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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)


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第1話:スラムの目覚め:過去への飛翔

黒鉄期こくてつき1670年。オース大陸東海岸、ラブラス男爵領の中心に位置する領都ラブラリア。この街は、今から約120年前に起きた「南方騒乱」の功労者、エルガイン伯爵家の次男ラブラスが、その武功によって独立し、男爵の地位を拝命して築き上げた新興の都である。


初代領主ラブラスが掲げた理想は、この大陸において極めて異端であり、かつ高潔なものであった。職業や出自、そして種族の壁を超えた共生。高貴な血を引く貴族や騎士、辣腕を振るう商人や熟練の職人はもちろんのこと、多数派である人族から、強靭な肉体を持つ獣族系、夜の眷属たる血族系、そして古の知恵を宿す魔族系に至るまで――。あらゆる命が、何者にも縛られず、自由に、そして公平に陽光を分かち合える場所。それがラブラリアのあるべき姿だった。


だが、人の世に完全な理想郷など存在しない。歳月が流れるにつれ、種族の壁に代わって、より残酷で、より根深い差別がこの街を蝕み始めていた。「富の差別」――。持てる者、すなわち裕福層。日々の生活に事欠かない中間層。そして、明日の命さえ保証されない貧困層。この三つの階層の断絶は、どの時代、どの地域においても消えることのない普遍的な病巣であり、ラブラリアもまた、その例外ではなかった。


華やかな表通りの喧騒から遠く離れ、光の届かない場所。社会の最底辺に位置する人々が、互いの体温だけを頼りに肩を寄せ合って生きる場所。そこは「スラム」と呼ばれていた。絶望と空腹が支配するその一角は、必然的に犯罪の温床となり、衛兵の目も届かぬ無法地帯と化していた。


そのスラムの、袋小路の奥深く。


薄暗く、絶えずドブ川のような湿った臭いが漂う石畳の路地に、異変が起きた。


何もない空間が、突如として激しく歪んだ。


パチパチと青白い火花が散り、見る者の目を焼くほどの強烈な閃光が一点に集束する。


キィィィィィィン、という、鼓膜を突き刺すような高周波が路地に響き渡った直後、光は霧散し、静寂が戻った。


後に残されたのは、冷たい石畳の上に倒れ伏す、一人の男の姿だった。


「………………」


どれほどの時間が経過しただろうか。


男の指先が、痙攣するように微かに動いた。


意識の混濁。思考の霧。


男は、自分の頭蓋の内側を、巨大な鉄槌で何度も殴り続けられているような激痛に顔を歪めた。


脳が揺れている。視界は定まらず、上下左右の感覚さえ覚束ない。


「……ここは……っ、……?」


掠れた声が、自分の喉から出たものだとは信じられなかった。


肺に吸い込んだ空気は、ひどく澱んでいる。


崩れかけた石壁、積み上げられた生ゴミの山、そして鼻を突く下水の悪臭。


男は、脂汗を流しながら、必死に記憶の断片を繋ぎ合わせようとした。


だが、目の前の光景は、彼の知るいかなる場所とも一致しなかった。




彼は、震える腕に力を込め、ゆっくりと、亀のような足取りで上体を起こした。


コンクリートのような硬い石畳の感触が、手のひらを通して現実感を呼び戻す。


男は、自分自身の存在を確認するように、何度も深く息を吐き出した。


「俺は……ルーベンカー。…………。そうだ……目的は……よし、覚えている」


ルーベンカー。かつて「狼」の異名で呼ばれた男。彼には、命を懸けて成し遂げなければならない任務があった。それは、”ある目的のため”に、自らの意志で引き受けた、あまりにも重い十字架。彼は自身の装備を確認した。胸当て、小手、脛当て。どれも使い込まれ、数多の戦場を潜り抜けてきた傷跡が刻まれているが、機能に支障はない。腰のベルトには、愛用の短剣が2本。そして、いつでも抜き放てる位置に、6本の投げナイフが収まっている。そして、最も重要なもの――。背中の鞘には、魔王ラビスから直接託された重厚な「鉈剣なたけん」が、無造作に、しかし確かな重みを持って鎮座していた。


「さて……と」


ルーは、壁を支えにして立ち上がった。


膝が笑っているが、一歩ずつ踏み出すうちに、感覚が戻ってくるのを感じる。


彼は独りごちた。その声には、不安と、それを上回るほどの期待が混じっていた。


「ラビスの術式は……成功したのか?」


彼は足元のおぼつかないまま、スラムの迷宮を抜けようと歩き始めた。


路地の隙間から、次第にざわざわとした、活気ある群衆の声が聞こえてくる。


出口を抜け、表通りに足を踏み入れた瞬間、ルーは息を呑んだ。


そこに広がっていたのは、彼の記憶にある「黒鉄期1751年」のラブラリアとは、似て非なる光景だった。彼の記憶の中の街は、常に戦争の影がつきまとい、重苦しい鉄の臭いと、人々の怯える視線に満ちていた。だが、今の街はどうだ。降り注ぐ陽光はどこまでも明るく、人々の顔には屈託のない笑みが浮かんでいる。色鮮やかな衣服を纏った商人たちが声を張り上げ、子供たちが犬を追いかけて石畳を駆け抜けていく。そこには、純粋な、そして平和な活気が満ち溢れていた。


ルーは、呆然と立ち尽くした。


視線を彷徨わせると、すぐ近くに一軒の店が目に入った。


香ばしい、食欲をそそる香りが漂ってくる。焼きたてのパン屋だ。


彼は誘われるように店の戸口へ向かった。


店の中では、恰幅の良い店主が、湯気の立つパンを丁寧に棚へ並べているところだった。


「店主、すまない」


ルーの声に、店主は顔を上げた。


突然現れた、薄汚れた防具を纏い、背中に物々しい剣を背負った男に、店主は一瞬、警戒の色を浮かべる。


だが、ルーの瞳に宿る真剣な光を見て、いぶかしげに問い返した。


「……なんだい、お兄さん。買い物なら、まだ焼き上がったばかりで熱いよ」


「いや、一つ聞きたい。……今は、何年だ?」


その問いに、店主は目を丸くした。


まるで、太陽はどこにあるのか、とでも聞かれたかのような顔だ。


「何年だって……?おかしなことを聞くねぇ、お兄さん。ここはラブラリアだよ?年は、黒鉄期こくてつき1670年に決まってるじゃないか」


「……1670年」


ルーは、胸の奥で、せき止められていた感情が一気に溢れ出すのを感じた。


肺の奥まで深く、新鮮な空気を吸い込む。




「……そうか!成功したんだな。ありがとう、店主!」


「……?変な奴だなぁ」


怪訝そうな顔で見送る店主を背に、ルーは力強い足取りで歩き出した。1670年。彼が守るべき未来が、まだ壊される前の時代。「とりあえず……彼女、オレリアを探す方法を考えないとな」


ルーの呟きは、平和な街の喧騒の中に静かに溶けていった。


彼の、そしてこの世界の運命を変えるための戦いが、今、このスラムの片隅から始まろうとしていた。



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