前章 雫
雑踏の中に紛れていく遥希。
明日も会えるーー。
同じ学校で、同じクラスで、恋人同士で。
明日、会えない理由など、一つだってなかった。
「私、明日結婚するね」
夕日は、何もない部屋に僅かに差し込み、病人の顔を照らす。その白い肌の上で揺れる滴、それが光を屈折させ、病室の天井に、光の模様を映し出す。
明日、式を挙げる花嫁の目元は赤く腫れ上がっていた。
「ごめんねーー遥希君」
それでも、彼女は笑っていた。遥希の左側に腰掛けて。
「ねえ、遥希君……知ってる? この病院ね……、宿り木があるんだ。だから……いいよね」
雫は初めてのキスをした。甘酸っぱい青春はとうに過ぎ去り、初めてのキスのは悲しみの味がした。
この時、病室の窓際で、黒猫がくしゃみをしていたことなど、雫は知る由もなかった。
「そろそろお願いします」
新米ウェディングプランナーの森川滴は、笑顔を崩さずに伝える。
父親は遠い目をしており、花嫁は笑みすら零さない。
一方、新郎ーー長内治幸は控え室に現れない。事前に、本人たっての希望で、記念撮影も挙式後となっている。
彼等は結婚する気があるのだろうか、そう思わずにいられなかった。
幸せになる瞬間の手伝いをしたい、そう思ってこの仕事に就いた。それでも、町外れの小さな代理店では、中々チャンスは訪れなかった。
そんな経験の薄い彼女に仕事を依頼したのは治幸だったが、何故私だったのか。雫とクラスメイトだったという以外に、彼等に接点のない私を選んだのは、雫だろうと考えていた。しかし、雫は私のことなど覚えていなかった。あれ程、傍にいたというのに。
その怒りを差し引いても、誰も喜んでいない、そんな結婚式が私の初仕事であること。それは耐え難いことだった。
病室に通い続ける雫の姿に居た堪れず、見合い話を持ちかけたのは、遥希の両親ーー大宮夫妻だった。
雫は了承しなかったが、見合いの席は設けられることになる。その席に現れたのが治幸だった。
「だから私は結婚出来ません」
雫は何も考えず、自分の置かれている状況を淡々と説明した。
てっきり雫は、
「彼も君が幸せになることを望んでいるんじゃないかな?」
とか、治幸がそういった甘言を囁くものだと思っていた。治幸は相当に優男に見えたからだった。育ちの良さそうな振る舞いに、ブランド物の、スーツに合わせた靴。時計もただ値段だけのものでなく、センスを感じさせるものだった。
そのセンスはあの日の遥希を思わせた。
「いつ病院に行っても構わないし、別に家で何もしなくていい」
治幸は雫を見据えながら言った。
「俺は性的交渉も求めない。文字通り配偶者として、君と婚姻関係を結びたいと思っている。君という、一人の人間に対して」
彼の言葉には同情も哀れみも感じなかった。というより、彼が何を考えているのか、雫には解らなかった。
結局、一晩考えた末に、雫は彼の申し出を受けることにした。
「雫……」
俯く雫を横に、父は言葉を掛けられないでいた。雫の決断は間違ってはいない。むしろ正しい。そう思ってもいるが故に、何を言えば良いのか、門出を祝うことも、真意を問い質すことも、彼には出来なかった。
悩む彼をよそに、重い扉が開く瞬間は、すぐに訪れた。
倍増された空気の振動が、肌に伝わる。荘厳な空気。息をするのも忘れてしまいそうな緊張感が身体を支配する。
一歩足を踏み出すことさえ、億劫に思えた。
ロードの先には、新郎衣装に着替えた治幸。その顔に笑顔はなく、見合いの時の、何を考えているのか解らない表情をしていた。
頭がおかしくなりそうな後悔の念に苛まれながら、雫は決意を胸に歩を進めた。
左隣に立つ狩野雫。彼女は今何を考えているのだろう。俺がこれからしようとしていることを、彼女は知らない。
彼女は俺が遥希の親友であることを知らない。
彼女は彼のことを何も知らないも当然なのだ。
偶然、街で出会したクラスメイト。何と無く一緒に行動し、その日二人は恋に落ちた。そして、その帰り道、遥希は俺を助けようと地下鉄のホームから飛び込んだ。
その日は、たまたま薬を飲んでいなかった。意識が朦朧とするなか、電車のライトと、遥希の影だけが見えた。
彼女は俺が遥希に助けられたことを知らない。
彼女は遥希の夢を知らない。
雫はまだ、何も知ってはいないのだ。だから、今度は俺が、遥希を助ける。
一度閉まった、重い扉が、再び開いた。
司祭の言葉の意味を理解出来ない。心を扉の前に置き忘れてしまったかのような、喪失感。
私は、何を求めているのだろう。
ぎい、という重いものが押し開けられる音が、私を思わず振り返らせる。
そこにはーー誰もいなかった。
やはり、何処かで期待していたのかもしれない。遥希が来てくれるかもしれないと。四年も眠り続け、歩くことすら困難だと分かっていても。それでも、遥希が私を攫いに来てくれるんじゃないかと、そんな奇跡を期待していた。
参列者のざわつきも聞こえず、私はただ開け放たれた扉を見ていた。
視界の中心を黒猫が通り過ぎた。
「雫さん。遥希をーー頼むよ」
耳元で聞こえた声が、一瞬、誰のものか解らなかった。
扉が閉じられる。空気の悲鳴と共に。眼下には、私の右隣にいた長内治幸が、何故か倒れていた。
「どうやら、薬を大量に飲んでいたようですね」
「薬って……」
「血糖降下剤です」
「じゃあ……糖尿病だったってことですか?」
「はい。一型の」
治幸は挙式中に低血糖で倒れた。応急処置も効果がなく、昏睡状態のまま、二日が経過した。
何故、こんなことをしたのか、私への当てつけなのだろうか。そもそも、彼が糖尿病であることなど私は聞いてすらいなかった。仕事も知らない、親兄弟の名前すら知らない。話したのは精々見合いの席だけ。式の日取りも何もかもを彼が決めた。
私は、彼が遥希に助けられた親友であることを知っていた。遥希の両親が洩らしているのを聞いたために。
私があの日、遥希に出会わなければ、遥希は助かっていた、治幸は死んでしまったかもしれないが。帰り際に、私が引き留めなければ、遥希と治幸がホームで出会していたかもしれない。そうすれば、二人とも助かっていたかもしれない。
治幸も、そう考えていたのかもしれない。新たな後悔の念が、心を満たしていく。
雫の父親は挙式が行われた教会にやって来ていた。
今日は式が行われないらしい。
「うちは、キリスト教会ではないんですよ」
先日司祭を務めた男が、父親を案内する。
「元々はギリシャ神話を母体にしているんですが、それだけだと経営も難しくて……。時折、結婚式も行なっているんですよ。まあ、宗教がファッション感覚な日本人には何処だろうと関係ないんでしょうけど」
男は天窓の開閉ボタンを操作した。
「そういう訳で、うちのシンボルは婚姻を司るジュノーなんですよ。ジューンブライドも元々はジュノーの加護を受けられるから、何ですけど。やっぱり日本って変な国ですね」
「孔雀……ですか」
天窓には孔雀のステンドグラスがはめ込まれていた。
「ええ、ジュノーの持ち物になります」
父親はひとしきり眺めた後、呟いた。
「じゃあ黒猫は何なんですか?」
「猫は……ヴィーナスの代弁者と言われることもあるようです。特にうちは、イギリス寄りなので、黒猫は幸運を導くという風に捉えています」
「幸運ですか」
父親は結婚式の日と同じ、遠い目をしていた。
「本来、この扉は勝手に空くことはありません。式の最中は内側から鍵が掛けられていて、誰も開けることは出来ないんです」
男は全てを悟っているかのように語った。
父親は「あの時、黒猫が見えた」と、うわ言の様に呟いた娘の言葉が、彼をここを訪れさせたのだった。あの時、父親には黒猫など見えていなかった。
だが、司祭には見えていたのかもしれない。
「安心して下さい。悪い星はそうそう回ってきません」
押し黙ったまま教会を後にする父親の背中を見て、男は「最後の一言はいらなかったかなあ」と気まずそうに呟いた。
「雫さん。少し休んだら?」
顔馴染みの看護師が声を掛けてきた。遥希が入院して以来何度もお世話になっている。
私は遥希の病室に通う毎日で、私は殆ど眠らなくて済むようになっていた。それを知っている彼女は次第に、「休んだら?」と、声を掛けることをしなくなった。
それでも、今私に声を掛けたのは、耐えきれなくて、声を掛けてしまったのか、それとも、私がいつも以上に酷い顔をしていると感じたからだろうか。もしくは、両方か。
しかし、横になるどころか、椅子から立ち上がることさえ、今の私には難しかった。
涙はーー流れていない。あの日で全てを出し切ったのか、それとも、目の前の男を愛してないからなのか。
「解らないよ……」
「あのっ、どうなんですか」
医師の様子を見て、雫は理解した。
「あと、もって数時間かと……」
治幸の容体が急変した。雫が眠りに就いてから三十分後。図った様に。
「彼女、注意しといて」
医師が去り際に、看護師に耳打ちするのが聞こえた。
わたしが、飛び降りるかもしれないとでも思っているのだろうか。
思わず、自嘲気味に笑ってしまう。
私は悲劇のヒロインじゃない。わかるでしょうその位。思わず、点滴を止めてしまったり、屋上から飛び降りたりなんかしない。
見届けてやる。
最後には、医師に対する奇妙なな対抗心だけが、私には残った。
その瞬間は、突然訪れた。
閉じられていた瞳が、かっと開かれる。
「雫ちゃんっ!」
飛び起きた治幸は私に向かって、そう言った。
治幸は、私のことを「雫ちゃん」とは呼ばない。
「早くっ! 〜〜へ行けっ!」
混乱して、彼の言葉が聞き取れなかった。それでも必死に叫び続ける彼に圧倒され、私は病室を出る。
「狩野さんっ!」
病室を出た私に、看護師が駆け寄ってくる。
「大宮さんが失踪しましたっ!」
病室に遥希の姿はなかった。目覚めたばかりの彼が身体を動かせるはずがない。誘拐される理由もない。
「そっちは?」
「いません」
看護師達が病院中を探し回っているが、遥希の足取りは掴めない。
「狩野さんは長内さんの病室に戻っていて下さい」
言われて気付く。治幸も目が覚めていたのだ。それを伝えようとしたが、看護師は走り去ってしまっていた。
「……」
私は廊下に立ち尽くしていた。
「ごめん。俺がもうちょっと早く目が覚めてれば」
背後から、頭に置かれた手の感覚。震えている。
「あなた、遥希君でしょう?」
「……そうだよ。治幸のやつ、俺の身体持ってどっか行きやがった」
「そう……」
訳がわからない。でも、背後にいるのは確かに、大宮遥希だった。
「ただいま」
あの日、改札を乗り越えて戻ってきた時と同じ台詞。私はその時と同じ、変な顔をしていたと思う。