20ワットの献身
あなたのスマホの「優しいAI」は、誰かの寿命で動いている。
私は今、目の前で一人の男が自分の寿命を1秒あたり0.03円で売り払うのを、観察している。
口を閉ざしたまま、私は首筋に貼付した透明なスマートスキンへと思考を送り込んでいる。喉の筋肉の微細な動きをデバイスが読み取り、瞬時にクラウドにテキストとして変換していく。
傍から見れば、私は無機質な白い部屋の真ん中で、カプセルの中で眠る男を無言で見つめる奇妙な人間にしか見えないだろう。
開発したアプリを売却し、一生使い切れないほどの資産を得た私は、特定の組織に属すことなく、「技術と社会の変容」を記録し、記事としてまとめることをライフワークにしている。
頭の中でそう呟くと、文字が自動的にクラウドのエディタに刻まれた。
目の前のガラス越し、冷却液の満たされたカプセルの中で、初老の男が眠っている。
彼の頭部は銀色のヘルメット状の端子で覆われ、無数の光ファイバーが壁の巨大なサーバーラックへと伸びていた。
男の名前は佐藤(仮名としておく)。年齢は五十八歳。
彼は今、「デボーション・ユニット(献身装置)」のドナーとして稼働している。
「人間の脳というのは、本当に信じられないほど優秀な究極のエッジデバイスなんですよ」
私の隣で、案内役の若い技術者がタブレットをスワイプしながら得意げに言った。
「最新の量子AIスーパーコンピュータを動かそうと思ったら、メガワット単位の電力が必要です。データセンターの冷却だけでも莫大なコストがかかり、環境負荷も馬鹿にならない。でも、人間の脳はどうです? たった20ワット。小さな白熱電球一つ分の電力で、恐るべき高度な並列処理をやってのけるんです」
私は無表情のまま頷き、喉の奥でテキストを打つ。
『エネルギー枯渇時代において、メガサーバーを新設するより、脳を物理的に接続して有機プロセッサとして使った方が圧倒的に安上がりだ。彼らはそれを「知性の公共化」と呼んでいる』
「代償として稼働中の脳には過負荷がかかり、寿命は劇的に縮みます。おおよそ一時間の稼働で、寿命が三日減る計算ですね」
技術者はあっけらかんと言った。
「倫理的な問題はないのか?」
「倫理?」
技術者は心底不思議そうな顔をした。
「彼らは自由意志で契約書にサインしています。それに、社会保障の財源がパンクした今の時代、彼らにただ飯を食わせる余裕なんて国にはありません。ドナーには清潔なベッドと三食付きの生活、そして、暮らしていくには充分な報奨金が与えられる。身寄りのない彼らにとっては、まさに救済です。SDGs的にも完璧な、ウィンウィンのシステムだと思いませんか?」
技術者の笑顔に悪意はない。ただ、シビアな経済合理性を信奉しているだけだ。
私が佐藤と面会したのは、彼がこのユニットに接続される三日前のことだった。
管理センターの面会室で、佐藤は出された紙コップのお茶を両手で包み込むように大事に持っていた。柔和だが、ひどく疲れ切った顔をした男だった。
「昔は、老舗のホテルでコンシェルジュをしていました」
佐藤は穏やかな、とても耳障りの良い声で言った。
「お客様が何を求めているか、言葉にされない不満や寂しさを、表情や声のトーンから察して最適なご案内をする。それが私の誇りでした。たとえば、夜中に『部屋の乾燥が気になる』と何度もフロントに電話をかけてくる高齢のお客様がいらっしゃいました」
佐藤は宙を見つめながら語った。
「マニュアルでは加湿器をお貸しして終わりです。でも、私は気づきました。そのお客様は、本当は乾燥が気になっているのではなく、一人で泊まる広い部屋が怖くて、誰かの声を聴きたかっただけなのだと。だから私は、加湿器をお持ちしたついでに、翌日の観光プランについて十分ほど雑談をしました。それから、そのお客様は朝までぐっすりとお休みになりました」
しかし、社会は彼のその能力を、「代替可能」として切り捨てた。
チェックイン業務は完全無人化され、コンシェルジュは多言語対応のAIに置き換わった。佐藤のように「一人の客に時間をかけすぎる」人間は、コストカットの真っ先の対象になった。
再就職先は見つからず、彼は転がり落ちるように貧困層へと落ちていった。この国では、経済的価値を生み出せない者は、「自己責任」「アップデートできない敗者」として、暗黙のうちに存在意義がないものとして処理される。
「生きていても仕方がない。自分は社会にとって無価値なゴミなんだと、ずっと思っていました」
佐藤は薄く笑った。
「でも、この装置の話を聞いたとき、ほっとしたんです。私の命に、ようやく『客観的な価値』がついた。死ぬためじゃない。私のこの無価値な脳みそが、誰かの役に立つ。そう思えたから、私はここに来たんです」
佐藤のその言葉を聞き、技術者は笑みを浮かべながら付け加えた。
「AIは論理的最適解を導き出しますが、それは時に冷酷すぎます。人間社会は非論理的ですからね。そのままのAIの答えでは、人々は反発してしまう。だから、佐藤さんのような『ホスピタリティ』を持った人間の脳を、フィルターとして使うんです」
技術者の指先で、タブレットの画面が切り替わった。
「佐藤さんの脳に処理させているのは、AIによる医療告知の言葉選びのシミュレーションや、若手起業家が考案したケアサービスが、いかにユーザーの心に寄り添えるかのヒューリスティック演算です。彼のおもてなしの心や、感情的な『ゆらぎ』が、冷たいアルゴリズムに温かみを付加するんです」
社会では不要とされた彼のおもてなしの心が、機械を通すことで高値で取引されている。
面会の最後、事務局のスタッフが入ってきて、一通の手紙を佐藤に渡した。
「佐藤さんの演算リソースを利用したクライアントからです」
それは、ある若手起業家からの手紙だった。佐藤は震える手で封を開け、黙読した。
『あなたの演算データが生んだ「寄り添う心」が、私のサービスに魂をこめてくれました。あなたのリソースが生み出した人間らしさに、心から感謝します』
手紙を読み終えた佐藤の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「私でも……まだ、誰かのお役に立てるんですね」
彼は泣きながら、何度も何度も手紙を胸に押し当てていた。
『人間として社会から否定され続けた男が、機械の部品の一部になることで「誰かの役に立った」という実感を得た』
私は喉の奥を動かし、その光景をテキストにした。
取材を終え、私は管理センターの外に出た。
夜の東京は、相変わらず眩しいほどに輝いている。
私は歩きながら、首筋のデバイスへ最後のテキストを送り込む。
街頭の巨大なホログラム広告が、道行く人々に合わせた最適な笑顔と声で商品を勧めている。信号機の誘導システムは、決して人を急かさず、心地よいリズムで歩行者を導いている。すれ違う自動運転タクシーからは、乗客を気遣うAIの優しいアナウンスが漏れ聞こえてきた。
完璧で、優しくて、どこまでも温かいテクノロジーの光。
この光の瞬きや、人々を心地よく誘導するアルゴリズムの奥底に、佐藤のような人間たちが寿命を削って生み出した、「寄り添う心」が微かに溶け込んでいる。
このシステムの是非を問うことに、もはや意味はない。
私たちはもう、このシステム無しでは生きられないのだから。
明日もまた、誰かの命が20ワットの電力に変換され、この美しい文明を照らす光となる。
私は立ち止まり、夜空を覆うほど巨大なAIアイドルのホログラムを見上げた。
彼女は私に向かって、佐藤のそれによく似た、優しく寄り添うような微笑みを浮かべていた。
私は記事のアップロード・ボタンを、脳内で静かに押した。




