[祝祭] -3-
「──」
僕は東の館に居た。
約束通り父さんは二日後に僕を結界の上で降ろし、船員達と共に次の仕事へと向かっていった。そして僕はシレーネに面会を乞い願い、承諾されたのだ。
「……良いでしょう」
跪いて頭を垂れ、返答を待ち焦がれていた僕に、その許しの言葉は即時ではなかったが、疑念などを持ち合わせたような歯切れの悪いニュアンスは感じられなかった。
その声にハッと喜びの顔を上げた僕だったが、再び気を落ち着かせて、礼を述べる為に深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、シレーネ様」
この部屋にはカミルおばさんと僕、そしていつもの取り巻きの侍女達にティアも同席しているが、彼女は自分の背後に居て様子が分からない。シレーネの後ろに佇む侍女達はにわかにざわめき出したが、
「但し、条件が有ります」
カミルおばさんの次の句に、突然沈黙が訪れた。
「ジョエル……四日後にアモールもラグーンへ向け出発します。ジョルジョ父様にお願いして、ラグーン傍まで送ってもらうように諭したのだけど、あの子、頑として聞かないのよ。自力で辿り着きたいと……」
今までシレーネの顔をしていたカミルおばさんが、瞬く間に母親の表情を見せた。長い旅路を独り自走したいと云うのだ。娘が心配なのも無理はない。
「条件とは……モ、いえ、アモールと同行せよということでしょうか?」
僕の言葉と同時に、後ろで何かが動いた気がした──ティア?
「ええ。お願い出来ないかしら?」
「……アモールが了承すれば、僕は構いませんが……」
背中に感じた違和感は、すぐに消えてしまった。ティアは何かを言いたかったのだろうか? それを確かめるべく振り向いた時には、既に彼女の姿はなかった。
四日後の朝にモカと出発する為、再び此処を訪れることをカミルおばさんに誓った僕は、港近くまで送ってもらおうとシャチのプシケを探しに館の外へ出た。いや、実際はティアを探していたのかも知れない。ラグーンへ向かう前に、理由すら分からないこの妙な蟠りをどうにか払拭したいと思っていた。
「ジョエル……」
人魚の躯が眠る海溝の傍までやって来た時、その声は右手の方からして、僕はそちらに顔を向けた。静かに立ち尽くすティア。祖母テラの宿るテーベの淡い翠色の光が、彼女の銀髪を複雑な色に見せる。
「ティア……何を怒っているの? 僕が悪いことをしたのなら、ちゃんと謝るよ」
「怒ってなんかないわっ!」
極力優しく問い掛けたつもりだったが、ティアは僕のそんな言葉にも激しい反応で全てを拒絶した。まるで心が燃え滾るように、全てを焼き尽くさねばいられないように。
「どうしちゃったんだよ、ティア。ずっと一緒に居た僕だって、話してくれなきゃ分からないこともあるんだ」
彼女との距離を近付けようと数歩歩み寄ったが、同じだけ離れるティアは、心もそうなのだと言っているようだった。
「ずっと……? そう……ずっと三人だった。でもっ!」
「でも……?」
モカとティアと僕。それこそ僕は彼女達の生まれた頃から一緒だった。もちろん毎日は来られなかったけれど、一日何時間も居られなかったけれど──。
「分からないのっ! 分からない……私、どうしてこんな風になっちゃったの? どうしてっ!?」
頭を抱え込むように両手を押し当てて、塞いだ瞳は苦しみを表していた。自分ですら分からない苦しみって……──。
「どうしてっ! どうして行くの? サファイア・ラグーンに何があるの? ジョエルは人魚じゃないっ! なのに、どうして……?」
その時だった。
「ジョエルは……人魚じゃない……」
ティアの激しい腕が、僕を掴まえていた。
「ティア……」
後ろに回された手が、背中側のシャツをギュッと握って離さなかった。彼女の顔は僕の胸に押し当てられて、その表情は見えなかった。僕を包む空気の膜がひしゃげて、海水が僕を濡らす。いや、彼女の涙なのか?
「僕は人間じゃない……人魚の子、だよ」
その言葉と共に彼女の両肩に置いた手は小さく震えていた。ティアの震えが移ったように。滑らかな肩は嗚咽を我慢するように時々波打っていた。抱き締めても良いのだろうか? 彼女が今、僕にそうしているように。
「ごめんなさい……私、きっとおかしいんだわ」
けれどその途端、ティアはすっと後ろへ離れて、何もなかったような落ち着いた顔で笑った。
「ティア?」
「気を付けて行ってきてね。アモール姉さんのこと、お願いします」
「あ……いや……」
ティアはモカがそうするように、僕もまた君から離れていくのだと思っているのだろうか。モカだって、そうだとは限らないのに──?
「ティア!」
笑顔の彼女は僕の目を一度たりとも見ずに、まるで最後の別れのような丁寧な礼を捧げて、館の方へ去ってしまった。
──まったくの逆なのに……。
君を置いていくんじゃない。君の為に彼の地へ行くんだ──僕の未来を決める、あのサファイア・ラグーンへ──。