕を掴み、突然海中へ放り出した。母親を目指すシェルから飛び降りたティアは、僕へ向け手を伸ばし、暗い海底へと落ちてゆく僕の胸の中へダイブしていた。
「ティア……?」
やがて僕達は終点に辿り着き、ごつごつとした地面の上に仰向けになった僕の上で、顔を上げたティアの鼻先はいつになく近かった。
「……どうして……?」
「だって……!」
「ティアー!」
シェルと併走するプシケに乗ったモカが、僕達を目指して降りてきたが、その表情はしてやったりといった様子だった。生真面目なティアのことだ、そう簡単に規律を破る筈がない。これは全てモカの仕業に違いない!
「ちょっ……どういうことだよ、モカ!」
僕は体勢を立て直して、到着したモカに喰って掛かった。ヘタをすればラグーン行きを止めさせられかねない位の大事だ。
「あら……怒られるなんて心外。喜ぶかと思ってたのに」
目の前に座り込んだモカは悪びれた様子もなく、ペロッと舌を出してみせた。ああ、もう……全く意味が分からない……。
「とにかく……ティア、カミルおばさんが気付く前に戻るんだ! どうせモカが結界に穴を開けてこさせたんだろ? って、シェルが通れる程の穴を開けてきたの!? そんな……悪戯好きにも程があるって!」
「戻らないわ」
──!!
焦る僕の止め処ない嘆きを一刀両断にしたのは、ティアの冷静な一言だった。
「いやっ……え……?」
「意を決して出てきたのだもの。帰らないわ。私も二人と一緒にサファイア・ラグーンへ行きたいの」
僕を見詰めて話すティアの表情は真剣だった。これまで目も合わせず、ずっと避けられてきたというのに──。
「ティア……何を言っているのか自分でも分かってるの!? ラグーンには誰でも七日間しか居られないんだ。ちゃんと成人した時の為に時間を残しておかないと……第一、モカだって見送りに来てほしくて、こんな悪戯したんだろ? 十分満足したんだからこれ以上は──」
「違うわよ」
説得を遮って放たれたモカの一言に、僕は唖然として顔を向けた。
「この子も連れていくのよ、ジル」
「なっ! ……何、言ってるんだよ!」
「も~う、興奮しないで。ティアも行きたいって言うんだから良いじゃない。十六まで外に出られないなんて、親達が勝手に決めた規則だもの。この子はあたしやそこらの十六歳よりずっと頭が良いのだし。それに、ね」
モカは適当な理屈をこねて、話の途中でそれをティアに手渡すように妹と視線を合わせた。すると、
「──私もアーラ様にお願いしたいことがあるの」
回り回ってティアの視線は僕の所に戻ってきた。
「何を──」
「ジョエルが教えてくれるなら、私も教えるわ」
「えっ? あ、いや……」
そんな真正面からストレートに問われたら、動揺せずにはいられない。お願いって──成人までのあと一年ちょっと、待てないことなのか。
「まあまあ、もう良いじゃない。これで万事仲直りといきましょ。久し振りに三人で集まれたのだし。ティアも母様に置き手紙してきたのでしょ?」
──仲直りって、三人でって、置き手紙って……!?
開いた口が塞がらないまま、モカは着々と話をまとめてしまっていた。
仲直りだなんて、喧嘩をしたつもりもないし、三人で会えなかったのは二人の所為だろうに……とばっちりも良いところだ。
「真摯に書いたつもりだけど、母様分かってくれるかしら……」
けれど驚きが落ち着いて、怒りがこみ上げてこようとしていた僕の心を、ティアの不安が鎮めていた。仕方なく僕は一つ大きく息を吐いて、
「海上には母さんが居るのを、カミルおばさんも知ってる。手紙を見つけて取り乱しても、母さんが上手くまとめるよ。……ティア、本当にラグーンへ行きたいんだな?」
彼女に向けて投げた言葉の終わりに、ティアが緊張した表情を見せたのはすぐに判った。──少し恐い顔をしていたのかも知れない。
「あ……は、はいっ」
慌てふためきながら即答するティアを横目に、ついに観念する。説得出来なかった自分も情けないが、了承を得たことで久々笑顔を見せたティアに、鼓動が早くなる自分もかなり情けない……。
「良かったー! ついに出発ね!! プシケ、もういいわ。ありがと」
モカは誰よりも喜びを顕わにして、早速立ち上がりプシケの目の下にキスをした。プシケもモカに頬擦りをし、娘を傍らに結界へと僕達に背を向ける。
「ああ、でも一つ」
プシケ達を見送って目指す方角を望んだモカを制し、ティアに告げた。
「約束して、ティア。ラグーンへ着いたとしても、アーラ様は許可しないかも知れない。その時は潔く結界へ戻ると……良いね?」
もちろん彼女を独りでなんて帰したくはない。いや、そうなったら自分が送ろう。モカが七日を終えるまでには、何とかラグーンへ戻れる筈だ。モカを結界へ送ったら再び──幸い僕には時間がある。
「……分かったわ、ジョエル。あの……」
「ん?」
凝りのない表情で僕を見詰めるティアは少し懐かしく、そして少し幼くも見えた。
「あの……ありがとう、ジョエル……」
──負けたよ、ティア。
俯きはにかんで言われても、照れるような台詞ではないのに。ドキッとする自分が居た。第一感謝されることなど何もないのだ。僕は『それ』を決められる『シレーネ』じゃない。
それでも。
「さ、行こう」
いつも通りのティアが横に居ることが、何よりも嬉しくて仕方がなかった──。
◇ ◇ ◇
「寝ちゃったわ……さすがに疲れたのね」
比較的浅瀬の砂地を見つけたのは、海上にも夕闇が広がる頃。預かった食事を分け合って済ませると、ティアは次第に口数が少なくなり、いつの間にかその細い背を向けて眠りに落ちていった。
「まったくね……モカのおてんば振りは、母さんの比じゃないよ」
丸みのある石に腰掛け、膝に頬杖を突く。モカを横目で視界に入れて、僕は何とも言えない溜息を吐いた。
「で……何故連れてきたの?」
「連れてきたんじゃないわ。この子が来たいと願ったのよ」
お腹の満たされたモカも少し眠そうな顔になったが、今という時を逃してはいけない。訊きたいこと全てに答えてもらわなくては──。
「『アーラ様にお願いしたいことがある』っていうの? でもそれは十六まで待てないことでもないのだろ? モカがそそのかさなければ、こんな大それたこと、ティアがする訳が……」
「そうね」
最後まで話す間を与えず、意外にも神妙な顔つきでモカが口火を切った。
「ティアは『変化』を怖れてる……それは昔の人魚達に共通する性格だけど、今の人魚の中ではティアぐらいなものだわ。あの子は純粋な銀髪の人魚なのよ。純粋な半人半鳥の血を継ぐ人魚の中の人魚──」
──モカ……?
「最近のティアは明らかに、あたしの成人によって独りになるのを不安に思ってた。一年後にはジルも学校を卒業して、仕事に就けばもう結界に寄りつかなくなると思い込んでいたしね」
「そんなことっ……!」
──ある訳がない。僕が結界に行かなくなるなんて──。
「僕の環境が変わっても僕自身は変わる気はないし、それにその半年後には、ティアも成人して外へ出てくるじゃないか」
焦りを顕わにした僕に、モカは少し同情するような淋しそうな視線を投げた。まもなく伏目がちになり、再び話を始める。
「確かにあと一年半もすれば、ティアも自由だわ。でもあの子自身が出たいと思っていない……あたしもジルも居ない結界に慣れた頃に成人を迎えても、あの子はきっと閉じ籠るだけよ」
「だから、今? 一緒に? それは甘やかしてるだけじゃないの?」
「違うわ、逆よ。荒療治」
モカはそう断言してウィンクをし、ティアの傍らに横になった。
ウィンク──そう言えば、いつだかにもそんなことされたような……?
──「んふ。ジルの大好物」
「あっ……!」
それほど大きな声を出したつもりはないが、ティア同様背を向けたモカが一度振り返り、「おやすみ」と呟いた。
──モカ……気付いているの? ──僕の気持ちに。
けれど確かめようか迷っている内に、彼女は静かな寝息を立て始めてしまった。
こうして波乱に満ちた旅の一日目が、僕を置き去りにしたまま過ぎ去ろうとしていた──。