第4話:狼、駆ける
薄暗い部屋の隅、アンティークな椅子に腰を下ろしたルーの前に、湯気を立てる一杯の珈琲が置かれた。芳醇な豆の香りが、張り詰めていた彼の神経をわずかに解きほぐしていく。
調査員たちが街へ散ってから、室内には穏やかだがどこか油断ならない沈黙が流れていた。
「……私はレラ。ここの責任者よ」
少女が自ら名乗った。その仕草には、子供らしからぬ堂々とした風格が備わっている。
「俺はルーだ。ルーと呼んでくれ」
「よろしく、ルー。意外と落ち着いているのね。普通、うちに来る客はもっと、こう……追い詰められた顔をしているものだけど」
レラは机に頬杖をつき、ルーを観察するように見つめる。
「慣れているだけだ。待つことにも、修羅場にもな」
ルーの言葉に、レラは「ふうん」と興味深げに目を細めた。
それから小一時間ほどが経過した頃、音もなく扉が開き、先ほどのアビスとラビリの二人が戻ってきた。その表情からは読み取れないが、呼吸の乱れ一つない様子に彼らの練度の高さが伺える。
「意外と手こずったみたいね。で、収穫は?」
レラが促すと、長身の女性、アビスが淡々と報告を始めた。
「該当する『オレリア』という名の女性は、市内の台帳だけで十五名。そのうち、年齢が合致するのは四名。さらに……ご指定の種族、魔族系の特徴を持つ者は一名のみでした」
「ビンゴね。で、その子は今どこに?」
アビスは手元の一枚の紙をルーとレラの間に差し出した。
「半年前、この街を離れています。行き先は『31開拓村』。補足情報として、容姿は端麗、独身。現在は村の共同体で生活しているようです」
31開拓村。
その名を聞いた瞬間、ルーの心臓が大きく跳ねた。後に彼が生まれ育つことになる村。だが、この黒鉄期1670年においては、まだ開拓が始まったばかりの辺境の地のはずだ。
「よし、よくやったわ。……さて、お客さん。お仕事は完了よ。費用は……そうね、金貨六枚」
レラが告げた額に、ルーの眉がピクリと動いた。
金貨六枚。この時代の物価を考えれば、鉄級の冒険者が地道な依頼を数十件こなして、ようやく手に入るかどうかという大金だ。
「……高いな」
「あら、相場よ。それに、今の話を聞いて、あんた一人でそこまで行ける?案内もなしに。相談料と、その村までの詳細な地図。それから不測の事態への保険も含めて……あわせて金貨十二枚。出しなさい」
レラの瞳には、商売人としての冷徹な光が宿っていた。
ルーは静かに懐へ手を伸ばした。彼が取り出したのは、金貨ではなかった。
それは、かつて魔王討伐の旅の際、賢者エウレが儀式の触媒として用意した魔鉱石の破片。第六等級程度の一般的な魔石とは一線を画す、深みのある輝きを放つ大粒の結晶だった。
この時代であれば、第四等級――城一つを維持できるほどの魔力を秘めた、国宝級の代物だ。
それをテーブルに置くと、レラの表情が一変した。
彼女はそれを手に取り、光に透かしてまじまじと見つめる。
「……これ、本物ね。しかも、とんでもない純度だわ」
部屋の空気が一気に凍りついた。アビスとラビリが、無意識に武器へ手をかける気配が伝わってくる。
「これほどの宝物を、これほど簡単に差し出せるあんた……一体何者?」
レラの問いは、もはや少女のものではなく、裏社会を統べる者の鋭さを含んでいた。
ルーは動じず、ただ静かに彼女を見返した。
「……ただの、旅人だ。目的を果たすためなら、惜しくはない」
数秒の沈黙。やがて、レラはふっと肩の力を抜いて笑った。
「ま、いいわ。事情を詮索するのは無粋ね。これならお釣りは出せないけど……その代わり、特別なサービスをしてあげる」
張り詰めていた空気が、霧が晴れるように弛緩した。
「助かる」
「これを、あんたに預けておくわ」
レラが差し出したのは、銀色のペンダントだった。
円の中に逆三角形を重ね、その中央に力強い筆致で『Z』の文字が刻まれている。
「これは……?」
「私たち“ZodhiacK”の印よ。もし街でトラブルに巻き込まれたり、私に連絡を取りたくなったら、掲示板の端に小さく『Z』の印を書きなさい。それを見て接触してきた者にこれを見せれば、力を貸してあげるわ」
ルーはその重みのあるペンダントを受け取った。
「ゾディアック……」
「そう。あまり人目に晒さない方がいいわよ。この街の裏側で、この印を快く思わない連中も少なくないからね」
ルーはそれをしっかりと握りしめ、懐に収めた。
「感謝する、レラ」
「いいのよ。あんたには、もっと面白いことを見せてもらえそうな気がするから。……レラ・ゾディアック。覚えておきなさい、ルー」
少女の不敵な笑みを背に、ルーは店を後にした。
手に残るペンダントの感触と、地図に記された「31開拓村」の文字。
オレリア。未来において魔王の血脈を繋ぐことになる女性。彼女に会うための、長い旅の準備は整った。
黒鉄期1670年。運命の歯車は、加速しながら回り始めていた。
建物を出ると、ラブラリアの街は燃えるような夕刻の残光に包まれていた。
行き交う人々の影が石畳の上に長く伸び、家々の窓からは夕食の支度を告げる煙が立ち上り始めている。どこか平穏で、どこか物悲しい、新興都市の黄昏時。
(……三十一開拓村。やはり、あそこにいたのか)
ルーは胸の内でその地名を反芻した。
南東に位置するその村は、彼にとっての故郷であり、同時に過酷な運命の起点でもある場所だ。
魔王ラビスが発動した禁忌術式「時反しの魔術」。自らの命を触媒とし、理をねじ曲げて過去へと魂を送り出すという絶望的な大博打は、ひとまずの成功を収めた。
だが、真の戦いはここからだ。
この時代、この場所で、後に「災厄の魔王」と恐れられるレオリナの母となる女性、オレリアを見つけ出すこと。そして、彼女を――ひいては未来の魔王ラビスを――歴史の濁流から守り抜くこと。
彼よりも先にこの時代へ送り込まれ、レオリナの抹殺を至上命題とする八名の「勇者」たち。彼ら獅子の如き追跡者が現れる前に、彼女を確保しなければならない。
「さて……急ぐか」
ルーは外套のフードを深く被り、顔を隠した。
人通りの多い大通りを避け、湿った影の落ちる裏路地へと身を投じる。
彼の脚は、まるで野生の獣のようなしなやかさと爆発的な推進力を取り戻していた。石畳を蹴る音は最小限に、迷路のような路地を縫い、彼は街の外郭へと向かう。
闇に紛れ、風を切り、一匹の「狼」が過去の荒野へと駆け出した。
*
ルーベンカーが去った後で
「Z」の印が刻まれた薄暗い一室では、レラが依然として机に頬杖をついていた。
彼女の指先は、ルーが置いていった大粒の魔鉱石を弄んでいる。その結晶が放つ神秘的な輝きは、部屋の影を濃くし、彼女の瞳に奇妙な色を落としていた。
(……レラ様。少々、遊びが過ぎたのではありませんか?)
天井の隅、あるいは影そのものから響くような声が、室内の静寂を破った。
レラは珈琲を一口啜り、そっけなく応じる。
「ん?そうだったかしら?」
(はい。あのような新米冒険者相手に、随分と子供っぽく振る舞われて。……少々、可愛らしすぎましたよ)
「なっ……!?」
レラの顔が、夕焼けよりも赤く染まった。彼女は手に持っていたカップをガタンと机に置く。
「うるさいわね!あれでよかったのよ。相手は底の知れない男だったわ。下手に高圧的に接して警戒されては、情報の引き出しに支障が出るでしょう?」
(ほう。単に、あの男の持つ独特の雰囲気を楽しまれていたわけではないと?)
「黙りなさいったら!……それより、彼のこと、何か分かったの?」
レラの声から余裕が消え、情報屋の頭領としての鋭さが戻る。
影から応じる声も、一転して事務的な冷徹さを帯びた。
(……いえ。件の男――ルーは、今日この街に突如として現れたようです。冒険者ギルドで登録を済ませ、その足で直行してこちらへ。それ以前の足取りは、どの検問所にも、どの宿の台帳にも残っていません)
「スラムで目撃された、あの“発光現象”との関連は?」
(不明です。ですが、光が収束した直後、その付近から彼が現れたという目撃証言が数件あります)
「……やはりね。あの現象そのものが、彼をこの街へ運んできた器だったのかもしれないわ」
レラは魔鉱石を光に透かした。この時代には存在し得ない純度。そして、男の瞳に宿っていた、未来を既知のものとして見据えるような、静かな絶望と決意。
「追跡は?」
(はっ。手練れを二名、付けております)
「何か動きがあれば、即座に報告を。それから……念のため、この件を男爵家に伝えておいて。『正体不明の、しかし極めて高い戦闘能力と希少な資材を持つ個体が領内に侵入した』とね」
(了解いたしました)
返答と共に、部屋に漂っていた微かな殺気が霧散した。
一人残されたレラは、冷めかけた珈琲を飲み干す。
手の中の魔鉱石は、まるで生き物のように脈動しているように見えた。
「ルー……。貴方が一体何を変えようとしているのか、見せてもらうわよ」
彼女の呟きは、誰に届くこともなく暗がりに消えた。
ラブラリアの裏社会を束ねる少女の興味を惹きつけた「狼」の足跡は、今、確実に三十一開拓村へと向かって刻まれていた。




