第72話:獅子の介入と血の契約――凍りついた執務室
理性的な狂気――獅子の制止
血の臭いが混じり始めた役場の一階。暴力を楽しむ蜥蜴の昂ぶりを、背後から響いた重厚な声が断ち切った。
「待て、蜥蜴」
獅子が低い声で制した。その一言には、殺戮の熱狂の中に強制的な静寂を強いる、隊長としての、そして選ばれた勇者としての絶対的な圧力が宿っていた。蜥蜴は「ちっ」と不満げに鼻を鳴らしたが、その場に踏みとどまり、獲物への追撃を止める。彼は知っている。獅子の理性が剥がれ落ちた時の、冬の嵐のような冷徹さを。
「……さて、局長殿。貴公に一つ教えていただきたいことがある」
獅子は、這いつくばる責任者の前へと、静かに、しかし威風堂々と歩み出た。
その身のこなしは、洗練された騎士そのものだ。荒々しい暴力の権化である蜥蜴とは対照的な、高潔さすら感じさせる佇まい。しかし、至近距離で対峙した局長は、その瞳の奥に、蜥蜴の剥き出しの殺意よりもさらに質の悪い、「目的のためには因果すら踏み潰す理性的な狂気」が宿っているのを見て、心臓が握り潰されるような恐怖を覚えた。
「それを教えてくれれば、我々はすぐに立ち去ろう。無益な騒ぎを広げるつもりはない。我々にとっても、貴殿の命を奪うことは本意ではないのだ」
獅子の「落ち着いた」態度に、局長は溺れる者が藁を掴むような思いで、一縷の望みを託した。
「な、なにを……何を、求められているんだ……我々に何をさせるつもりだ。金か?それとも権限か……」
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不都合な名前――禁忌の親娘
「二十年前、この近辺に移住してきたオレリア。そして、その娘であるレオリナという親娘のことだ。我々は、彼女たちの『現在』の正確な居場所を探している」
獅子は、標的の名前を淡々と、一語一語を石碑に刻むように告げた。
その名は、その場にいた職員たちの間に、目に見えない、しかし決定的な動揺を波及させた。書類を抱えたまま固まる者、顔色を失い隣と視線を交わす者。
オレリア。その名は、この領地の一部の人間の間では暗黙の了解となっていた「不都合な真実」を象徴していた。
当時、北部王都を中心に急速に広まりつつあった魔族差別・排斥運動。そこから逃れてきた魔族系住民たちが、このラブラス領で密かに保護され、開拓民として受け入れられていたという事実。それは、王国中央への反逆、あるいは教会への背信とも取られかねない領主カルディア・ラブラスの「秘密」であった。
「オレリアとレオリナ?……誰だ、それは。私は知らん!そんな名の住民は登録されていない!帳簿のミスか、聞き間違いだろう!」
局長は頑なに首を横に振った。脂汗が滝のように流れ、その瞳は泳いでいる。
人族至上主義の狂風はこの南部にも確実に届き始めている。今ここで魔族系住民の情報を提供することは、公務員としての守秘義務以前に、自らの命を、そしてこの領地の束の間の安定を危険に晒すことを意味していた。彼の拒絶は、保身と、そしてわずかながらの正義感が入り混じった、最後の大罪への抵抗であった。
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剥き出しの死線――絶たれた退路
獅子は、局長の虚偽を嘲笑うことすらせず、ただ冷淡にその言葉を一蹴した。
「それを調べ、知るために俺たちはここにいる。……分かるか。貴公の『知らない』という回答は、この場においては何の価値も持たない。無へと消えるのみだ」
「さっさと吐けや、この脂身!」
耐えかねた蜥蜴が再び吠えた。彼は腰に提げた、光を吸い込むような黒鉄の短剣を抜き放ち、その鋭利な刃を局長の鼻先数ミリの地点に突きつける。未来の鍛造技術で作られたその刃は、周囲の熱さえ奪うかのように冷たい。
短剣の冷たい煌めきが、局長の網膜に「死」の文字を焼き付けた。
蜥蜴は器用に短剣を弄び、周囲の職員たちを蛇のような目付きで威嚇する。
「お前らもだ。知っている奴がいるなら早く教えろ。俺たちは気が短いんだ。砂時計の砂は、もう底をついてるぜぇ?それとも、自分の指が一本ずつ落ちる音を聞きたいか?」
職員たちは互いに顔を見合わせ、誰もが口を固く閉ざした。彼らの視線は、恐怖と救いを求めるように局長へと集中する。
(何とかしてください、局長!早くこの狂人たちを、この悪夢を追い払ってくれ!)
無言の悲鳴が執務室の空気を重く湿らせ、ランプの火が酸素を失ったかのように不自然に揺らした。
局長は、ガチガチと歯を鳴らしながら、最後の抵抗を試みた。
「じゅ、住民の情報を……むやみに教えることは……できない!これは王国の法……そして神の御前での誓いだ!うっ、ううっ……帰ってくれ!頼む、消えてくれ……ここには何も、何も、貴様らの望むものはない……!」
「あらら……強情だねぇ。そういう奴は、未来じゃ真っ先に死ぬって相場が決まってんだぜ?」
蜥蜴は心底つまらなそうに首を傾げ、そして、口角を吊り上げた残虐な笑みをいっそう深めた。その瞳には、すでに局長を「人間」としてではなく、情報を絞り出すための「素材」として認識する、暗い光が宿っていた。
平和な時代の秩序が、未来という重圧に押し潰されようとしていた。




