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学校一の『氷の美少女』な姉は、家だと限界ポンコツ甘えん坊です  作者: 功刀


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ズボラな姉

 窓ガラスを抜けてくる西日が無駄に眩しい。放課後の教室には微かにチョークの粉の匂いが漂っていて黒板の端には日直の名前が傾いた字で残ったままだ。


「いやマジでさ、お前の姉ちゃん神がかってるよな」


 目の前の机に身を乗り出した翔太が熱弁を振るっている。


「さっき廊下ですれ違ったんだけどさ、あの冷たい目。もうご褒美以外の何物でもないね。絶対零度って、ああいうのを言うんだろ。この間も三年生のエースストライカーの告白を秒でフッたらしいじゃん。見惚れて立ち尽くす先輩を、一瞥もせずに歩き去ったとか痺れるぜ。一年のお前が毎日あの顔拝めるとか前世で国でも救ったの?」


 翔太の視線の先。教室の開け放たれたドアの向こうをひとつの人影が横切った。

 艶やかな黒髪がふわりと揺れる。

 背筋をピンと伸ばし、ローファーの足音すら周囲の雑音を切り裂くように整っている。すれ違う生徒たちが、モーゼの十戒のように思わず道を譲るその中心で千秋はただ前だけを見て歩いていた。

 うちの高校の二年にして最高傑作。氷の美少女。高嶺の花。


 誰が言い出したか知らないが、我が校における千秋の通り名である。

 翔太のような連中が、日々その冷たい視線に勝手な幻想を抱いては勝手に拝んでいる。


「……お前、一回脳のMRI撮ってもらったほうがいいぞ」

「はあ? なんでだよ。(みなと)は身内だからあの価値がわかんねーんだよ。家でもあんな感じなんだろ? 食事中も無言で箸を進めて食後の紅茶とか窓辺で優雅に飲んでる姿が目に浮かぶわ」


 紅茶。優雅。

 こめかみの奥がドクンと脈打った。どうやら俺の脳血管はあの馬鹿げた幻想と直視に耐えない現実のギャップを処理しきれずに悲鳴を上げているらしい。

 鞄を乱暴に肩に引っ掛けると、俺は翔太の頭を軽く小突いた。


「俺は帰る。お前はそのまま一生夢でも見てろ」

「おいなんだよそれ! 明日姉ちゃんが使ってるシャンプーの銘柄教えろよな!」


 背後から飛んでくるバカの声を無視して廊下に出た。


 階段を降りながら重い息を吐き出す。足取りは鉛のように重い。

 家への道のりが永遠に続けばいいのにと本気で願う。


 あの完璧な姿勢。凛とした表情。隙のない制服の着こなし。

 確かに外で見れば、千秋は隙のない美術品のような造形をしている。血の繋がった俺から見ても顔のパーツ配置は奇跡に近い。


 だが……

 家の玄関ドアの前に立つと無意識に胃のあたりを手で押さえていた。

 鍵穴に鍵を差し込む。カチャリという金属音がやけに響く。ドアノブを押し下げて玄関に足を踏み入れた。


「……ただいま」


 返事はない。ただ奥のリビングからテレビのバラエティ番組の笑い声が垂れ流されているだけだ。

 靴を脱ごうとして床に転がっている見慣れたローファーにつまづきそうになった。かかとが完全に潰されているし、片方はなぜか裏返っている。


 ため息と一緒に、靴を揃えて廊下を進む。

 リビングのドアを開けた瞬間視界に飛び込んできたのは、先ほど廊下を歩いていた氷の美少女の成れの果てだった。


「あ……みなとぉ……おかえりぃ……」


 ソファとローテーブルの隙間。

 そこにスライムのように溶け落ちた謎の生命体がいた。

 上は高校の指定ジャージ。下はなぜか中学時代の体操着のハーフパンツ。結ばれていない髪は鳥の巣のように爆発しており、口の周りには黄色いスナック菓子の粉がべったりと付着している。


「お前……帰ってきてから何分経ってるんだよ。なんで制服脱ぎっぱなしでそこに転がってるんだ」


 俺の足元には、脱ぎ捨てられたブラウスとスカートが前衛的なオブジェのように丸まっている。

 千秋はゴロゴロと床を転がりながら、俺の足首にガシリとしがみついてきた。


「んー? さんじゅっぷんくらい? 着替えるの疲れたから途中でやめたの」

「途中でやめた結果が上着ジャージで下着のままスウェット履くの忘れた状態か。近所の目があるからせめてカーテン閉めろ」

「みーなーとー。おねえちゃんお腹すいた。コーラ。コーラとポテチののり塩持ってきて。あそこにあるやつ」


 千秋が指差した先にはキッチンのカウンター。


「自分で立てよ。足あるだろ」

「むり。今日体育で持久走だったから足の細胞が全部死滅したの。動いたら骨が砕け散る。湊が持ってきてくれないとおねえちゃんここで餓死するよ? いいの? 明日の朝カピカピになった、美人なおねえちゃんの死体を見つけることになるよ?」

「美人な死体は口の周りにコンソメの粉つけてないから安心しろ」


 足にまとわりつく千秋を引きずりながら、キッチンのシンクに自分の空の弁当箱を叩き込む。

 どうしてこうなるのだろうか。

 学校で見せるあのオーラはどこに消えたのか。外向きのエネルギーを全て使い果たして家の中では、ただの燃えカスになっているとしか思えない。

 冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出し、戸棚から新しいポテトチップスの袋を掴む。

 リビングに戻ると千秋は、仰向けのまま手足だけをバタバタと動かしていた。


「はやくして! おねえちゃんのライフがもうゼロになる!」

「ほらよ」


 俺が床に座り込んだ瞬間、千秋はすさまじいスピードで起き上がり俺の膝の上に自分の頭を乗せてきた。

 ズシッという確かな重量感が太ももに伝わる。


「……重い」

「ふふん。おねえちゃんの愛の重さだよ。はいコーラ開けて。はやく」


 口では文句を言いながらも、俺の指は勝手にペットボトルのキャップを捻っていた。炭酸が弾ける音とともにプシュッと冷気が広がる。

 千秋は俺の膝に頭を乗せたまま口だけをポカンと開けた。


「あーん」

「……は?」

「あーん。飲ませて」

「お前マジで両手どうしたんだよ。機能不全か?」

「今は、湊の膝の温もりを堪能することに全神経を集中させてるから、腕に回す魔力がないの。ほら早くしないとこぼれちゃうぞー」


 全く意味のわからない理屈をこねながら、千秋は俺の顔を見上げてくる。

 下から見上げるその顔は髪が乱れていても、コンソメの粉がついていてもやはり整いすぎている。二重のラインやまつ毛の長さなんて、同級生の女子が知ったら発狂しそうなレベルだ。

 俺は小さく息を吐いて、ペットボトルの飲み口を千秋の唇にそっと当てた。

 コクリコクリと喉が鳴る。


「ぷはーっ! 染み渡るぅ。やっぱコーラは湊に飲ませてもらうのが一番美味しいね」

「ただの砂糖水だろ。つーか起きろ。俺は手洗って着替えたいんだよ」

「えーやだ。もうちょっとこのまま。凑の匂い落ち着くんだもん」


 千秋は俺の膝に顔をすり寄せてくる。完全に人間に甘える大型の飼い猫の動きだ。


「ねえ湊聞いてよ」

「なんだよ」

「今日さ昼休みにまた三年生の人に呼び出されてさあ。すっごい面倒くさかった」

「翔太が言ってたエースストライカーか」

「知らない。サッカーボールの化身みたいな顔してたけど。あの人たちなんで私のこと全然知らないのに好きとか言えるのかな。ほんと意味わかんない」

「そりゃ……お前が外で被ってる氷の仮面が立派すぎるからだろ。この惨状を見たら百人中百人が逃げ出すぞ」

「逃げ出せばいいじゃん。私には湊がいればそれでいいもん。外でいい顔するの疲れるんだから、家でくらい限界まで甘やかしてよね」

「俺は親でも保護者でもないんだが」

「弟! たった一人の愛しい弟! だから今日の夜は数学教えて。ベッドで添い寝しながらでいいから」

「どんなシチュエーションだよ。机に向かえ」

「ぶー。冷たい。湊のいけず。鬼。悪魔」


 唇を尖らせて千秋は俺の太ももを指先でツンツンと突いてくる。


 ここにあるのはただの甘ったれでズボラな干物女。

 誰も知らない千秋の本当の姿。もし翔太が今のこの光景を見たらどんな顔をするだろうか。多分世界線が歪んだと錯覚して三日くらい寝込むに違いない。


「ねえ湊お腹すいた。今日の晩ごはん何作るの?」

「……冷蔵庫に豚肉があったから生姜焼きでも作るか」

「やった! 湊の生姜焼き世界一! マヨネーズ多めでよろしく!」

「太るぞ」

「太らないもん! おねえちゃんは燃費がいいから全部湊への愛のエネルギーに変換されるの!」


 無邪気に笑うその顔を見るとどうしてもそれ以上の文句が出てこない。

 膝にかかる重み。漂うシャンプーとコンソメの混ざった変な匂い。

 外でどれだけ完璧を演じていようと、俺の前でだけはこの重い鎧を脱ぎ捨ててしまうのだ。

 他人に一切の隙を見せない人間が、俺の太ももによだれを垂らしそうな顔で転がっている。


 どう考えても割に合わない役回りだ。家事も世話も全部俺に押し付けられている。

 でも、この窓から差し込む夕暮れの光と、テレビの音がないと俺の日常は回らないような気がしてくるから不思議なものだ。


「ほらどけ。飯作るから」

「えー。抱っこしてキッチンまで運んでよ」

「無理に決まってんだろこのナマケモノ」

「あ痛っ! ほっぺたつねるなー!」


 千秋の柔らかい頬を引っ張ると、ようやく不満げな声を上げて膝から転がり落ちた。

 立ち上がりシワになったズボンを軽く手で叩く。

 キッチンに向かう俺の背中に、床に転がったままの千秋の声が追いかけてきた。


「湊ー! 洗濯機回しといてねー! ついでにマヨネーズほんとに多めにしてねー!」


 背中越しに手をひらひらと振って応える。

 呆れるくらいだらしなくてどうしようもない。


 でもまあ。

 冷蔵庫を開けながら豚肉のパックを手に取る。モーターの低周波音が妙に心地よく響く。

 このズボラな怪獣の腹を満たしてやれるのは世界で俺一人しかいないのだ。そう思うとフライパンに火をつける動作がいつもより少しだけ軽い気がした。

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