自己の運命を担う勇気を持つ者のみが英雄である。
『死した魂は何処かへと運ばれていく』
清貧教ではそう教えられていた。肉体とは違い魂は不滅であり、肉体的な死と魂の死はイコールでなく、肉体を失った魂は《楽園》と呼ばれる異界に運ばれ、そこには地上とは違う快楽が待っていると言う。勿論、そこに行くには現世で清貧の神である《エリヒ》に貢献する必要があり、神の教えに如何に従い生きるかがそのカギとなっている。
逆に教義に背いた者は全てが黄金で出来た地獄に落ちる。欲望に溺れた亡者に相応しい、黄金地獄へ。
だが、今目の前に座す神使は《生まれ変わり》と口にした。死後の世界の存在を認める清貧教において、そのような概念は存在しない。
魂は永遠不滅なのだから、新しく生まれることも、変わることも有り得ない。
「それは人間の愚かさ故のこと。魂は大いなる流れの中にあり、うつろう物なのだ」
「しかし、それは教義と違います」
「なんだ? 私の言う事が信じられないのか?」
「いえ、そう言うわけでもないんですけど……」
聖典は元を糺せば《最初の一人》が神使より授かった預言なのだから、神使がそう言うのならば『そう』なのだが、今まで信じて来たものを捨てるのも簡単ではない。
と言うか、『私の言う事が信じられないのか?』と言う台詞があまりにも俗っぽくて信憑性が感じられない。が、他ならぬ神の使いがそう言うのだ、そうなのだろう。
反論した所で自分の無知さを晒すだけだ。建設的に話を進めよう。
「それで、産まれ変わるとどうなるんですか?」
「例えば――」貌の無い神使は、じっとゲオルグをみつめた。「――その右目」
「右目……」
ゆっくりと、ゲオルグはその台詞を鸚鵡返しにして、火傷で潰された右目を撫でる。
「知っているぞ? 実の母に鉄鏝で潰されたのだろう? 乞食の稼ぎが少ないから、もっとみすぼらしくなるようにと。半ば、自分の苛立ちを発散させる為に、貴様の右目を焼いた」
「良く、ご存知で」
「転生すれば、それを回避できるかもしれない。記憶と力を持ったまま、新たに位置からやり直すのだ、人生を」
人生をやり直す。
その言葉の意味にゲオルグは傷だらけの身体が僅かに震えるのを覚えた。
「今の貴様ならば、その悲劇は起きまい。たった銀貨七枚で人買いに売られることもなかったかもしれないな」
人生を狂わせたと言っても過言ではない火傷を『なかったことにできる』。
それはその後の人生に幸福を約束するものだろう。
「そうなれば、裏ギルド《白闇》に堕ちることもなかったぞ」
おぞましい暗殺者集団《白闇》。血塗られた裏の世界の住人となったゲオルグはそこで六年の月日を過ごした。師であるヨーハンに暗殺者としての業を仕込まれ、十三になるまでに無数の要人を殺し、その手を血で染めて来た。
宿敵アンセルムスとの出会いもこの暗殺者時代のことだ。もっとも、出会いは穏やかな物だった。同じ《白闇》に売られた暗殺者見習いの一人であり、同僚と言うか仲間と言うか、幼少期を共に過ごした友人だ。……穏やかではないか。
友人で会ったアンセルムスとの関係が大きく変わったのは、十才になった頃。ベガと言う少女が新しく《白闇》に売られてきたことが発端だった。
ベガは市民街出身の女の子で、特別な魔法の力を持った存在であったらしい。より上位の存在をこの世界に呼び出すための触媒であり、《白闇》がより大きな力を持つために必要な生贄だと、ヨーハンには説明を受けた。
しかしそんな彼女の魔法的、政治的な要素よりも、幼いゲオルグは彼女の美しさに惹かれた。上位存在への捧げ物であるだけあって、彼女の美しさには比肩しうる物は、空か海か、と言った所だろうか?
歳が近かったこともあり、ゲオルグとアンセルムスは仕事や訓練の合間にベガの話し相手をさせられることが多々あった。貧民街の最下層で産まれ、深い闇の世界で育った彼等にベガの存在はあまりにも眩しく、自然と惹かれていった。
二人は競うようにベガの部屋を訪れ、話をし、贈り物をし、彼女に好かれようと振る舞った。
そして二年後。
『ねえ。私をここから出して。お父さんとお母さんの所に返して』
ベガは涙ながらにゲオルグとアンセルムスに懇願した。
ゲオルグは《白闇》とヨーハンの強さに首を横に振った。
アンセルムスは真っ直ぐに首を縦に振り、力強く「わかった」と答えた。
「その二週間後、私は師ヨーハンと共にとある任務に就きました。場所も相手も教えてもらえない。極めて秘匿性の高い任務で、師は『君の進路を分けることになる』と言いました」
「貴様が《白闇》を抜けたのも、その日だったな」
ゲオルグは無言でうなずく。
場所は港の外れの倉庫。殺せと言われたのは、四日前に脱走したアンセルムスとベガであった。
『何でそっちにいるの? ゲオルグ』
『お前はベガがかわいそうじゃあないのか! ゲオルグ!』
二人は薄汚れた格好で倉庫の隅で互いに肩を寄せ合っていた。皮肉や諧謔ではなく、心の底から『お似合いの二人だ』と感じ、産まれて初めて祝福をしたい気持ちになった。
そして《白闇》と言う組織の強大さ怯え、二人を裏切った自分を強くゲオルグは恥じた。
「だから、私は二人を殺せませんでした。ヨーハンはそんな俺から興味を失った様に目を逸らすと、ベガ達に向かって走り始めました。その後は、よく覚えていません。ただ、俺はどちらに味方することもなく、曖昧な気持ちのまま剣を振ったように思います。そして、波打ち際に打ち上げられている状態で発見され、俺達が闘った倉庫は完全に消失していました。そこに、死体はありませんでしたが」
「そこで、貴様は父の様に慕っていたヨーハンを失い、無二の親友であるアンセルムスを失い、初恋の感情と共にベガを失った」
戦いの末に帰る場所を失ったゲオルグは清貧教会に保護されることとなり、その技量から聖堂騎士の見習いとなった。出自のわからない少年を受け入れることに多少の問答はあったようだが、十分に実践的に戦えるゲオルグの力量を手放すこともできなかったようだ。暗殺者としての能力も教会にはない物であり、重宝された。
ゲオルグは聖堂騎士となるべく、三年程は聖堂教会付属の学院で大して信じてもいない《エリヒ》の教えを学び、各地の教会を転々として実力を着実につけて行った。
その中で《白闇》の噂は幾度も耳にすることとなる。
幼児の売買。怪しい薬。暗殺の依頼。異常発生する魔獣の出現。
最悪の魔導師ヨーハンと、その弟子アンセルムスの悪名。
留まることのないその被害に、ゲオルグは自ら《白闇》の調査役に立候補をした。少なくとも《白闇》以外でヨーハンの手の内を知っているのはゲオルグだけであろうし、決着をつけるのは自分でなくてはならないと言う使命感の様な物が芽生えていた。
既に《白闇》に所属していたよりも長い時間を清貧教会で過ごしたゲオルグは、教義に厚い関心を持つことはなくとも、暗殺者として手にかけて来た人々の命の重みを感じるようになっていたし、アンセルムスとベガにもう一度会いたくもあった。
あった所で、何を話すべきなのかもわからないが。
「そして、二十歳を少し過ぎた所で、《白闇》の儀式場へと騎士団全員で乗り込みました」
儀式場は自然の洞窟を利用したと思われる前時代の遺跡だった。蟻の巣状に広がる地下遺跡は星空に対応した立体的な魔法陣として機能しており、そこでベガを触媒にして大量の生贄を捧げ、上位存在をこの世に呼び出す予定であった。
上位存在と言う言い方は曖昧として伝わりづらいが、語弊を恐れずに言うのならば《神》だ。そして生贄と言う魔術儀式の本質は《失われたものの補填》の一言に尽きる。この世から何かを捨てた分だけ、神界から《力》が流れ込むと言う思想の元に行われる儀式が生贄であり、捨てる物が貴重であれば貴重である程、得る力は大きくなる。
この時は、実に一〇〇〇人にも及ぶ人間の命と、様々な貴重な魔術的資源が名も忘れら他神に捧げられようとしていた。
「ベガさえ儀式場から遠ざけることが出来れば、儀式は発動しなくなる。そう考えた騎士団の目標はベガの殺害でした。あの時、俺が殺しておけば……そう思うと自然と俺の肩には力が籠りました」
「だが、生半なことではなかった」
その通りだった。
敵は強大。最終的に儀式場の最深部に辿り着いたのはゲオルグのみ。ペアを組んでいた先輩の騎士はヨーハンとの戦いでゲオルグを庇ってあっけなく死んだ。「娘を頼む」と言葉を残して。
他にも沢山の騎士が死んだ。
仲の良い奴も、悪い奴も。馬鹿も、気障も、男も、女も、老いも、若いも関係なく、死んだ。
それだけの犠牲を出しても、ゲオルグは間に合わなかった。既に儀式は完成していたのだ。
血で染まった最深部には、狂気に侵されたベガ。大量の《力》に触れたが為に、完全に正気を失い、理知的だった顔にその面影はなく、自分の髪の毛を引き千切り食べていた。そんな姿ですら、ゲオルグは美しいと思い、同時に二度とあの時の時間は戻ってこないことを知って少しだけ泣いた。
そして肝心要。上位存在は――――何処にもいなかった。
儀式は失敗していた。
いや、大量の生贄だった死体が異質な生物の姿へと変わり、儀式の触媒を担ったベガが正気を失って狂乱していたことを考えれば、儀式自体に問題はなかったと考えるのが自然だろう。
間違いはただ一つ。上位存在なんて物が、本当はいなかっただけ。
存在しない神の為に、《白闇》は幾つもの屍を重ね、清貧教会は数多の被害者を出し、ゲオルグとアンセルムスはとても清算できない業を背負い、ベガは自我を失ったと言うのだ。
なんて、滑稽だろうか?
「俺は、二度と正気に戻ることがないであろうベガを殺しました。あまりにも、哀れで」
「そこを、アンセルムスに見られたのだな?」
「ええ。途中で遺跡自体が崩壊を初め、俺はベガの首を抱きかかえるアンセルムスの呪詛の言葉に背を向けて脱出しました。『お前が最も幸せな時に、それを奪ってやる!』だったかな?」
生き残った僅かな清貧教会聖堂騎士達は、それぞれ違う管轄の騎士団へと飛ばされ、それぞれが日常の任務に戻ることになった。
ゲオルグは遠い北の僻地の聖堂へと移動することになり、その横には死んだ先輩騎士の一人娘の姿があった。
「先輩は奥さんと死別していましたから、彼女――エリーは孤児院に預けられることになっていたんですが、私が引き取りました。エリーは私にも良く懐いてくれていましたし、先輩に頼まれていましたからね。反対する人もいましたけど、結局は司祭様の一声で決まりました」
「贖罪か?」
「どうでしょう? ただ、彼女は喜んでくれましたよ」
それからは、今までの人生が嘘の様に穏やかに時が流れて行った。無論、実力のある騎士として過酷な任務にも何度も就いた。死にかけることもあった。それでも、波乱の半生と比べれば、予期しうる範囲のトラブルの内だ。
そうこうして、七年の月日が流れ、ゲオルグよりも先にエリーの結婚が決まった。ゲオルグの元で修行する騎士の一人で、才能があるとはお世辞にも言えなかったが、心優しい青年で、エリーと一緒であれば幸せな家庭を作れるだろうと感じた。
交際を報告しに来た二人はあっさりと認めてくれたゲオルグに少々肩透かしを喰らったようで、その表情に珍しくゲオルグが笑い、二人はますますおかしな表情をした。
「そんな中、アンセルムスの字で書かれた手紙が届くようになりました」
「幸せの絶頂――か」
「はい。自分の結婚でないことが情けない限りですが、結婚する気もなかったですし、妥当なタイミングでしょう。私はアンセルムスを探しました。殺して貰う為に、です。彼にはその資格がある。そう思っていました」
元より、隠れるつもりがないのか、アンセルムスは直ぐに見つかった。憎悪によって燃える復讐鬼は、ゲオルグを見ると殺気もなく静かな声で言う。
『どうしてお前を殺さなくてはいけない?』
『俺が壊すのは、お前ではなく、お前の幸福だ』
『結婚式を楽しみにしていろ。お前のせいで沢山の血が流れる』
『何度でも、お前が幸せを掴み取ろうとする時に俺は現れるぞ?』
血走った眼で、楽しそうに笑いながら、感情なく淡々と告げるアンセルムス。嘗ての友の姿に、ゲオルグは静かに剣を抜いた。自分が殺されるのであれば黙って受け入れる覚悟もあったが、その対象がエリーとなると言うのなら話は別だ。
彼女の幸福の為に、ゲオルグは闘わなければならなかった。
剣を構え、殺意の眼でアンセルムスを睨み付けると、復讐鬼は本当に犯しそうに哂った。耳障りなその笑い声が、地下遺跡で戦ったあの時よりも更に成熟し、歓声に近づいた二人の魔術師による戦いの火蓋が斬って落とされた。
二人の戦士の闘いは激しく、街の騎士団が駆け付けるまでの時間に、農業用水路へと流れる川の一部が地図から消え、その場から逃げ出したと思われる魔獣達の大群によって商隊の護衛が四人死んだ。
多勢に無勢を嫌ったのか、逃げて行ったアンセルムスを騎士団が見ていたのはゲオルグにとって僥倖だった。強大な魔法使いの凶行をゲオルグが止めたと言う形でその件は解決されることになった。その罪を償うべきなのだろうが、それは嘗ての親友の息の根を止めてからでいい。
「そして、半年間、エリーの結婚式まであいつの背中を見つけることすらできませんでした。俺の幸せの絶頂が結婚式である以上、当然のことだったかもしれませんけどね」
結婚式は嵐になった。春の嵐は豊饒の嵐とは言え、結婚式に相応しいとは言えない。が、ずっと準備し続けた式の日程をずらすことは不可能だ。
『ま、こっちの方が皆の記憶に残るかもね!』
エリーはそんな風にゲオルグに笑った。それはゲオルグが最後に見た彼女の笑顔になった。花嫁衣装に着替える為に別室へと移動した彼女を見届けると、ゲオルグは誰にも気付かれないように静かに聖堂を後にし、その裏手側に聳えるように立つ崖の上へと上った。
「なんとなく、そこにいるような気がしたんです。実際に、奴はいました」
「そして、殺し、殺されたわけだ」
神使は厳かな声で言った。ゲオルグは静かに頷く。
「あいつらが幸せになるなら、私にしては良くやったでしょう。彼女達の幸福に私の姿がいないのは、少し悲しいですけど。そもそも私には幸せになる資格がない」
「本当に、そう思っているのか? ゲオルグ」
「え?」
「貴様は自分の人生に満足か? 幸せになりたくはないか? 母に売られ、子供らしい遊びをすることもなく殺人で糧を得て、初恋と友人を一緒に失い、師に見捨てられた。騎士として人の為に働くことで自責の念から逃げる青春を過ごし、存在しない神の為に争って仲間を失い、狂った初恋の少女をその手で殺めた人生をやり直したくないか? 嘗ての親友と互いを呪いながら殺し合ったのが最後の記憶で十分か?」
「…………」
「我は貴様の幸せを祈る者だ。最初からやり直せるとしたら、もっと上手く生きて行けるだろう?」
「それが転生、ですか? 新しく人生を始められる……」
「そうだ。どうする? 幸せが欲しくはないか? 若き聖騎士よ」