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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第7部:宿命の決戦 ―1692年、再臨する勇者と老狼の牙―

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第64話:時逆の魔術陣―発動(承)―虎・狐・鷹・梟

『梟の巣』よりの旅立ち


(黒鉄期1692年:夜明け前の名もなき草原)


銀色の光の奔流が、空間の軋みを置き去りにして収束し、朝霧の向こうへと溶け去る。


かつて「梟の巣」と呼ばれた、賢者エウレの仮設魔術陣地があったその草原には、泥と凍土にまみれた八人の勇者たちが、まるで荒波に打ち上げられた船の残骸のように横たわっていた。


因果の鎖を無理やり引きちぎり、六十年の時を遡る代償は凄まじい。彼らの体内を循環する魔那マナは極限まで枯渇し、細胞一つ一つが未知の時空圧に悲鳴を上げている。胃の底からせり上がる強烈な嘔吐感と、内臓を冷えた鉄の指で雑巾のように絞り上げられる激痛。意識の断崖に立たされた彼らを、この時代の冷気が辛うじて現世へと繋ぎ止めていた。


最初に立ち上がったのは、やはり梟であった。


彼女の顔色は、死人のような土気色に沈んでいたが、その金色の瞳には一切の動動も、感傷もなかった。震える手で自身の魔那媒体ペナントを握りしめる。それは、未来への帰還を約束する唯一の鍵であり、現在はただのくすんだ石と化した、第六等級魔鉱石の成れの果てだ。


「……魔那収束率、98.6%を記録。時空跳躍、成功。誤差、許容範囲内」


その血の通わない無機質な報告を聞き、虎が鉛のような身体を無理やり起こした。腰に帯びた二振りの双剣は、未来の技術が結晶化した贈り物だ。だが、魔那がまだ地下深くで眠り、大気中に希薄なこの時代において、その真価を発揮できるかという疑念が、彼の胸をかすめる。


「1692年……魔王ラビス誕生の、一年前か」


虎は乾いた声で呟いた。彼の脳裏には、出発前に叩き込まれた非情な任務の概要が、消えない烙印のように焼き付いている。


未来の破滅を未然に防ぐため、「存在の核」となるべき一人の女性を、彼女がまだ何の罪も犯していない段階で抹殺する。それは、彼が騎士でも聖職者でもない、ただの冒険者としての『誠実』を懸けて受け入れた、血塗られた『大義』であった。


彼らの旅は、休息を許されることなく即座に始まった。魔術陣の痕跡を放置すれば、この時代に不要な因果の乱れを招き、歴史の修正力が牙を剥く。八人は最低限の装備と、「未来を知っている」という唯一にして最大の毒薬を頼りに、最も警戒の薄い南西の辺境――ラブラス領を目指し、五日間にわたる過酷な潜伏行へと足を踏み出した。


________________________________________


五日間の『異物』の旅路と軋轢


(黒鉄期1692年:ラブラス領へと続く街道)


「鳥の巣」を後にしてから五日間。旅路は肉体的にも、そして精神的にも勇者たちを極限まで苛んでいた。


未来の高度な魔法文明に慣れきった彼らにとって、この時代の環境はあまりにも過酷だった。希薄な魔那は魔術による身体強化や治癒を妨げ、食事は獣の脂のような臭いのする干し肉と、石のように硬い黒パンのみ。夜は夜で、野宿の寒さと、現代のそれとは生態の異なる原生魔生物の襲撃に怯え、深い眠りにつくことさえ許されない。


肉体の不満は、やがて精神の膿となって溢れ出し始めた。


特に、勇者・蜥蜴はその苛立ちを剥き出しにしていた。


王都の貧民街で泥を啜って育ち、暗殺者としての地獄の訓練を潜り抜けてきた過去を持つ彼は、任務遂行のためなら冷酷になれるが、環境の劇的な変化に対する耐性を失いつつあった。五日目の夜半、遠方にラブラリアの微かな灯火が見え始めた瞬間、彼の糸は切れた。


「やっと着いたぜ……」


地を這うような低い声で吐き捨てる。


「ろくに飯も食えず、夜通し化け物の相手だ。やってられねぇよ、こんな生活!」


彼の濁った視線は、隣を歩く勇者・狐に向けられた。


狐はダルク島の魔術研究所で極秘裏に育てられた探索のプロフェッショナルであり、常に「冷徹な最適解」を好む。彼にとって、蜥蜴のような感情の爆発は排除すべきノイズでしかなかった。


「てめぇら冒険者崩れと違って、俺たち『騎士団』様は野宿やあんな家畜の餌みたいな飯で満足できる身体じゃねぇんだよ。……だが、やっと終わりだぜぃ」


「……なんだと、コラ」


狐の細い目に、青筋を立てた殺意が宿る。


彼は四十代後半という年齢を感じさせない敏捷さで蜥蜴の喉元へ詰め寄った。


「お前ら騎士団様は、未来じゃ空飛ぶ絨毯の上でフレンチでも食ってたのか?俺と虎が道案内と索敵を完璧にやってるから、お前が無傷でここに立ってられるんだ。分かってんのか、この三下さんしたが」


「おう、なんだぁ?やるってのかい?」


蜥蜴は腰の短剣に手をかけ、挑発的な笑みを浮かべた。その瞳には、かつて貧民街で生きた頃の狂犬のような野生の炎が宿っている。


「蜥蜴、うるさい。黙れ。この任務の重さを忘れたのか」


割って入ったのは、勇者・獅子だった。


騎士団隊長であり、貴族出身の騎士道精神の塊である彼は、この集団の規律を維持することに病的なまでに頑なだった。


「んだとう!」


蜥蜴は獅子にまで牙を剥こうとしたが、獅子の放つ威圧感に気圧され、舌打ちをして視線を逸らした。


「あー、うるさいわねー……。もう少しなんだから黙ってられないの?」


勇者・鷲が、細剣の柄を握りしめながら冷ややかに口を挟む。


正義感が強く俊敏な彼女だが、旅の疲労は彼女の気質をさらに短気で攻撃的なものに変えていた。


「狐もいきり立つな、冷静になれ。あと少しの辛抱だ」


最後に口を開いたのは、サブリーダーの勇者・虎だった。


冒険者出身でありながら、その卓越した戦術眼と誠実さゆえにリーダーの補佐を任されている彼の言葉には、重い責任感が滲んでいた。


旅路を支配するこの張り詰めた緊張感。


教会騎士団所属の四人(獅子、鷲、蜥蜴、熊)は、教会の規律と階級を絶対とする。


一方、冒険者・研究員出身の四人(虎、狐、鷹、梟)は、自己の能力と状況判断を最優先する。


掲げる目的は同じ「魔王暗殺」であっても、その根底にある文化と価値観の溝は、時空の裂け目よりも深かった。


その騒乱の輪から一歩離れた場所で、勇者・鷹は沈黙を守っていた。


狩人の血を引く彼女の視界には、遠くのラブラリアの光だけでなく、街道の暗がりに潜む獣の群れの殺気、そして仲間たちの内面に渦巻く醜い苛立ちの波動さえもが映し出されていた。


「もうすぐ、街だ」


虎はそう言い捨て、再び歩き始めた。


彼らが未来から来た「異物」であるという事実は、彼らの存在そのものがこの平和な時代の空気に不協和音を奏でさせている。そして何より、『時反しの魔術』の負の影響は、彼らの神経を、魂を、一刻一刻と削り続けていた。


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