第2話:ギルドでの蹉跌:過去と現在のギャップ
領都ラブラリアの目抜き通りは、スラムの淀んだ空気とは無縁の、眩いばかりの光に満ちていた。
行き交う馬車の車輪が石畳を叩く規則正しい音。露店から漂う、スパイスの効いた煮込み料理の匂い。多種多様な種族が混ざり合い、活気に満ちた喧騒を作り出している。
その雑踏の中を、ルー――ルーベンカーは、周囲の情景を網膜に焼き付けるようにして進んでいた。
(黒鉄期1670年……。本当に、戻ってきたんだな)
彼の胸中には、歓喜と同時に、胃の腑を掴まれるような焦燥感が渦巻いていた。
目的ははっきりしている。この時代に生きているはずの女性、オレリアを探し出すこと。
彼女は、後の時代において「災厄の魔王」と恐れられることになるレオリナの、その生母のさらに母にあたる人物だ。
ラブラリアの理念を信じ、この街のどこかで静かに暮らしているはずの魔族系の血を引く女性。だが、広大なこの都市で、名前以外の情報が皆無に等しい一人の女性を見つけ出すのは、砂漠で一粒の宝石を探すに等しい困難が予想された。
「……まずは、足場を固めるか」
ルーは独りごちた。
金もなければ、この時代における身分を証明するものもない。今の彼は、ただの「素性の知れない武装した男」でしかないのだ。
やがて、通りの先にひと際重厚な石造りの建物が見えてきた。入り口の上部には、交差する剣と盾を象った古びた真鍮の看板が掲げられている。
冒険者ギルド。
大陸全土に網を張るこの組織は、実力至上主義であり、同時に情報の集積地でもある。
「情報収集、行動の自由……。やはり、冒険者になるのが一番手っ取り早いな」
ルーは迷わずその扉を押し開けた。
室内に足を踏み入れた瞬間、懐かしい、だが決定的に異なる空気に包まれた。
彼が記憶する「黒鉄期1751年」のギルドは、泥沼化する戦乱と魔族の侵攻により、常に死の臭いが漂う殺伐とした場所だった。そこにいるのは、明日をも知れぬ命を酒で誤魔化す、虚無感を抱えた戦士たちばかりだった。
しかし、目の前の光景はどうだ。
窓から差し込む午後の光の中で、若手冒険者たちが自慢の武器を磨きながら大声で笑い、商人たちが眉をひそめながらも報酬の交渉に熱を上げている。隅のテーブルでは、老練な探索者が新人に罠の解除法を説き、時折、酒の注文を巡って小さな小競り合いが起きる。
殺気ではなく、生活の熱量。
どこか牧歌的ですらあるその光景に、ルーは場違いな場に迷い込んだような奇妙な感覚を覚えた。
彼は努めて冷静を装い、木製の長いカウンター――受付へと向かった。
「尋ねたいのだが、」
声をかけると、書類を整理していた若い女性職員が顔を上げた。彼女の表情には、後の時代の職員が浮かべていた「戦死者のリストを整理するような事務的な冷たさ」は微塵もなかった。
「いらっしゃいませ!本日はどのようなご用件でしょうか?依頼の相談ですか?討伐品の買い取り?それとも、新しく冒険者登録をされますか?」
にこやかで、どこかお節介そうなほどの明るい声。
ルーは一瞬、返答に詰まった。
彼のいた時代では、「狼のルーベンカー」の名を知らぬ冒険者はいなかった。一流の探索者として、また屈指の剣士として、ギルドに入れば自然と道が開け、支部長自らが奥の部屋へ招き入れるのが常だったのだ。
だが、ここでは違う。
彼は無名だ。それどころか、まだこの世に生を受けてさえいないはずの「異邦人」なのだ。
「……冒険者登録を、お願いしたい」
「はい、承知いたしました!では、こちらの申込書にご記入をお願いしますね」
受付の女性は手際よく羊皮紙を差し出した。そして、ルーの使い込まれた防具や、背中の大きな鉈剣をチラリと見て、親切心から付け加えた。
「あっ、もしかして文字は……大丈夫ですか?もし苦手でしたら、こちらで代筆もできますよ?」
「あぁ、問題ない。書ける」
ルーは羽ペンを手に取り、インク瓶に浸した。
だが、ペン先が紙に触れる直前で止まった。
(……名前、種族、職業、出身……)
出身地。
素直に「31開拓村」と書けば、照会された時点で終わりだ。その村はまだ存在していないか、あるいは全く別の名前で呼ばれているはずだ。この時代に自分のルーツが存在しないという事実は、不必要な疑念を招く。
ルーは顔を上げ、平然を装って聞いた。
「これ、全部埋めなければならないのか?」
「ええと、基本的にはそうなのですが……」
受付は少し困ったように首を傾げた。
「わけありの方も多いですからね。最低限、名前、年齢、性別、種族、そして今の職業(適性)さえ分かれば登録は可能です。出身地などは空欄でも構いませんが、身元保証がない分、最初は受けられる依頼に制限が出るかもしれませんよ?」
「構わない。それで頼む」
ルーは迷いなくペンを走らせた。
・名前:ルー
・年齢:24歳
・性別:男
・種族:獣人系人族
・職業:探索者兼剣士
・出身:(空欄)
書き終えた紙を差し出すと、受付はそれを一読して頷いた。
「はい、結構です。ルーさんですね。では、魔石の照合と手続きを行いますので、あちらのベンチで少しお待ちください」
数分後。
再び呼ばれたルーの手元には、鈍い銀色に光る金属製のプレートが握られていた。
「お待たせしました。これがあなたのギルド証です。今日からあなたは、正式にラブラリア冒険者ギルドの一員です」
彼女はそこから、立て板に水のような勢いでギルドの規約を説明し始めた。
「……というわけで、あなたは実績のない初心者ですので、一番下の『鉄級』からの開始となります。規則を破れば資格剥奪、虚偽の報告は厳禁。何か分からないことはありますか?後で『知らなかった』では済まされないトラブルに巻き込まれることもありますので、今のうちに確認しておいた方が身のためですよ?」
後の世で、伝説的な難関任務を数々こなしてきた男に対し、これほど丁寧な(あるいは幼児に対するような)説明が行われるのは、皮肉以外の何物でもなかった。
だが、ルーは嫌な顔一つせず答えた。
「いや、よく理解できた。感謝する」
その淀みのない、そして過度に卑屈でも傲慢でもない落ち着いた返答に、受付の女性は「ん?」と少しだけ不思議そうな顔をした。新米冒険者特有の浮ついた様子も、逆に虚勢を張るような尖った気配もない。その立ち居振る舞いは、まるで何十年も修羅場を潜り抜けてきたベテランのそれだったからだ。
だが、彼女はすぐに営業用の笑顔に戻った。
「はい!では、あちらの掲示板を見てください。ご自分の実力に見合った依頼を選んでくださいね。鉄級の方は、まずは街の清掃や薬草採取から始めるのが定石ですよ」
ルーはギルド証を懐にしまい、掲示板へと歩み寄った。
そこには無数の依頼書が張り出されていた。
ドブネズミの駆除、迷子の猫探し、街灯の魔石交換といった雑用から、森での薬草採取、街道の護衛、そして農作物を荒らす獣の退治や、稀に現れる低級魔生物の討伐……。
かつての彼なら、見向きもしなかったような些細な依頼の数々。
しかし、ルーの目はそれらを一つ一つ、冷徹なまでに鋭く観察していた。
(平和だな……。だが、この平和の裏側に、オレリアへと繋がる糸が必ずあるはずだ)
彼は静かに手を伸ばし、一枚の依頼書を引き抜いた。
過去を変え、未来を救うための、最初の一歩。
それは、名もなき新米冒険者「ルー」としての、地道な戦いの始まりだった。




