第27話:断章:賢者の算断、あるいは因果の「澱」に関する考察
沈黙の塔、深淵の演算
黒鉄期1751年。勇者たちが歴史の濁流へと消え、領都ラブラリアを埋め尽くした鉄と血の臭いが、冬の凍てつく北風に薄まり始めた頃。王都の北端、常に灰色の雲を切り裂くように聳える「沈黙の塔」の最上階で、顧問賢者エウレは独り、巨大な魔術回路の海にその精神を浸していた。
彼の周囲には、数百の浮遊する高純度結晶体が淡い燐光を放ち、刻一刻と変質を続ける「世界の魔那流動図」を虚空に投影している。人族が「時反しの魔術」という神の領域――禁忌に触れた代償として、塔の周囲には局所的な時空の歪みが露発していた。窓の外では雪が重力を裏切って空へと降り、機械仕掛けの時計の針は、狂ったような速度で逆円を描いては静止する。
「……計算が、合わない」
エウレの掠れた声が、無機質な石壁に跳ね返る。
彼の目前には、過去へと送り込んだ「八人の勇者」の生命信号を追跡するための術式が展開されていた。獅子、虎、鷹、梟……。彼らの魂の残響は、1692年の時間軸において微かな、しかし確かな「輝点」として観測されている。
だが、その輝点とは別に、あるはずのない「澱」が、因果の深底に黒く沈殿していた。
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観測外のノイズ、あるいは「九人目」の残影
エウレが心血を注いで構築した「時反し」の理論によれば、過去への介入は「作用」と「反作用」の冷徹な均衡によって成立する。不純な外部因子(勇者)が過去の事象を改変しようと試みれば、ムンドゥスという箱庭そのものがそれを拒絶し、自動的に修正しようとする。その抵抗から生じる「摩擦係数」は、すべてあらかじめ計算の内にあったはずだった。
「梟の網膜から送られてくる数値によれば、『世界の軋み』は想定を大幅に超え、最大値を更新し続けている。だが、この跳ね上がり方は……物理的におかしい」
エウレの細い指が、空中に浮かぶ魔那の波形を震えながらなぞる。
1692年の第31開拓村。そこには、勇者たちが転移してくる数十年も前から、地脈を不自然なまでに書き換え、魔生物の回遊ルートを物理的に歪めている「巨大な質量」が存在していた。
「……ありえない。1692年当時の公式記録に、これほどの魔那密度を持つ個体は存在しない。レオリナの父、あるいは村の守護者?いや、それらはいずれも『第3等級以下の凡夫』として歴史の塵に消えたはずだ」
エウレの金色の瞳が、計算不能なバグを前にして鋭く細まる。
彼は気づき始めていた。自分たちの計画が発動する以前に、既に因果の円環の中に、エウレという至高の知性をもってしても予見できなかった「未知の変数」が紛れ込んでいることに。
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ムンドゥスの呻き、あるいは世界の修正力
エウレは、術式の奥底から伝わってくる不気味な「響き」に意識を集中させた。それは音ではなく、世界そのものが上げる、生理的な拒絶反応――「世界の修正力」の呻きであった。
通常、歴史に石を投げ込めば、その波紋は緩やかに広がって消える。しかし、今の1692年は違う。投げ込まれた石に対し、世界が猛烈な勢いで「壁」を作り、因果の穴を埋めようと躍起になっている。あたかも、その地点に「あってはならない平和」を死守せんとする、巨大な免疫系が作動しているかのように。
「何かが、歴史を繋ぎ止めようとしている。私が過去を『訂正』しようとする力に対し、それを真っ向から否定し、『この歴史こそが正解である』と主張するほど強固な意志の力が……」
その時、エウレの脳裏に、ラブラリアの戦場で死んだはずの「狼」の不在が結びついた。
「まさか‥‥‥」
教会の回収班が到着したとき、現場には獅子や虎たちの骸はあっても、第九の勇者の死体だけが消失していた。霧が晴れるように消えたあの男。魔王ラビスは、自分の「切り札」を、エウレよりも遥か早い段階で盤上に配置していたのだとしたら…。
「計算外だ‥‥もし奴が、「世界の修正力」が働いているとしたら……」
エウレの背筋を、氷のような戦慄が駆け抜ける。
八人の勇者たちは過去の世界にとって「異物」であり、排除されるべき毒に等しい。対して、20年かけて村に根を張り、家族を作り、土地を守ってきたルーベンカーは、世界にとっては「愛すべき構成員」そのものだ。
世界が守ろうとしているのは、エウレの望む未来ではない。ルーベンカーという怪物が作り上げた、偽りの「平和」なのだ。
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算断の破綻、あるいは狂気の加速
「……梟、聞こえるか。返答しろ、梟」
エウレは通信媒体を通じて、過去にいる「梟」への強制的な意思伝達を試みた。
時空の障壁が悲鳴を上げ、彼の声は途切れ途切れの電子的なノイズとなって時間の壁を穿つ。
「観測任務を……直ちに放棄せよ。……レオリナの殺害よりも……優先すべき『障害』がある。……その村に潜む……歴史の寄生虫を……特定し……排除……せよ……」
しかし、梟からの返答は途絶えたままだ。
ただ、結晶体から送られてくる彼女の精神波形には、演算の果ての「絶望」と、師に対する初めての「疑念」に似た、計算不能な揺らぎが混じり始めていた。
エウレは沈黙の塔の窓から、暗雲に覆われ、死にゆく王都を見下ろした。
彼の計算式は美しく、冷徹で、完璧な救済であったはずだった。しかし、ひとたび「時」という深淵に指を差し込めば、そこには人間の矮小な知性を嘲笑うような、世界の自浄作用が牙を剥いて待ち構えていた。
「面白い。……九人目の勇者が、因果の円環を閉じにくるというのか。あるいは私の算断が、世界の修正力さえも上書きするか」
エウレは狂気を孕んだ笑みを浮かべ、自身の生命力すらも魔那に換えて回路へと注ぎ込んだ。
塔の最上階で、因果の数式が火花を散らしながら、赤黒く書き換えられていく。1751年の王都において、賢者はただ一人、自分の生み出した救済の化身たちが、過去で「真の正義」を自称する狼と激突する瞬間を、暗い歓喜と共に待ち構えていた。




