紫の変調。
紫が言った言葉はあまりにも衝撃的だった。衝撃的過ぎて、到底信じることが出来なかった。
「幻想郷が崩壊したって……何だよ、それ。訳わかんねえぞ……」
積み上げた石の山が崩れるのとはワケが違うのだ。突然住んでいた場所がなくなるなんて……天変地異じゃないか。
アレは、天変地異だったのか?
自然と疑問が浮かぶ。
「言葉通りの意味よ、圭吾……」
俺がどれだけ疑念を持とうが、起こったものは変わらない。変わる筈がない。
変わるのはいつだって自分自身だ。
紫は、どうしようもない、と言わんばかりに首を横に振る。
希望が断ち切られる。
…本当に、幻想郷が?
でも、でも……そんなこと、有り得るのか?
幻想郷を包む博霊大結界は紫によって管理されていた筈だ。幻想となることを余儀なくされた者の唯一の楽園、そのための結界。
幻想郷が壊れたということは、博霊大結界に何かしらの異常をきたしたということなのだろうか?
でも、それこそ信じられない。あれはとてつもなく、人智を超越した代物だ。人間のみならず、ただの妖怪、神でさえも扱いきれないものだ。
「いえ…そうでもないのよ」
俺の呟きに、紫は自ら反論する。
「私だって一妖怪。個人でしかないのだから、完璧なものを創り出すのは不可能だわ……当時の天才的な才能を持った博霊の巫女と私で創った結界なんて、所詮二人の力だけなんだから……。誰かが意図して創った以上、それは完璧な物である筈がないの……」
俺は幻想郷という名の閉鎖空間がどこか完璧なものであると思いこんでいた。実際殆どの人や妖怪はそう信じているだろう。
いや、そもそもそんな命題を突きつけられることすら無い筈だ。
結界は完全な物であると盲信していた。
「じゃあ、一体どうして崩壊なんて……」
天才の博霊の巫女と強大な妖怪の紫が力を合わせて構築した結界は、どうして壊れてしまったのだろうか?
天変地異などと言ったが、ただの自然災害で壊れるようなものではないだろう。そんなもので一々壊れてしまっては意味がない。
なら、一体何だ……?
俺は疑問の眼差しを紫を向けた。
「……ただの、自然災害じゃないのは、違いないわ…そんなものじゃ壊れない……」
「紫、どうした…?」
紫の言葉に空白の間が多くなっていたことに、今更気づいた。額には汗を滲ませ、肩で息をして呼吸も若干荒い。
「だれ、かが……力がある誰かが……やったに、ちが…いな、い……」
その言葉を最後に、紫はバタリと床に倒れ込んだ。
「紫!」
俺は布団から跳ね上がり、紫の元に近寄った。
ハァハァ、と呼吸が明らかに荒い。顔も赤いし、額だけじゃなくて全身から汗を噴き出しているようだった。
俺は紫の額に手を添えた。
熱い。
熱がある。それもかなり高い。
今まで病気なんて引いた姿なんて見たことなかったのに。それは妖怪だからなのかわからないが。
「紫!しっかりしろ!」
紫の体を起こし、俺は声をかける。しかし俺がいくら声をかけても返ってくるのは荒々しい呼吸音のみ。
喋る余裕すらないのか。
この状態じゃ立って歩くのは困難と判断し、布団まで連れて行こうとした。
重い。
紫の尊厳のために言っておくが、別に紫が太っている訳ではない。むしろ細身な方だ。紫の体は細々として儚げなように思えた。
そうではなくて単に俺がひ弱なだけで。紫を慎重に運ぶほど俺に力はない。
言い訳ではないのだが、紫の方が身長は高い。俺は小柄だから紫の体を支えにくいのだ。
そういうわけで俺は布団の方を引っ張ってくることにした。
布団に紫をそっと置く。掛け布団をかけて安静に寝かせた。
「そうだ、おしぼりとたらい……」
その二つを思い出し、この部屋から出た。
部屋を出るとすぐそこに台所と思わしき場所。引き出しから手拭いとたらいを引っ張り出し、たらいに水を溜める。
零さないように注意して隣の部屋まで運ぶ。
手拭いを溜めた水に浸し、ギュッと固く絞った後折り畳んで紫の額に載せた。
何故倒れたか知らないが、熱があるならひとまず冷やさないと始まらない。
俺は定期的にぬるくなったおしぼりを交換し、何度も同じ工程を繰り返す。
30分くらいだろうか、はたまたもっと長かっただろうか。
紫の呼吸音が若干だが、安定しだした。顔の火照りはまだ消えてないが、峠は越えたみたいだ。
俺はぬるくなったおしぼりと水をちょくちょく入れ替え、献身的に紫を看護した。
暫くして、安定的な呼吸音とともに紫は眠りに陥った。顔は未だ赤かったが。
「これなら……大丈夫か……」
ホッと安堵のため息。
俺は肩の力を抜いた。
それからまた暫くジッと紫を看護していた。もう、呼吸が乱れたりすることはなさそうだ。
◇
静かな時間が訪れる。
物音一つない空間。
時計の秒針のコチコチと鳴る音さえない。
紫の小さな呼吸音が、時間の止まったここで時を刻む役割を果たしていた。
不意に一つしかない四角い窓の向こうを見た。
木、しかない。
森の一角に建てられた丸太小屋らしい。
太陽はだんだんと地平線へと傾いている筈だが、森の木々のせいで太陽の斜光も拝めない。光が入らないから暗くなるのも早い。
俺は再び視線を紫に戻す。
「………」
無造作に広がる長い金髪。それがどこか弱々しく見えるのは、紫が弱っているからか。
それとも、俺の心が参ってしまっているからか。
…どうして俺は紫の変調に気づけなかった。
思えば微妙に疲れ気味で、ため息が多かったような……そんな体調だったのに、俺は気づけなかったのか。
突然、幻想郷の現状を突きつけられ、何が何やらちんぷんかんぷんの俺はただ戸惑うばかり。
現状を理解するのに手一杯で自分以外のものの気を使うことが出来なかった。
……いや、何を言っても言い訳にしかならないな。
逃げ口上なんて、吐きたくない。
俺が気づかなかったから、紫は倒れた。
いや、倒れたのは別件だろう。何の病気かはわからないが、少なくともその事に関しては俺は関与していない。
そうじゃなくて、紫が倒れるまで気づかなかったことは俺に責任がある。
倒れるのは仕方なかったとしても、俺が早期に変調に気づいていれば紫はあんなに苦しまずに済んだ筈だ。
事後処理など、体調が回復してからでも遅くはない。
俺が紫の病状の悪化に拍車をかけてしまったのだ。
「……やめだやめだ。自己嫌悪に浸って紫の同情でもって買おうってかよ、馬鹿馬鹿しい」
そんな事をしても意味はない。
俺の気は良くなるかもしれないが、紫は本気で心配してくるだろう。
最悪、自分のせいで圭吾が苦しんでる、とか言ってより病気を深刻化させてしまうかもしれない。
病は気から、と言う。
「そんな馬鹿な事より、誠意を見せて謝るのが筋ってもんだ」
それでも紫は嫌がるかもしれないが、そこは俺の気持ちだ。貫き通す。
決意は固まり、後は紫が回復するのを待つのみ。
辺りは暗くなり、明かりのないこの部屋は早くも闇に染まる。
唯一の窓からは月光が差し込む。四角く切り取られた空間がキラキラと淡く光る。
俺は、夜光が灯る微かに赤い空を見上げた。
「崩壊、ね」
紫が倒れた話はもういい。
が、逆に考えれば紫は体調が悪いと自覚しながらも幻想郷の崩壊を知らせようとした事になる。
紫にとっては優先度が自分の体よりも高いってことになる。
そんな事は絶対にないのだが。
……まあそこを掘り下げたらまた話が長くなりそうだから、ここで打ち切りにしよう。
とにかく、崩壊は間違いない。
そしてその事を俺はきちんと受け止めなければならない。
何故崩壊したのか、疑問は尽きないが、ここで列挙しても詮無きことだ。
まさに紫のみぞ知る…ってか。
くくっ、と俺は苦笑し、紫をチラ見する。
もはやただただ眠っているだけとなった紫。明日の朝になればきっと起きているだろう。容態が悪化しなければ、だが。
俺も寝るか、と思ったが布団がなかったことに今更気づく。
押し入れのようなものはなく、どうやらこのワンセット限定らしい。
「しゃーなしだな」
俺は床にごろんと雑魚寝を洒落込むことにした。
何、こうやって布団なしで寝るのは初めてじゃねえし……
気づかぬうちに心労が溜まっていたのか、俺はあっさりと眠りに落ちていった。