湖上の異端者。
それはあまりにも黒く、暗かった。
太陽の光が僅かに反射する湖面の、その上に立っていた。
浮かんでいるのではない。文字通り立っているのだ。
身動きを一切せず、まるで部屋に飾るだけの置物のように。
ただ俺を真っ直ぐ直視していた。
いや、直視というのは間違った表現かもしれない。
なぜなら、やつには顔がなかったからだ。
漆黒の銅鏡をくっつけたようなのっぺりとした顔面には、目も鼻も口も耳も、生物に必要とされる器官が何一つ存在していなかった。
その代わりなのか、頭頂部と顎に鉤爪を彷彿させる髭のようなものが生えそろっていた。それがゆらゆらとそよ風に揺れる草のように、揺れている。ただ唯一それだけが蠢いていてかえって気持ち悪い。
遠くにいるため、体長ははっきりとは分からないが、俺と同じくらいではないだろうか。
比較的大きい頭部の割に細い体は、はっきり言ってアンバランスだ。腕も病人のように細い。
体中には捻じれた幾何学模様が施され、不気味だ。
はっきり言おう。
あれは、見た目は完全に化け物だ。
妖怪でも姿形はもっとまともだ。その上高位の妖怪となると人とほとんど同じ姿のため、寧ろ好感が持てるくらいなのに。
あれは、どの妖怪とも似つかない、異形の姿だ。
そこにいるはずなのに、少し気が緩むといないように感じてしまう。
存在するのが当たり前、けれど普段から特別だって感じることはない、日光の影を彷彿させる存在。
そう、やつは気配が尋常でないほどに薄いのだ。
俺は能力の関係上、気配を察知するのが得意である。
特にああいう風に景色に全く一致しない相手には尚更なのだが、何故かやつには適応されなかった。
やつはどこかおかしい。
やつはどこかずれている。
そんなことをサラッと口に出せてしまうのだ。
「……どうしたの圭吾? 顔色悪いよ…」
「……!」
ルーミアが心配そうに俺を覗き込んできた。ルーミアの方が身長が小さいから必然的に下から見上げる形になってしまうのだ。
ルーミアたちはまだ気がついていない。
あの薄気味悪い気配が伝わってくるというのに、彼女らは俺の心配をするばかりで。自分自身の身に危険が迫っているなど露ほども思っていないようだ。
……知らせなくては!
「…皆、気づいてくれ!」
「「「?」」」
「この気配、気づかないのか!?」
俺は必死で呼びかけた。
さもなくば、何が起こるか分からない。
「気配って、何を言って―――ッ!?」
……気づいてくれたか。
ルーミアだけでなく、チルノと大ちゃんも一様に気づいたらしく、すぐさま臨戦態勢に入っていた。流石というべきか、戦い慣れしているというか。気配にビクビクしている俺とはつくりが違うようだ。
「何なのこの気配……!?」
「……あそこだ」
俺は湖の中心を指さした。そこには黒い異形がいる。
三人はやはり俺と同じように驚き、目を見開いていた。自身が人外である彼女らにとっても、あれはやはり異形であるらしい。
「何アレ、妖怪……?」
「あんな気持ち悪いものみたことないです…」
「………」
ルーミアはあれが妖怪なのかどうかと存在を疑い、大ちゃんはあれを気持ち悪いと素直につぶやき、チルノにいたっては言葉を発することすら出来ていなかった。
謎の異形はずっとこちらを見ていた。あの場から一歩も動かず、ただただ不気味な視線と気配だけを伝えてきている。
のっぺりとした銅鏡のような能面顔を、一ミリ単位ずれることなく一直線に見据えていた。
動かない視線は、心を見透かされているようで。生殺与奪の権限は、まるで向こうが握っているようだった。
そして。
「――――――、」
「「「「っ!!」」」」
飛んだ。
黒い異形はだらんと腕を下げて弛緩した状態で、俺たちに向かって猛然と飛翔した。
普通ならあり得ない態勢だった。飛ぶ態勢を全く整えていない状態での飛翔にもかかわらず、である。
どんな生物にも当てはまることだが、行動を移すにはそれなりの態勢というのが必要である。いわゆる前準備、下準備である。
前に向かって歩くには前に向かっている必要がある。当たり前のことだが、目の前の光景はそのような当然のことを無視したようなものだ。
死体を無理やり使役させたような……糸で人形を躍らせるような。そんなぎこちなさが露骨である。
「それに、意外に速い…!」
無茶な態勢の割には飛翔速度が速い。間違いなく俺が全力疾走した速度よりは速い。
やつはぐんぐんと彼我の距離を縮めてくる。遠く離れた湖の中心にいた筈なのに、気がつくと黒い異形は俺のいる湖岸近くまで接近していた。
「……うっ」
ざっ、
俺は知らぬ間に右足を引いていた。
何のために?
……逃げるため?
背中の冷汗がもの凄い。ぴたりと張り付く背中のシャツが気持ち悪い。
腕から先の感覚がない。震えが止まらないのだ。
怖い!
…怖い。
怖い……!
……殺される!
咄嗟にそう悟った。
そうだ、俺は殺されるのだ。あの黒色の異形に殺されて終わるのだろう。
長い鉤爪で引き裂かれて死ぬか、思わぬ剛力で体を引きちぎられて死ぬか、頭をつぶされて死ぬか、臓器をくり抜かれて死ぬか―――
「圭吾!! 気をしっかり持って!」
「っ!」
誰かの呼ぶ声に俺の意識は現実世界へと復帰した。暗い想像の世界から、現実へ。
今の声は、ルーミアか。
俺の意識は暗い闇の中に沈んでいた。ルーミアは闇を操る妖怪であるから、俺の意識に目敏く気づいたのだろうか。真相は本人に聞かないと分からないが、とにかく助かった。
「迎え撃つよ!」
俺は三人の行方を捜す。すると彼女たちはあの黒い異形に向かっているところであった。そして三人は互いに少し離れたところで待機し、鋭い眼光で異形を睨みつけていた。
瞬間、辺りが一気に重苦しくなった。何かに心臓を掴まれているかのようなこの感覚、自然と逃げ出したくなるようなこの感覚は、妖気が高まっている証拠だ。三者がそれぞれ別々の妖気を発しているのだ。僅かながら、チルノの周囲が白い靄で包まれたり、ルーミアの周りが暗くなっている気もする。
妖気の増大を感じたことはある。けれどいつ見ても気持ちのいいものではない。
それは、人間としての性なのだろうか。きっとそうだろう。
「アタイにまかせなさいっ!」
「わ、私もやりますっ」
チルノの頼もしい声と、大ちゃんの控え目な声が聞こえる。あの異形を目前にしても臆しない肝っ玉は流石というべきか。
「―――」
異形はもう三人の近くにいる。長い爪を振りかざし、まっすぐライン上にいたチルノに向かってそれを振り下ろした。
「ふん! そんなの当たるもんか!」
当たるより前にチルノは爪攻撃の有効範囲から脱しており、水晶のように透き通った羽を動かして上空へと回避していた。
確かに、攻撃はバカ正面から向かってきたから回避は容易かったかもしれない。
「―――」
「お返しよ!」
チルノがそう叫ぶと辺りは一層気温が低下した。初夏なのに、まるで木枯らしが吹きまわる日のように寒い。
チルノは氷を操る妖精だ。気温も間接的に操れるのだろう。
攻撃を避けたチルノの周囲に氷の弾幕が形成され始める。小さかった氷の欠片が次第に大きな礫となり、それが数えきれないほどの数に、それも一瞬でできあがった。
「凍符『パーフェクトフリーズ』!」
チルノの手には金色に光るカードが握られていた。
スペルカードである。
この幻想郷における弾幕ごっこの中で使用される切り札的存在、それがスペルカードだ。
チルノが放ったスペルカードによる氷の弾幕は黒い異形にビシビシ命中する。高速で射出された弾幕の動きは単調だが、その数と速さで単調さをカバーしている。
「―――」
大量の弾幕に辟易したのか、黒い異形はチルノの放った弾幕の間隙をたどたどしく避ける。避けきれずにそのほとんどが被弾してしまっているが、鏡のように平たい顔は感情を映していない。
「逃がさない!」
チルノのスペルカードの効果が切れ、異形が弾幕を脱したところにルーミアがスペルカードを構えていた。
「夜符『ナイトバード』!」
スペルカードの使用を宣言した瞬間、手元のカードが光と共に消え去り、代わりにルーミアの周囲に多彩な弾幕が出現した。
扇状に広がるように、それは逃げ場をどんどん狭めていく。同時に多方向から発射することで逃げ場を極端に狭くしているのだ。
逃げ場を失った異形に成す術はなく、無慈悲にも全身に弾幕を受け続けた。
「えーーいっ!」
とどめとばかりに大ちゃんがクナイの形をした弾幕を放つ。既にダメージを負っていたためか、動きが鈍くなっていた異形は避けることが出来ずにクナイ型弾幕に貫かれる。
そして最後の弾幕が異形を貫いたとき、やつは煙のように拡散して消えた。
「……消えた?」
やつが消えた後もしばらく警戒は解かなかったが、どれだけ待ってもやつが再び現れることはなかった。
倒したのだろうか。
それさえも曖昧で、まるで狐につままれたような感覚だった。胸の内のわだかまりは、まだ消えずに残っている。
「終わったのか……?」
ルーミアたちが湖から戻ってくる。彼女たちの表情も、気のせいか浮かない顔をしているように見える。
俺は誰に答えてもらうでもなく、独りごちた。




