束縛騎士と異形の乙女
大地の果て、西の焦土を越えた先、黒き巨木の森がある。いかなる猛者でもそこにたどり着くことは難く、また、辿り着いたとしてもそこには実りも獣もない。ただ黒き巨木だけが連なり、存在するのみ。そこはかつて聖域があった場所とされるが、それも確たる証拠はない。ただ、存在するのみ。
その黒き巨木の森の中心に、幾百年前から聳え立つ廃城にたどり着いたものはいまだにいない。廃城は天井のほとんどが崩れ落ち、昼には陽光が、夜には月光が降り注ぐ。その光に照らされるのは、一人の男。彼は玉座に座り、その心臓を剣に貫かれ、そこに縫い付けられている。
褐色の肌を持ち、黒い影のような鎧を身に纏いただ瞳を閉じて時間が流れるのを待つ。銀の長髪に雨が降ろうとも彼は動けない。彼がかつてこの地にあった王位継承の争いの生贄となったことを、誰が知っているだろうか。騎士として孤独に生き、主人を逃がすために……。男は幾百年の時をここに座っていた。この身を貫く剣を引き抜くものが現れるのを、待っていた。
嗚呼、我が肉体はいつになれば朽ち果てるのか。
男は過去を回顧するしかできない。後悔と自責の念に囚われてもなお、彼は逃れられない。
どんな形でもいい。
解放してほしい。
その日は、丁度、千年を隔てた日にやってきた。
その日は酷い雨だった。ざあざあと降りしきり、男の頬を、髪を、肉体を叩くほど、痛い雨だ。
彼は虚ろな紅の瞳を開き、ただ前を見つめていた。それ以上、動くことができなかったのもあるが、それ以前に男の精神は磨耗していたのだ。千年の時を、ただ、過去を回顧するだけに費やした男の心に、もはや感情などありはしない。泣き叫びたくとも、全てを焼き尽くしたくとも全て全て、この身に突き刺さる剣が阻むのだ。
しかし、とある音が男の心を呼び覚ます。
カツン、カラカラ……。大理石の床を、何か硬く、軽いものが打ち、転がる音がしたのだ。雨の音、風の音以外、聞こえなかった男の耳に、それはやけに響いた。
カツン、カラカラ、カツン……。それに伴い、濡れた音も聞こえる。ペタペタ、不規則に聞こえる。
人か……?
男は眼球を動かし、部屋の入り口を見つめた。
雨が、息が止まるごとく止む。前髪から雫が垂れたが、拭うことはできない。耳鳴りがする。ただ、カラカラという音だけが空間に響いた。
嗚呼、嗚呼、近い。すぐそこまで来ている。どうか、こちらへ。獣ならばこの身を食らってくれ。人ならばこの剣を……。
男ははやる気持ちを押さえつけ、じっと待った。
大理石の柱の陰から現れたのは、一人の乙女だった。
乙女は泣いていた。はらはらと花弁が散るごとく、または清き水が絶え間無く湧き出る泉のごとく、乙女は泣いていたのだ。
彼女は玉座に座る男を見つけると、その涙で濡れた瞳を見開いた。男の紅の瞳と視線が絡み合い、彼女は薄氷を履むがごとくゆっくりと覚束ない足取りで歩み寄った。
その間にも、涙は溢れる。涙は、彼女の黒き瞳に濡れ色をかぶせ、薄紅に腫れた目元から落ち、頬を伝う。そして、まろい輪郭から、その自重に耐えられんと離れた時、俄かに白濁し、光沢を帯び、玉となり床を打つ。ああ、なるほど。床を打つものは、乙女の涙だったか。男はとく、と彼女を見つめた。
その顔を守る手の甲には、疎らに、大小の水晶が生えていた。白く、濁ってはいるが煌々としている。視線を落とせば、足も、甲から膝にかけて同じく水晶が生えていた。
嗚呼……ここまでならば、ただ女神の祝福を受けし宝石姫とも言えよう。美しく、愛らしく、ただ純粋たる心優しき姫は皆から愛されるのだ。だが、彼女のその姿は例え心が美しくとも……。
その華奢たる肩の左には、肉色の、短く鋭くも見えるが柔らかく揺らめく突起が3本、生えていた。
男は其の姿に見惚れた。美しく醜い姿だが、錆び付いた心がにわかに動き出し、惹かれていくのを感じた。
男は唯一動く眼球を使い、己に刺さる剣と乙女を交互に見る。
もし、あなたが慈悲深い乙女ならば、どうかこの剣を抜きたまえ。
その思いは乙女に通じたのか、彼女は剣の柄に小さな手をかける。そして、水晶に包まれた手を引き、ずるり、と剣を引き抜いた。
ああ、身体が急速に軽くなって行く。幾重にも巻かれた見えない鎖が千切られ、弾け、緩んでいく心地がした。
我が身、我が心、自由を得たり。
ガラン、と鈍い鉄の音がする。乙女が男に突き刺さっていた剣を落としたのだ。故意にではなく、ましてや重さに耐えきれなかったわけにあらず。乙女の表情は我を失い、茫と男の顔を見つめていた。涙はもう見えない。床に散らばる真珠らが水溜りの中で陽光に柔らかに煌めく。
この乙女は、いったい……。
男は、深淵を臨むがごとく、手を伸ばす。あと、少し。産毛に触れるか否かの手前で、乙女は我を取り戻し、男の褐色の手を振り払った。
「いやっ! …………っあ」
乙女は眼を見開き、男を映す。そこには、玉座に座る滑稽な姿が見えた。
「ごめ……なさ……」
彼女は一歩、後ろへ下がる。このままでは、逃げ出すだろう。
……逃す、ものか……。
男をゆっくりと立ち上がった。鎧がかち合い鈍い声をあげ、肉体は骨が軋む悲鳴をあげる。だが、軽い。男は千年の呪縛から解き放たれたのだ。そして、解き放ったのは眼の前の乙女なのだ。
彼女は男の腰のあたりよりも少し小さい。男は乙女の前に跪いた。跪いても、男の方が大きかった。
「乙女よ……」
掠れた声で、乙女を見つめる。
「我はかつての栄華極めし国の騎士なり。先刻の無礼なる振る舞い、どうか赦し給え」
乙女は小さく、拙き発音で「きし」と反芻する。男は微笑み、紅の瞳を細めた。彼女から恐怖を拭えるように、心を開かせるために。
「そして、今一度、その清らなる手に我が罪深き手が触れることを許し給え」
「きよら…………?」
乙女は昏い瞳で己の手を見つめる。そのふくらとした指と指の間には、薄い膜のようなものが張っている。例えるならば、蛙の水かきのような。
男は手を伸ばし、彼女が拒絶する前にその左手を取る。
「あ……」
そして、その指先に己の唇を当てる。すぐに離すが、手は放さない。乙女は目を見張り、事態を飲み込めていないらしい。男が視線を上げると、それらは絡み合う。乙女の瞳からわずかに光が消えた。
男がそのまま手を引けば、釣られるように歩みを進める。虚ろな瞳で、一歩、二歩、歩幅が小さいため、三歩。男の、本当の目前まで。
「…………」
「いい子だ……」
嗚呼、我は玉座の主として呪縛されし千年の時の間に、乙女を誑かす術でも得たのか。男の血錆の瞳は怪しく揺らめいていた。
「…………ぇ、ぁっ!」
彼女はまたもや正気を取り戻し、男から離れようと身を逸らすが、男の方が早く、乙女の手を引き、反対の手を腰に回して身体ごと引き寄せる。乙女は男の身体へ倒れこみ、彼女は男に抱え上げられた。
「どうか……逃げないでくれ……」
「な……んで……」
「……それは、貴方が我が呪縛を解いてくれたから」
男は、玉座へ戻り、膝に乙女を乗せた。カタカタと震え、怯えていることが酷く伝わってきた。
「乙女よ、何故この黒き森に?何故、その頬を涙で濡らしていたのか……どうか、教え給え」
乙女は俯き、水晶の手で顔を覆った。そして、再び真珠が零れだす。嗚呼、なんと美しき様か。
「や、だめ……っ!」
男は乙女の異形の肩を撫でた。ふり払おうにも、なぜか上手く力が入らない。男の体にしがみつき、震えるだけ。
男の手に柔らかき肉感が伝わる。生温かく、ぬるりとした紫の分泌液が絡んだ。
「きたない……から……っ」
「……誰かがそう言ったのか?」
「…………」
真珠が床を打つ。からからと、軽く硬い音が響く。夕陽が夜の帳を連れて来つつあった。
「乙女よ、我は零れた涙を救う術、知らず。しかし、零れた涙を受け止める術、心得たり……。どうか、教え給え」
彼女は顔を上げ、男を見た。褐色の指先が顔にかかった濡れ烏色の髪を除ける。
「わたしには、昔から親がいませんでした……」
乙女はポツポツと、真珠を零しながら口を開いた。薄紅の、小さな唇は瑞々しい。
「教会の子として、神父様に育てられましたが神父様が亡くなり、村を追い出されたんです……」
嗚呼……何と人は残酷なのか。男は手に絡む突起を優しく撫で、微笑んだ。
「では、我は憎くもその村人等に感謝せねばならない。そのおかげで我は永遠の呪縛から逃れられ、貴方に出会えた」
「あなたは……いったい……」
「かつては騎士だった。先ほどまで贖罪に身を捧げる咎人だった……。しかし、解き放たれたる今は誰にもあらず」
だが、と男は乙女の瞳を覗き込み、紅を揺らめかせた。
「あなたが望むのなら、あなただけの騎士に……」
「っあ……ぅ……」
乙女は身体を震わせ、捩り、逃げ出そうとするが、思考が霞む。蜘蛛の巣のごとく迷い込んだ蝶を束縛し、もがけばもがくだけ絡め取られていくのだ。
嗚呼、この乙女を逃してなるものか。どれだけ異形でも、愛したのは……。
「何時までも共に、何処までも共に……あなたが望むのならばあなただけの騎士となろう」
「……ぁ……は……ぃ……」
呪縛を解いたのはあなた。だから我が魂はあなたと共に。
騎士は異形の乙女を愛し、異形の乙女は騎士に護られる。大地の果ての黒き森の奥、崩れかけた城に住まうは騎士と異形の乙女だけ。