第50話:狼の選択――牙を隠し、影に沈む
嵐のあとの秩序
魔生物の狂乱は、唐突な幕切れを迎えた。
王たる「フェンリル級」の死が森の深淵に伝播すると、統率を失った獣たちは潮が引くように開拓村から去っていった。知らせを受けたラブラス男爵が即座に派遣した領兵団による残党狩りが行われ、辺境全域を震撼させた騒乱は、ようやくの収束を見たのである。
辺境全体で見ればその被害は甚大であった。しかし、三十一開拓村は、ルーパートという男の超常的な予見と、数ヶ月に及ぶ隠密裏の準備――あの巨大なバリスタ群――によって、奇跡的に被害を最小限に食い止めていた。
重軽傷を負った自警団員こそ数十名に上ったが、一人の死者も出さなかった事実は、周辺の村々から見れば「神の加護」とさえ囁かれた。
「やったね!さすがルーおぢちゃん!やっぱりおぢちゃんは世界で一番強いんだね!」
村の中心で、レオリナがその小さな体をいっぱいに弾ませて喜びの声を上げていた。
その無邪気すぎる、しかし核心を突いた叫びを聞きながら、オレリアとマルカスは言葉を失い、今はもうその場にはいない「誰か」の孤独な奮闘を思っていた。
マルカスの脳裏には、バリスタの影で獲物を屠り、名前さえ名乗らずに闇へ消えた、あの「狼」の背中が焼き付いて離れなかった。
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領主館の密談――暴かれた「変装」
十日後。領都ラブラリア、領主館の一室。
厚い絨毯が敷かれた応接室で、ラブラス男爵とゾディアックの幹部レラは、重苦しい沈黙を挟んで向かい合っていた。
「未曾有の災害だったが、おかげで被害は最小限に抑えられた。ルーパート殿の働きには、感謝してもしきれない」
男爵は心からの安堵を吐露したが、レラの表情は、怒りと焦燥で今にも爆発しそうだった。
「全く。これからは中央の動きだけでなく、“森”の気配、魔生物の動向も警戒すべきだ。いいか男爵、ここは辺境なんだ。平和ボケした王都とは違うんだよ」
「痛感したよ、レラ。改めて思い知らされた……我々が踏みしめている土地の危うさをな」
そこへ、壁の影から地を這うような低い声が響いた。
「……手遅れにならなくてよかった」
声の主は、隅で腕を組んで立っていた男――ルーパート。その顔は、村にいた時と同じ無愛想な仮面を被っていたが、立ち姿には隠しきれない王者の風格が漏れていた。
「お前!また懲りずに!!」
レラが弾かれたように立ち上がり、ルーパートの胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。
「姿形を変えたのは、何のためだ!あれだけ目立つ行動を取って……台無しじゃないか!ルーベンカー!!」
ルーパート――いや、ルーベンカーは、何も答えなかった。ただ静かに目を閉じ、口を一文字に結ぶ。
「レラ、言い方がある。彼のおかげで多くの命が救われた。その事実を鑑みてくれ」
男爵の宥めにも、レラは収まらない。彼女はどさりとソファーに座り込み、天を仰いだ。
「分かっているさ。だが、あの鉈剣と、あの圧倒的な強さを見せつけられてみろ。オレリアとマルカスは、もう気づき始めている。嘘を突き通すには、あいつはあまりにも強すぎるんだよ」
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孤独な宣戦布告
「言質は取らせない。俺はただの、通りすがりの狩人だ」
ルーベンカーは冷たく突き放した。
男爵が眉をひそめ、事態の深刻さを説く。
「ルーベンカー殿。今回の事件は中央にも届く。敏い者は、十年前の記憶……『郷の冒険者』が姿を消した事件を掘り起こすだろう。彼らに、あなたという存在が未だ生きているという確証を与えてしまうことになりかねない」
「そこは男爵、あなたの手腕でうまくやってくれ」
レラが投げやりに言った。男爵は溜息をつき、その重責を引き受けた。
「了解している。情報は絞ろう。だがルー、これからどうする。また村を離れるのか?あの状況で姿を消すのは、かえって不自然だが」
ルーベンカーは部屋の出口に向かって歩き出した。
「これまで通り、ひっそりと……“その時”に備える」
レラは彼の背中に向かって、声を絞り出した。
「“その時”か。初めてお前から未来の話を聞いた時は、驚きすぎて腰を抜かしたが……本当に、お前一人で背負うつもりか?」
ルーベンカーは扉の前で立ち止まり、振り返ることなく言い放った。
「手出しは無用。他言無用。俺がすべて、片をつける」
「……助かる」
最後に短く、レラの配慮に対する感謝だけを告げ、彼は静かに部屋を出て行った。
残された二人は、閉ざされた扉を見つめるしかなかった。男爵がグラスを傾け、ぽつりと呟く。
「……孤独な男だな」
「つくづく、度し難い男だよ。あいつは」
レラは、彼が立っていた場所を憎々しげに、そして哀しげに見つめた。
「しかたない。あれが、あの男――『狼』の選んだ道。そして、家族を守るための、彼なりの戦いなんだろうから……」
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黎明の産声から、獅子の咆哮へ
黒鉄期1684年の冬は厳しかったが、村人たちは「影の英雄」が遺した魔那石を糧に、かつてないほど豊かに、そして団結して冬を越した。
ルーパートは相変わらず村外れの廃屋に住み、時折レオリナに無愛想な挨拶を返すだけの「不器用な狩人」に戻っていた。しかし、村人の彼を見る目は、恐怖から「静かな敬意」へと変わっていた。
時は無情に、そして確実。
歴史の歯車は、一人の男の献身を飲み込みながら加速していく。
辺境に眠る「魔の箱庭」の中で、少女は父の面影を追い、母の愛に守られ、自らの血に眠る牙を研ぎ続けた。
中央で人智十字教会の狂信が極まり、大陸全土に戦乱の予兆が満ちる中、彼女は健やかに、そして誰よりも力強く成長していった。
そして――。
黒鉄期1690年。
レオリナは、18歳になった。
父が愛した辺境の風をその身に纏い、彼女が「遺された剣」を真に引き抜く時、物語はついに、誰も見たことのない真の黎明へと突入する。




