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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第二部:『箱庭の叙事詩 ― 歴史と魔術の理』

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第6話:箱庭(ホルトゥス)の夢

その場所は、時間の流れから見捨てられた断絶の淵にあった。


かつて栄華を極めた帝国の版図からも、人々の記憶からも消え去った「忘れられた図書館」。そこは、ただ塵と静寂だけが幾層にも降り積もる、知識の墓標である。


窓という窓は厚い石壁と蔦に閉ざされ、天からの陽光が差し込むことは決してない。停滞した空気の中に、わずかに揺れるのは死者の吐息のような微かな風だけだ。


その最奥――。


何者も踏み入ることのなかった大理石の台座の上に、蜘蛛の巣に覆われ、石化したかのように横たわる一冊の書物があった。


その表紙を飾る文字は、現代のどの国家でも使われていない、古代の西方文字によって刻まれている。


『ムンドゥス世界史クロニクル・オブ・ムンドゥス――オース大陸秘匿伝記』


誰にも読まれぬまま、幾千年もの永き時を刻み続けてきたその禁書に、私はそっと指をかけた。


ページをめくった瞬間、乾いた音と共に立ち上ったのは、古い粘土と、濃密に乾燥した魔那マナの香りだ。鼻腔を突くその香りは、一瞬にして私の意識を現代から切り離し、神話の時代へと引きずり込んでいく。


紙葉に記されていたのは、世界の始まりから連なり、四つの「期」に分けられた壮大にして残酷な年代記であった。


この世界――『ムンドゥス』の物語は、途方もない時の流れの彼方、そして神々の気まぐれな「遊戯」から幕を開ける。


________________________________________


“これは存在しない年代記。


ムンドゥス世界の片隅、オース大陸で静かに、そして密やかに語り継がれた、血と鉄の物語である”


西方歴1831年(黒鉄期)5月歴史探訪・作家緑■・■■■■・■■■記す


________________________________________


世界がまだ形を成さず、万物が生まれる前の混沌とした闇。


その空虚な深淵の中に、彼らは降臨した。


名を冠する必要すらない、ただ「神々」と呼ばれる超越者たち。


彼らがこの世界に最初にもたらしたものは、光でも音でもなかった。


それは、無限の可能性を秘めた生命の根源物質――「魔那マナ」である。


神々はこの世界を、ある種の愛着と、隠しようのない皮肉を込めてこう呼んだ。


箱庭ホルトゥス」と。


大気には魔那が満ち、大地はその脈動を蓄える器となった。


神々は自らの代理人として、十六柱の「真精霊」を創造し、この完璧なまでの調和を管理させた。しかし同時に、被造物たる彼らには絶対的な「枷」を課した。


『汝らは我らの道具。世界の命の源たる魔那を、直接喰らってはならぬ』


二万年もの間、世界は神々の意図通り、静止した楽園としての姿を保ち続けた。


しかし、永遠という毒は、やがて創造主である神々の心をも蝕んでいく。


調和は退屈へと変わり、平和は倦怠へと成り下がった。


神々は、自らが作り上げた完璧な円環を自らの手で壊し、そこに「不確定要素」という名の火種を投げ込むことを決意した。


それが、人類という種の誕生であり、闘争の時代の始まりであった。


神々の指先が、箱庭の土を捏ねる。


そこに、かつて禁じられた魔那が、意図的に、しかし残酷な量で注ぎ込まれた。


楽園の均衡は崩れ、魔那を巡る奪い合い、進化、そして淘汰が始まった。




私は、ページをめくる手を止めることができない。


ここには、後にオース大陸を戦火で包み込むことになる「魔王」の起源、そしてそれに対峙する「勇者」たちの運命を左右する真実が、暗号のような筆致で刻まれている。


今、語られるべきは、この「箱庭」において足掻き、奪い、愛し、そして歴史から消えていった者たちの記録。


黒鉄期という過酷な時代を生き抜こうとした一人の男――ルーベンカーが、時を遡ってまで守ろうとした「希望」の物語。


静寂に支配された図書館の中で、私はただ、この年代記の最初の一行を読み進める。


外の世界では、誰もが忘れてしまった物語。


だが、この書物が開かれた瞬間、封じられていた魔那は再び呼吸を始め、歴史の歯車は音を立てて回り出した。


これは、神々が投げ出した「箱庭」で、人間が自らの意志で「鉄」を鍛え、運命を切り拓こうとした、あまりにも眩しく、あまりにも無残な記録である。




第一の時代:黄金期—「神々の時代」


万物が産声を上げる以前、そこには形なき混沌と、底知れぬ空虚な闇だけが横たわっていた。


時間という概念すら定まらぬその深淵の只中に、彼らは降臨した。


個を識別する名を冠する必要すらない。ただ「神々」と呼称される超越的な意思の集合体。彼らがこの虚無の世界に最初にもたらしたものは、眩い光でも、震える音でもなかった。


それは、無限の可能性を秘めた生命の根源物質――「魔那マナ」であった。


神々は、溢れ出す流動的な魔那を指先で掬い上げ、ある時は繊細に、ある時は豪胆に編み上げることで、この世界の骨格を創り上げていった。天を突き刺す山嶺、逆巻く蒼き海、そして魔那を吸って芽吹く生命の萌芽。


彼らは自らが精緻に作り上げたこの世界を、慈しみのような愛と、逃れようのない皮肉を込めてこう命名した。


箱庭ホルトゥス」と。


ホルトゥスは、神々の息吹そのものが物理的な実体として具現化した空間であった。


そこでは、魔那が生命の血液として、箱庭の隅々に至るまで脈動していた。大気は魔那を運び、大地はそれを深く貯蔵する器となる。やがて、その濃密な魔那の溜まりから、数えきれないほど多様な生命が産み落とされていった。


色鮮やかな翼を持つ鳥、森の奥深くに潜む獣、水底で光る魚。それらすべては、神々の飽くなき創造意欲が結晶化した、動く芸術品であった。


しかし、神々の力に限界はなくとも、彼らの「情熱」には、やがて目に見えぬ終わりが忍び寄っていた。


広大な箱庭を隅々まで管理し、自らの意図通りに運用させ続けるには、あまりにも細かな調整が多すぎたのだ。神々は、自らの手を汚さずにこの世界を維持するための仕組みを欲した。


「管理者を立てよう。我らの影であり、忠実なる代理人となる者を」


「ただし、我らの意に染まぬ戯言を吐かぬよう、決して外れぬ枷を嵌めておくべきだ」


こうして神々は、自らの神格の一部を削り出し、それを核として多数の「真精霊」を創造した。


真精霊たちは、魔那の海を自在に泳ぎ、世界の理をその意のままに操作する絶大な権能を与えられた。彼らは神々の命令を絶対の法として遵守し、ホルトゥスが最も輝かしく、完璧な秩序を保つ時代――「黄金期」を現出した。


だが、神々は真精霊に対し、慈悲深い主人の顔をしながらも、冷酷な制限を突きつけていた。


「汝らは我らの道具。その分をゆめ忘れるなかれ」


真精霊は魔那を操ることはできても、それを自らの意志で「消費」し、神に代わる創造主となることは許されなかった。彼らはどこまでも、精巧に作られた維持装置に過ぎなかったのである。


二万年という、人族の尺度では想像も及ばない途方もない歳月、この黄金期は続いた。


真精霊たちは、神々の影としてホルトゥスの細部を整え、完璧な楽園を維持し続けた。神々はその様子を、時には次元の彼方から、時には地上のすぐ隣で、飽くことなく眺めていた。


ホルトゥスは永遠に続く完成された世界に思えた。魔那は枯れることなく溢れ、生命は争いを知らずに繁栄し、世界は完璧な調和の中に安住していた。


しかし、永遠という名の時は、残酷にも創造主たちの心をも蝕んでいったのだ。


変化のない完璧さは、やがて刺激のない退屈へと変質する。調和が取れすぎた世界は、神々にとって、結末の分かっている退屈な書物と同じ成り下がってしまった。


黄金期が終焉に向かおうとしていた、二万年目のとある日のこと。


神々は、いかなる被造物も、そして世界の管理者たる真精霊さえも予測し得なかった、虚無的な一言を漏らした。


「我らは、飽いた」


創造の極致を極め、もはや付け足すべき美徳も、削るべき醜悪さも見出せなくなった神々は、自らの最高傑作であるはずのホルトゥスに対し、急激に興味を失っていった。


これ以上の楽しみの余地はない。これ以上の驚きは訪れない。彼らはそう断じた。


「終わり」の宣言は、唐突で、あまりにも一瞬の出来事であった。


神々は、嘆き悲しむ真精霊たちに何の言葉も残さず、混迷する生命たちに何の理由も告げなかった。ただ、朝霧が陽光に溶けるように、突如としてホルトゥスからその気配を消し去ったのである。


彼らがこの世界を放棄した瞬間、燦然と輝いていた黄金期は、音を立てて崩壊し終焉を迎えた。


世界は、管理者に委ねられたまま、絶対的な支柱であった創造主という楔を失った。


後に残されたのは、神々が投げ出した巨大な舞台装置としての世界と、主を失い当惑する代理人・真精霊たち。そして、主人の制御を離れ、奔流となってあふれ出した生命の源たる魔那だけであった。


神々が去った静寂の中で、真精霊たちは悟った。自分たちはもはや、誰の代理人でもないということを。


枷を嵌められたままの管理者たちは、主無き箱庭で、自らの存在意義を問い直さざるを得なくなった。それが、次なる混乱の時代への序曲となることを、その時の彼らはまだ知る由もなかった。




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