青天の霹靂。
ここは幻想郷。
変革を嫌い、幻想を望んだ者が集う場所。
沢山の妖怪と、少しの人間がここにいる。
その中に俺、秋庭圭吾はいる。
幻想郷で唯一人間が居住する場所、人里。規模は程々に大きく、里というよりは小規模の町の印象に近いかもしれない。
幻想郷で妖怪と人間が共存するルールとして、ある制約がある。
それは、人里内での妖怪による人間の捕食の禁止、である。
幻想郷では妖怪に比べて人間の絶対数が圧倒的に少ない。そんな中で無秩序に喰われればあっという間に人間が枯渇する。
妖怪は人間を脅かす存在だが、同時に一蓮托生の存在でもある。妖怪は人間の負の感情、特に恐怖から生まれたものであるからだ。
人間なくては妖怪は生きられない。
それでもまぁそんな事を逐一気にしていてもどうしようもない訳で。本能で生きる妖怪はそんな重大事でも些末な事としか認識しない。
故に制約が必要不可欠になる。
そういう事で幻想郷の管理者である八雲紫は「妖怪と人間の抑制と均衡」をモットーとし、人里での捕食を不文律とした訳だ。
ただ、成文ではないので制約を破る妖怪も少なからずいる。そういうときにはそれ相応の罰が待っている。
妖怪と人間、互いの利害の調節。
そのようにして幻想郷は長い年月を越してきた。俺がこの地に生まれるよりも、ずっとずっと前から。
秋庭圭吾。14歳だ。
身長はどちらかと言えば小柄で中肉中背だが、農作業で鍛えられているためか筋肉はついているところはついている。
人里を南北に隔つ小さな川の北側、裏通りに居を構える。生活は、贅沢は出来ないが、貧しいというわけでもない。普通に生活を送ることは可能だ。月に一度の自分へのご褒美に、ちょっとした豪華な肉などを密かな楽しみとしている。
小さな家に一人暮らしを始めて2年目になる。これといった定職はないが、なんでも屋、主に農作業などを手伝う形で収入を得ている。若い働き手は重宝されるのだ。
さて、幻想郷と俺の自己紹介はこれくらいか。何にせよ、俺はここで充実した時間を送っていることは間違いない。
……おっと、もう一つ、重要な事があったな。
「なあ紫」
「なあに?」
「俺の服、水田に浸って泥だらけなの。着替えたいの。……俺の言いたいこと、わかる?」
俺の前で我が物顔で座布団に座る女性、紫のことだ。
「ふふふ…当然、わかってるわ」
湯のみに入った茶をすすりつつ、優雅に、さも当然と苦笑する彼女は、
「───引き締まった筋肉を見てくれってことね!!」
「着替えるから席を外してくれって意味だ馬鹿やろう!!」
……俺の母親なのである。
◇
紫は妖怪。
人里に住む俺は当然人間だ。
では、必然的に矛盾が生じる。
妖怪の親に、人間の息子が生まれる筈がない、と。
それは当然。
何せ俺は紫の腹からおぎゃあと出てきた訳ではない。そもそも紫に伴侶などいない。
俺は義理なのだ。紫との血の繋がりはない。
なら何故、と問いたくなるが、ここらへんで言及は打ち止めにしてほしい。あまりいい思い出ではないのだ。
さて、所変わって辺り一帯は畑。前方には小高い山々と雑木林が待ち構える。
博霊神社へと続く参道は、やはりというか人っ子一人いない。人里から少し離れただけでこの有様である。
紫に拳骨を振り下ろし、息子がグレたとかぬかす紫を外に追いやって普段着に着替え、そしてそのままここまで歩いてきた。紫も頭をさすりながら俺について来る。
妖怪なんだから、俺の一撃など痛くも痒くもないだろうに。
「ねえ圭吾~」
「ん?」
「もしかして博霊神社に行ってる?」
もしかしなくとも、この道を通る理由は一つしかない。
「ああ。珍しくこの時期のこの時間に休みがとれたから。一週間ぶりに霊夢のトコにな」
ふうん、と意味ありげな視線を送る紫。
別に、やましい理由などない。強いて言うなら暇つぶしだ。
そんな軽い調子で語り合いつつ、博霊神社に向かって歩を進める。
最近はどうだとか、仕事疲れてないかとか、休みはちゃんと取ってるかとか、ご飯はしっかり食べるのよとか、云々。
主に、というかほぼ全部俺の話題だ。紫はそれを面白そうに聞いていたが、俺としては普段の生活を吐露するだけなので別段面白くもない。
まあ、紫が楽しいならいいけど。
暫く歩くと山道になって斜面はきつくなり、道が荒れ出した。頭上も木々で覆われている。木漏れ日がキラキラと光って俺は目を細める。
ここからが本格的な神社への参道になるのだが、進めば進むほど荒廃の一途をたどっていくばかりである。
ここいら一帯は夜になると妖怪がしばしば出没するから人通りが少なくなるのは頷ける。だが、それでも整備くらいしないと尚更人は少なくなる、と赤白巫女に非難の念を送る。
…が、言っても詮無き事だろう。
今更になるが、俺と博霊神社の巫女、博霊霊夢は友人である。紫繋がりで知り合った。ついでに言うと魔理沙もである。
友人歴は魔理沙の方が長い。霊夢は2年前くらいに知り合ったばかりだ。
「ていうか……本格的に酷いなこの道。霊夢達がこの道を利用しないっつっても限度があるだろ」
霊夢や魔理沙は飛行が可能だ。前者は能力、後者は魔法で。
だから参道など通らず、木々の上を飛んで博霊神社に行く。
従って参道を整備しない。
だから参道が荒廃して参拝者が減る。
負のスパイラルだ。悪循環とも言う。
樹木間に生える下草で参道は遮られている。自分より背が高い草はないものの、腰の高さまであれば、もはやそれで十分だろう。
掻き分けて進むのも鬱陶しいし、何より面倒だ。
「そうね。とりあえず邪魔な雑草だけでも刈っておきましょうか」
そう紫が言うや否や、彼女の頭上に一つの大きめの妖力の塊が形成される。
それがひゅっ、と勢いよく通り過ぎ、雑草を巻き込んでブチブチと豪快に刈っていく。
おお、早い早い。
人知れず感心。
一瞬にして2人が楽して歩けるスペースが出来上がる。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして♪」
紫は上機嫌だ。
親バカの紫のことだ、感謝されて喜んでいるのだろう。現金な人だ。
随分と歩き易くなった獣道を俺達は歩く。
頭上から枝葉を縫って降り注ぐ僅かな陽光。キラキラと輝く光が途切れ途切れにフラッシュするのはまるで星々のようだ。
「お」
獣道を暫く歩き、ようやく地面に石畳が垣間見え始めた。
石畳の隙間から生える雑草が否めないが、それは置いといて、ともかくもうすぐ博霊神社だ。次第にあのやたら長い石段も見えるようになるだろう。
「もう少しね。頑張れ圭吾!」
「はいはい」
紫の無意味な励ましを適当に返事をしておき、一歩を踏み出す。
いつも通りの日常だった。
変哲もない、今までと何ら変わらない時間。
畑で土を弄び、川で清らかな水を掬い、年下の子ども達と一緒に遊び、里の人達と雑談を交わす。
紫、八雲家と共に過ごした時間は、金銀財宝にも勝るかけがえのないものだった。
今日も博霊神社に行って霊夢と茶をすすりながら、途中で魔理沙も交えて、紫と共に取り留めもない会話に興じるのだろう。
そんな日常が、
ずっと、
ずっと、
永遠に、
続くと思っていた───
ピシッ、
「ん?」
妙な音が俺の耳に届く。
小枝でも踏んだのか、と思って足下を見てもそんな形跡は見られない。そもそも踏んだなら感触があるはずだ。
気のせいだろうか、と思った矢先 。
ピシピシッ、
また、聞こえた。
紫の耳にも届いているようで、俺達は立ち止まって辺りを見回す。
だが、周りにあるのは鬱蒼と生い茂る樹木のみ。
ピシピシッ、
「何だ、この音は……」
「これは……」
紫が難しい表情をしながら上を仰ぐ。
俺もつられて上を見上げたが、そこにあるのは頭上にも勢力を伸ばす枝葉だけ。
何の異常もない。
俺は紫を見た。
先程までの楽しそうな表情は消え去り、代わりに何ともいえない緊張感を孕んだ雰囲気を纏わせている。
こんな真剣な紫を、俺は知らない。
通り一遍思い出しても、ただの一度も、ない。
一体、どうしたんだ、と。俺は思わずにはいられなかった。
しかし、タイミングが悪く、状況は悪化してしまう。
ピシッ…ビキビキビキビキッ!!
「!?」
音が変質した。
氷を足で踏み抜いたような音が、強い衝撃でガラスにヒビが入る音へと。
風景にそぐわない異質な音が三々五々、あちらこちらから響き聞こえる。
右から、
そうと思えば、
左から。
ビキビキビキバキバキバキバキバキッッッ!!!
「何だよ、何が起こってるんだよ!?」
オレの叫びは聞き遂げられず、代わりに破砕音のバックサウンドがプレゼントされた。
益々激しさを増す破砕音。
異質な音が耳でガンガンギシギシ響く。
不断に鳴り続ける破砕音は不快極まりなく、俺の心を自然に焦燥へと誘う。
砕け、
砕け、
割れていく。
何が、
何を、
何故砕く。
答えのでない自問。
自答は出来ない。
砕ける音色は一層声高になり、次第に地鳴りのような揺れまで起こる始末。
「何なんだよ、これは!?」
「上よ!」
そう紫が返答する前に、紫色の玉を彼女の横に2つ生み出す。たったそれだけで圧迫感が増大する。
彼女が生み出したのは妖力弾。雑草を払った時のものとは質が違う。
人間とは異なる、妖怪に内在する異能の力。妖力弾を紫は頭上の木々へとぶつけた。
一瞬の爆発。
小さな爆風が頬を撫でる。
妖力弾で吹き飛んだ枝葉が粉々に吹き飛び、頭上が開けた。
「何、だよ、あれ……」
浮かんだのは驚愕、それと恐れ。
清々しい青空が広がっていた空。
そんな空は、無数の亀裂が広がっていた。縦横無尽。一体幾つあるのか───数えるのがもはや不可能なほど。夥しい数であった。
見たことのない景色、有り得ない景色に、俺は目が離せなかった。
あれは、何なのか…聞かずにはいられなかった。
「ゆ、紫、あれは一体」
「話しかけないで……!」
紫はもの凄い剣幕で俺を制した。これまでとは違う雰囲気をまとった紫は、今まで接してきた紫とは、別人だった。
それは、「境界」を操る、妖怪としての紫───母親としての紫ではない。
俺の知らない、紫───
目を閉じ、常人の俺でさえはっきりと捉えられる膨大な妖力を滲ませ、何か呪文のような文言を吐いた後、紫の足下に円が形成された。
それは、俗に言う魔法陣と呼ばれるものだ。
それらが幾重にも掛けられ、更に何個も円が同じように現れる。
極めつけには、巨大な円が、小さな複数の円に内接するように展開された。
魔法陣が妖しく紫色に灯る。途方もない妖力に悪寒を感じた。
気がついて周りを見てみると、辺りに木々は一本も生えていなかった。紫の一撃で吹き飛んだのだろうか。
そんな事はどうでもいい。
展開された魔法陣、それら一つ一つに門のような紋様が描かれていた……に違いないのだが、その門扉の紋様は全て半壊状態であった。
それが一体何を意味するのか───混乱状態ではよくわからない。
紫はその門扉を修復するように、魔法陣を弄っているようだった。
しかし、その作業は遅々として進んでいない。その間にも地響きは続いてる。
「ダメ…、もう間に合わない……!」
何が、と問うことすら叶わなかった。
正体不明の破砕は絶頂期を迎え、感覚が奪われる。音は不断に続き、地響きはもはや地震と何ら遜色ない程だ。とてもではないが、立つことなど出来ず、格好悪く転んだ。
景色が横にぶれる。
上が上なのか、下が下なのか、全く判断できない。
音がもの凄く、紫の声など耳に入らない。
「───っ、──、─────!!」
何だって!?聞こえない!!
音が音を打ち消し、また混ざり合う。一生聞きたくない協奏曲。
前後上下の判別がつかないから紫の姿を到底視認するのは不可能。紫の気配しか感じられない。
紫ッ!!
俺は叫んだ。
きっと届かないだろうと思いながらも、懸命に叫んだ。
どこにいるかわからない相手に向かって必死に手を伸ばす。闇雲に、真っ直ぐ伸ばした。
すぐそこにいるに違いない、日常へと手を伸ばし、渇望した。
帰ってきてくれよ!
心から願った。
魂から祈った。
けれど、現実は厳しくて、
ままならぬもので、
パキィィィィィン───………
砕けた。
何よりも尊い日常が、砂上の楼閣のごとく、崩れていった─────