勇敢な騎士の生涯も、名誉がなければ無意味なものだ。
『肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。
芸術家である以前に、人間であることだ。』
――フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン
ゲオルグが目覚めると、そこは白い空間だった。距離感がおかしくなる程に世界が白一色に塗り潰れている。極めて非現実的なその空間は到底人間が造り出せるようには思えず、その御業に神々しさを感じると同時に、人知を超えた存在の証明に禍々しい物を感じざるを得ない。
ならば、そこに座すのは一体何者だろうか?
家屋程はあろうかと言う巨体。力強い四足の肉食獣の身体。背中には猛禽を思わせる逞しい翼。王冠を思わせる威厳溢れる鬣。そして、暗黒の貌。
清貧教の聖騎士として少なくない魔獣や魔物の類と戦ってきたゲオルグをして、その化物には見覚えがなかった。最も近い化け物で言えばドラゴンが最も近いであろうが、鱗もなければ角もない。が、それが龍に劣る証拠と言うわけでもないだろう。
何よりも無貌。夜の空の様に深い闇に覆われたその顔が、異質さと本質を表していた。
決して、理解が及ぶ存在ではないのだと。
「清貧教会聖堂騎士団北花壇部隊序列七位ゲオルグだな?」
あまりにも異質な存在に戸惑う隻眼の聖騎士の名前をそれが言った。威厳に満ち溢れた強者の声は、真っ白な空間そのものを揺らし、それの持つ力の強大さを物語っている。
「はい。貴方は?」
例え自分が百人いたとしても勝てないであろう化物の放つ圧力に、ゲオルグの声は自然と渋い物になる。愛剣や盾はおろか、傷だらけの鍛えられた肉体は一糸すら纏っていない。百戦錬磨の戦士であるとは言え、化物が少しでも害意を抱けば為す術もなく殺されてしまうだろう。
「清貧の女神『エリヒ』が使いの一柱である」
「神使様?」
化物の説明に、ゲオルグは思わず胡散臭そうに眉根を寄せる。彼の所属する清貧教会の主神『エリヒ』は半神半人の神であり、その使いは白鳥の翼を持った乙女だと伝承に伝わっている。誰がどうみても、眼の前の化け物の姿は伝承とは違う。魂を喰う悪魔だと言われた方が納得いくだろう。
「聖書と姿が違うか?」
「えっと、まあ」
まさか、『女の子にされていますよ』と言うわけにもいかず、ゲオルグは言葉を濁す。羽根が生えていることくらいしか原型がないなんて、あまりんだろう。少なくとも、ゲオルグは後世で自分が女として扱われていたら複雑な気分になる。
「しかし神使様。ここは何処でしょうか? 私はどうしてここにいるのでしょうか?」
姿に対して突っ込まれる前に、ゲオルグは話題を変える。
「私は確か――」
脳裏に浮かぶのは、二十年来の宿敵の顔と、深い闇の魔法で作られた大鎌。
それに立ち向かうのは聖剣を握り締め、聖句を唱えるゲオルグ。
「――アンセルムス。そうだ。あいつと戦っていたはずです。嵐の日だった。エリーの結婚式だったのに、天気が酷く悪くて、私はアンセルムスと最後の戦いをしていたのです」
酷い火傷の痕が目立つ自身の右顔面を右手で覆いながら、この場所に自分が立っている経緯をゲオルグは少しずつ思い出していく。
「あいつは俺の分身でした。暗殺者として共に訓練をし、同じ少女を愛し、そして私は彼女を殺し、あいつは彼女を守れなかった。あいつは失敗した私なんだ。或いは、私は失敗したあいつなのかもしれません」
ゲオルグがアンセルムスと言う男について語る。酷く混乱しているようで、その台詞は説明と言うには整然としておらず、思い出したことをそのまま口にしていると言った風だ。
神使を名乗った化物はただそれを黙って見ていた。
「もう、私達には互いに殺し合うしか道は残っていなかった。だから、嵐の中、私はあいつの首を叩き落として…………」
叩き落として? それからの先の句が継げない。
激しい憎悪と殺意をぶつけあい、互いの死力を尽くして戦っていたのは覚えている。指が何本か千切れて落ちた。食い縛った際に歯が欠けた。切り裂かれた腕を更に切り裂かれる熱い感覚。眼球を踏みつぶした時の感触。聖句の奇跡と暗殺者の業を組み合わせた外法の聖騎士と、復讐に燃える禁忌の召喚師の戦いの結末は、確かにゲオルグの勝利で終わったはずだ。
なら、その後は?
「『最後の戦い』」
自分が言った言葉を思い出し、ゲオルグは自分の置かれた状況を悟る。
「俺は、死んだのか」
「そうだ。ゲオルグ。君は死んだ。宿敵の首を殺すと同時に、膝から崩れ落ち、二度と立ち上がることはなかった」
思わず一人称が戻ってしまう程の衝撃を、貌の無い神使は何でもない様に肯定する。だが、この背筋も凍るような神聖な白い空間と、自称神の使いの存在を考えればそれは決して荒唐無稽な話とは思えず、むしろ『やっぱりね』と納得する気持ちの方が大きい。
「まあ、あいつと相打ちなら、悪くないですよ」
「そうか」
「エリーの結婚式は? どうなったんです?」
「さあ。私は別に婚儀を司る者ではないからな」
それはそうだ。神使の台詞にゲオルグは気が抜けたようにその場に座り込む。
「でも、多分、大丈夫です。俺の大切な物をアンセルムスは壊したかっただけのはずですから」
疲れ切った笑みを浮かべ、自分に言い聞かせるようにゲオルグは言った。運命の双子のような復讐鬼の目的は、ゲオルグの破滅のみ。徒党を組む程の冷静さを持ち合わせていなかったし、それ以上にアンセルムスは強かった。だから奴には仲間なんていないはずだ。結婚式はきっと無事だろう。
ならば、心残りはない。
「それで、神使様。俺はどうなるんですか?」
「どう? とは?」
「死後の楽園に連れて行ってくれるんですか? それとも、黄金の地獄?」
「それは君が決めることだ。聖騎士ゲオルグ」
「え?」
「君は、その記憶と力を持ったまま、生まれ変わりたくはないか?」