忍び寄る異変。
時間停止。
それは、この世では起こりうる筈のない現象。
時間は常に移ろいゆく。それは、絶えることのない流水のように。
行く川の流れは絶えずして、また本の流れに非ず―――(鴨長明『方丈記』より)
時間が止まることなどありはしないのだ。
一部そういった能力を使うやつもいるが、それは例外だ。
普通の自然現象で時間停止が起こることなど、ないのだから。
「時間が止まってる……? それ、本当?」
「確証はないけど……案外当たってるんじゃないか」
「確かに雲は動いてないけど……波とか、ほら」
ルーミアは湖の岸辺を指さした。
そこには寄せては返す波が止まることなく繰り返されている。
ざざん、ざざん、と。一定のリズムを繰り返す。
それは、確かに時間停止などとは無縁に行われていた。留まることの知らない波は、砕いては現れ、けれど次の波とは大きさが違う。
形の不定形性は、生きている証拠であった。
規則的なものは、どこか冷たく感じられるから。
そういえば風も吹いていたことに遅まきながら気づく。東方の懐かしき風は俺の心を強く揺さぶったのに。
しかしそれでも、俺は何故か釈然としなかった。
「それはそうなんだけど……けど、どこか変なんだよ」
「変って、どこが?」
「うー……ん。どこって言われても……なあ」
どこが変とか、そういうのではない。
こう、全体的に変な感じがするのだ。
違和感、と言った方が正しいのだろうか。いつもの幻想郷じゃないような、例えば知らぬ間に自分の家の家具の位置を変えられたような、そんな奇妙な違和感だ。
自分の知っているところなのに、自分のあずかり知らぬものに変貌しているような感じだ。
自分でも上手く表現できないのがもどかしくて仕方がない。
俺が難しい顔をしていると、ルーミアが納得顔で手をポンと打った。
「…あ、もしかして圭吾の能力でそれを感じ取ったの?」
ルーミアがだしぬけにそんなことを言う。なんてことはない、ただただ思いついたから言ってみただけ、そんな感じだった。
「……そうだよ。確かに、俺の能力だ」
俺の能力。
そう、俺には能力がある。
何の力もないのに能力だけがあるなんておかしな話だが、それでもあるのだから仕方がない。
あってもなくても同じようなものだが、それでも確かに俺には能力があるのだ。それは、紫や迷いの竹林の先生にも御墨をもらっている。
『環境に適応する程度の能力』
字面は難しいが、なんてことはない。言い換えれば『馴染む程度の能力』だ。
俺は周囲の環境に対する適応性が高いらしく、周りのものに適応、馴染んでしまうらしい。例えば、夏の暑さや冬の寒さを俺はほとんど感じない。常に平温。
ちょっと暑いなー寒いなーと感じるだけなのだ。
もっとも、あまりに極端な場合には馴染みきれないが。
例えば、炎とか―――
「………」
……今一瞬、昔の映像がフラッシュバックした。
八歳の頃の、冬の寒い日の記憶―――
狂った母の叫び声。
泣いて逃げる俺。
全てがおかしくなりだしたあの時。
……いや、もうよそう。あれは、もう終わったんだ。あのつらい出来事から俺はようやく抜け出せたのだ。
またあの出来事を思い出す必要なんて、ない。
「……圭吾、どうしたの?」
「え?」
気がつくとルーミアに顔を覗かれていた。
怪訝そうな表情で、それはチルノと大ちゃんも同じだった。
「何か暗い顔をしてます……」
「悪いものでも食べたんじゃないの?」
そういえばなんの話をしていたんだっけ。……ああそうそう、俺の能力の話だったっけ。
俺が昔のことを思い出していたから、自然と暗い顔をしていたのかもしれない。皆にいらない心配をかけてしまっていたようだ。
「大丈夫、何でもないよ」
「ホント?」
「ホントホント」
事実、あの出来事は忘れることは出来ないまでも、もう風化しつつあるのは確かなのだ。いつまでも後ろばかり見ていても前には絶対に進めない。歩みを進めなければ足の速い兎と言えどもゴールにたどり着くことは出来やしないのだ。
「それよりさ、さっきまで結界の範囲の話をしていただろ? どうしてここまで脱線してるんだ」
「「「……あ」」」
皆一斉に口を揃えて間抜けな声を出す。
確か、幻想郷の時間が止まってるんだーと言う前は結界の有効範囲の話をしていた筈だ。それがどうして俺の能力の話になった?
まあ、別にいいけどさ。困ることはないし。
呆れて溜め息を吐こうとしたが、俺もついさっきまで忘れていたものだから強くは言えない。
忘れていたことへの追及は無しにしよう。
「そうだったねー。すっかり忘れてたよ」
「別にいいけど、それで?」
「あの結界はついさっき現れたって言ったでしょ? だから、私は詳しいことは知らないよ」
「アタイも知らない!」
「すみません、見てないです」
そうか。それもそうだよな。
「じゃあ、今からひとっ飛びで見てきてくれないか? 結界には触るなよ」
「「「了解」」」
ルーミアたちはビシッと敬礼しふわっと浮き上がって上空へと舞い上がる。それから妖精二人は翅をパタパタ羽ばたかせながら、ルーミアは服をはためかせながらそれぞれ四方へと散っていった。
見た感じ結界はそう遠い場所にはないと思う。まあ、視覚の情報なんて曖昧だから本当はもっと遠いのかもしれないけど。
ほどなくして三人が戻って来た。
帰還した三人の情報をまとめると、この結界の範囲は思った通りそれほど広くないようだ。
具体的には、霧の湖が中心からやや西に存在するようだ。
北は妖怪の山から流れ込む川口で途切れている。妖怪の山は範囲には入らない。
南は森が続く。人里へと続く街道が一本通っているが、やはり途中で途切れていて人里は範囲外だ。
西は霧の湖が寄っていることから目ぼしいものはない。元々、こちらは延々と森が続いているだけだからまあいい。
問題は東だった。
俺は霧の湖が中心に構えていると思っていたから、湖の位置には少々驚かされた。
では東には何があったのか?
それはずばり、
「そっか、紅魔館か」
紅魔館。
それは吸血鬼を当主とする、その他の配下(またはその当主の友人)から構成される勢力の一味である。単なる建物の名前でもある。
妖怪の中でも屈指の力量を誇る吸血鬼。彼らは妖々跋扈としたこの幻想郷でもトップクラスの実力を誇り、幻想郷に住む者にその存在を知らぬ者はないと言い切れるほどの存在である。
彼らは嘗てこの幻想郷で異変を起こした。
それが、紅霧異変。
幻想郷が血のように赤い霧で覆われた異変である。
当主であるレミリア・スカーレットは吸血鬼の弱点である太陽を嫌い、だから赤い霧を撒き散らして日光を遮ろうとした。
人里へ害を及ぼすため、結果、我らが巫女の博麗霊夢がその異変を見事解決して見せた。
それ以来、霊夢と紅魔館は友好関係(?)を持つようになり、レミリアはちょくちょく従者の十六夜咲夜を連れて博麗神社に訪問に来るようになった。
それが所以で、紫が親ということもあり、俺もレミリアその他大勢とは知り合いで、何度か紅魔館に遊びに行ったことがある。
そんな紅魔館をド忘れするとは、流石にあれだ。いただけない。
「そうか、そうだよな。普通考えればまずその解答だよな」
「アタイはそう言おうとしたわよ!」
「ルーミアちゃんに途中で遮られましたから……」
そういえば、ルーミアが現れる前にそんな会話をしていたような気がする。
話が脱線しすぎだな。
誰のせいだよ。
「んー? 何で私をそんなに凝視してるのかなー」
自分の胸に聞きたまえ。
そう思った俺だったが、ルーミアはまるで悪びれる様子もなく。反省の自覚もないようだ。
俺は人知れず小さく溜め息を吐く。
まあルーミアのことはどうでもいい。
ともかく紅魔館だ。
強大な力を有する紅魔館を紫がわざわざ見過ごす筈がない。ほぼ百パーセント間違いなく宝珠があるに違いない。
今いる霧の湖から紅魔館はそれほど遠くない。徒歩大体十分といったところか。
ただ、道中の道は獣道しかなく安全とは言いがたい。
当然妖怪も出るだろう。
だけどまあ、それは予想の範疇でもとよりそのつもりでいたのでどうってことはない。
最悪全力で逃げる。
走るのは得意だ。
考えもまとまった所で俺はコホンと一つ咳払い。
皆が俺に注目する。
「あー俺はこれから紅魔館に行く。レミリアに宝珠の所在を聞いてくるよ」
「聞くって……大丈夫なんですか? 相手は吸血鬼ですよ?」
大ちゃんは至極全うな意見を口にする。
人間の俺が偉大な吸血鬼様に会いに行くというのは普通有り得ない。
妖怪でさえ、よほど肝っ玉が据わっていないと出来ないことだからだ。
「大丈夫。レミリアとは知り合いだよ。他のやつらも皆仲良いし、何も問題ないよ」
「そ、そうですか……」
俺が吸血鬼と知り合いと聞いて驚きを隠せない大ちゃん。
そりゃそうだよな。普通。
俺の話を聞いて納得したのかルーミアとチルノも特に異論はないようだ。
まあチルノの場合きちんと理解しているかどうかも怪しいけど……。
まあいいか。
俺は下ろしていたザックを背負い直し、三人に向き直る。
「じゃあ、行ってくるよ」
俺は手を振って踵を返し、森の中へと伸びていく獣道へと足を進めようと―――
その時。
―――ゾクッ、
「――――――ッ!!」
違和感。
否、それは違和感という生易しいものではない。
背筋が凍るような筆舌に尽くしがたい恐怖が俺を襲い、全身鳥肌が逆立った。体の筋肉が強張り、嫌な汗がポトリと落ちた。
マズい。
逃げろ。
危険だ。
本能が俺に逃亡を命じる。
脱兎のごとく、無様でもいい、醜態をさらしてもいい、とにかく今は生きることだけを念頭に置け。
俺の脳内の警鐘が煩いほどに鳴り響いている。現代の道路を走っていたあの白色の車のようにガンガン、と。
俗に言うこれは殺気なのだろうか。
分からない。
分かる筈もない。
俺は戦いに身を置いたことなど一度もない。ただの一度も死線というのを経験したことがないから、これが殺気なのか、はたまた別の物なのか判断がつかない。
けれど、確実に言えることがある。
―――何かがいる。
―――これまで感じたことのないような異形が。
ガチガチと震える体を無理やり動かし、どこかにいるであろう何かを探す。
非常に曖昧で判然としない物言いだが、そうとしか言いようがないのだから。
俺の顔は今どうなっているのだろう?
まともな顔をしているだろうか?
……全くもって自信がない。
金縛りにあったかの如く固くなった首と頭をこらし、その相手を見定めんとする。
途中でルーミアたちと目が合ったが今はそれどころじゃない。
この元凶を探るのが先だ。
必死で気配の元を探った結果、
湖の中心にソイツはいた。
水の上というのをものともせず、水面に立っており。
漆黒のペンキをぶちまけたような真っ黒で。
異形は、こちらを見ていた。




