笛吹き男に選ばれなかった私は
この国では昔から、笛の音を聞いた子どもが消える。
――口減らしで消されたんじゃない?
だってその子は、十人もいる兄弟の中でいちばん出来が悪い子だったそうだから。
――でも、子爵家の一人息子も消えたそうだよ。
親は半狂乱になって探したけれど、結局見つからなかったみたい。
――婚約者がいなくなった子もいるんだって。
悲しんでいるかと思いきや、もっと条件のいい相手が見つかったって喜んでいたけどね。
学園でそんな噂を耳にするようになったのは、地方で子どもの失踪事件が相次いでいるからだろう。
どうして、誰が、何のために。
答えは誰にも分からないけれど、病気や貧しい子から始まったその連れ去りは、いつしか地方貴族の子どもにまで及ぶようになっていた。
連れていかれた子たちは、どんな子だったんだろう?
今頃、どこでどうしているんだろう?
この世のどこかにあるという楽園で暮らしているのか。
それとも遠い異国の地で奴隷として働かされているのか。
――あるいは。
妄想は膨らむばかりだったけれど、いつまでも現実逃避に浸ってはいられない。授業が終わったらすぐに帰らないといけないからだ。
「エリシアは姉なのだから模範となる立場でしょう。それくらい我慢なさい」
それは、母が私によく投げかけてくる言葉。
妹のラナが生まれた日を境に、母にとって私は娘ではなくなり、弟のモーリスが生まれるころには、私はすっかり"世話を焼く側"の人間に数えられていた。
「十四歳ならもう一人前だ。より一層この家に尽くしなさい」
それは、父が私によく言い聞かせてくる言葉。
屋敷は雨漏りが絶えず、暖炉にくべる薪もまるで足りない。それでも事業に失敗して家を傾けた父は、古びた勲章を磨いて過去の栄光にすがっている。
仕える使用人はとうの昔に辞め、食事の支度も掃除も洗濯も、いつしかすべて私の仕事になっていた。
「ああ、エリシア。帰ったのなら、早く始末をしてきてちょうだい」
家に戻るなり、母が嫌そうに言い放つ。
二階のいちばん奥――寝たきりの祖母の部屋からは、かすかな異臭が漂っていた。
父方の祖母はもう何年も前から記憶が薄れ、夜中になると何度も呼び鈴を鳴らす。
「誰だい、あんたは! どうせあんたも私のお金を狙ってるんだろう!」
母は耳が遠いふりをし、父は当主の仕事ではないと言い、ラナもモーリスも厳格だった祖母を嫌って近寄らない。
だから、汚物の始末をするのも、薬を運ぶのも、夜中に祖母の話し相手になるのも、いつも私ひとりだ。
凍えるような井戸水で、祖母が失敗した寝具を洗う。
赤くひび割れた手には血が滲み、爪先は人に見せられないほどボロボロだ。
明日は学園の試験があるというのに、体を横にできたのは夜半をとうにまわってからだった。
ラナは私とたった二歳しか違わないのに、「まだ幼いから」と家のことは免除されている。
私は六歳のころから箒を握っていたのに。この差はいったい何なのだろう。
モーリスは私の皿の上のパンまで奪い取り、ぶくぶくと肥え太って虫歯だらけ。
度を越したわがままで近所の子たちにまで遠巻きにされているのに、周りが悪いと喚き散らす。
母はその様子を見ても「きょうだいで支え合っていいことね」と満足げに頷くだけ。父の目には、お金以外映らないらしい。
そして私は学園を卒業したら、隣町の織物商の後妻として嫁ぐことが決まっていた。父が借金の担保にと、私を差し出したのだ。
最初は嫌で仕方がなかったのに、今となってはその方がまだ幸せになれるかもしれないと思っている。
お年は召しているそうだけれど、慈善事業にも力を入れている人格者だと聞いていたから。
「これで借金の見通しが立った。ラナには、それなりの家のものに嫁がせられるだろう」
「モーリスにもこれからお金がかかりますからね。勉強して、この家を建て直してもらわないと」
両親は、子どもたちの幸せな未来を思い描いている。
ただ不思議なことに、その中に私の姿はなかった。
*
数十年ぶりに笛の音を響かせる男の噂は、学園でも日に日に熱を帯びていった。
最初はただの怪談話にすぎなかったはずなのに。被害は増えるばかりで、今では首都近郊でも警備隊が巡回にあたっている。
「笛の音を聞く子は『選ばれた子』。その子は『幸せの国』に招かれるんですって」
お昼時のサロンでは、生徒たちがあちらこちらで囁き合う。
消えたのは誰それの妹で、不治の病を患っていたのだとか。
窓もない部屋の扉には鍵がかけられていたのに、まるで煙のように姿を消したのだとか。
噂は語られるたびに飾りを増して、どんどん形を変えていく。
私はその話題を耳にしながら静かに紅茶を口に運んでいた。
ふと、袖口のほつれが目に入る。お下がりの制服には継ぎが多く、小さな石のついた唯一の髪飾りも祖母のお古なんて有様だ。
昔からの友人たちは私の事情をよく知っているけれど誰も口に出さない。それが私にはありがたかった。踏み込まないでいてくれるおかげで、学園にいる時間だけはただの十四歳の女学生でいられた。
けれど今日は、深夜に何度も祖母に呼びつけられたせいでよほど疲れて見えたのだろう。
向かいの席にいた友人――ナディアが、心配そうに声をかけてくれた。
「エリシア、大丈夫? 最近、少し顔色が悪いように見えるわ」
「ええ……ちょっと、家のことで」
言葉にした瞬間、情けなさで顔が熱くなる。
皆は私のように家で家事なんてしない。学生である以上、勉学に集中できるよう環境を整えてもらうのが普通なのだという。
母からは『身内の恥を晒すな』ときつく言い含められている。
それに一度愚痴として口にしてしまえばもう止まらなくなる気がして、私は慌てて話題を逸らした。
「笛吹き男って、何者なのかしら。どうして子どもばかり狙うんだろう」
「ああ……ここだけの話だけどね。狙われているのは『不幸な生い立ちの子』ばかりだそうよ」
声を潜めるナディアに、私も自然と身を寄せる。
彼女のお父さんは警備隊の要職に就いていると聞いたことがある。消えた子どもたちのことも詳しく知っているのかもしれない。
「それはつまり、不幸な子ってこと……?」
「そうなるのかな? でもそうなると王太子様が攫われたのはおかしな話よね」
「え? 王太子様も……?!」
「あ、そういう噂があるのよ。王立学園に通う友人がね、最近お姿を見かけないって……」
王太子様ともなれば警備は厳重のはずなのに、いったいどうなっているんだろう。
やっぱり笛吹き男の正体は人智を超えた存在なのかもしれない。
「そんな方まで連れ去られるなんて、狙われたらどうしようもないってことなのね」
「そうよ。だから、エリシアが心配で――」
言いかけて、ハッとしたようにナディアが口を閉ざした。……私が不幸な子なのだと。彼女も心の奥では、そう思っていたということだ。
いつもなら受け流せる。
けれど、今日は上手に笑えそうにない。
小さな沈黙が落ちて、紅茶の表面だけが静かに揺れる。
もうすぐ休憩も終わろうというとき。
意を決したように、ナディアが口を開いた。
「ねえ、エリシア。卒業したら、うちに来ない? 客間はいくつも空いているし、母も貴女のことを気にしているわ」
「……そんな、迷惑をかけてしまうわ」
「全然迷惑なんかじゃないわ。それにおかしいでしょう? お父様もお母様もいらっしゃるのに、どうしてエリシアばかりがそんなに忙しくしているの? 妹も弟もきっと貴女に甘えているのよ。少しは離れる時間も必要よ」
ナディアの声色は真剣だった。
私だって友達がこんな状況に陥っていたら、何とかしたいと思ったはずだ。
けれど……どうしてもその優しさを素直に受け止めることができなかった。
『施しを受けるような恥さらしになってはいけない』
それが両親の口癖だった。貴族の娘としての誇りを、たとえ没落しても忘れるなと教えられてきた。
だからなけなしのプライドが邪魔をしたし――これ以上、惨めな思いはしたくなかった。
「ありがとう。でもおばあ様が心配だし……私は卒業したら嫁がないといけないから」
私と入れ替わりに嫁ぎ先から家政婦が送られると聞いている。だから安心して私は嫁いでいいのだと、父は恩を着せるように教えてくれた。
「あの家は危険よ。黒い噂があるの。……ねえ、お願いよ、エリシア。私は貴女が大好きなの。貴女が辛い思いをしているのに、見ていることしかできないのが辛いのよ」
「そう言ってくれるだけでも十分よ。……卒業しても、仲良くしてね?」
それが、私にできる精一杯の答えだった。
どっと笑い声が響く。
振り返ると、サロンの中央にラナの姿があった。
「もしも笛吹き男が現れたらどうする?」
「幸せの国が本当にあるのなら行ってみたいわ」
下級生たちはあるかも分からない幸せの国に夢中みたいだ。
ラナも同じように両手を組んで目を輝かせている。
「もし笛吹き男が現れたら、絶対に私を連れて行ってもらうの。だって、特別な子しか招かれないんでしょう? だったら私が選ばれるべきよ」
なんとも彼女らしい理由に、自然と口元が歪んだ。
特別な子。本当にそうね。
あなたは何もしないでも許されるんだから。
もしもナディアの言うとおり『不幸な子』が選ばれるのだとしたら、あの子が選ばれることなんて絶対にないでしょうに。
もし本当に、『幸せの国』と呼ばれる場所があるというのなら。
笛吹き男が連れ去るのは『不幸な子』だというのなら。
――次に選ばれるのは、どうか私であってほしい。
*
授業が終わるころには、外はもう薄暗くなっていた。
「早く帰宅するように」と先生に念を押されたけれど、家へ向かう足取りは重い。
……だって、帰ればまた家事が待っているんだもん。
母は祖母と二人きりになるのを嫌ってモーリスと一緒に外で遊び回り、父は資金繰りと称して家に寄りつかない。
だから私が干しっぱなしの洗濯物を取り込んで、放置された祖母の寝具を取り替えて、食事を用意して、そして――。
寒風に吹かれながら扉を開けると、奥の暖炉の前で、父と母が並んで座っていた。
珍しく二人そろっている。しかも、いつになく真剣な顔だ。
「モーリスを学園に入れないといけないのに……そんなに余裕がないのですか?」
母の声が聞こえ、咄嗟に扉の影に身を隠す。
「仕方あるまい。我が家の財政状況を思えば、子ども三人を通わせるのは無理だ」
「だったら、エリシアを退学させればいいじゃないですか。後継ぎが学園にも行っていないなんて外聞が悪すぎます。それにあの子には勉強なんかより、家の手伝いをさせた方が有益ですわ」
えっ、と小さく息が漏れた。
もしかして、と思うことは何度もあった。けれど人脈を築くために学園生活は必要だと、あの父でさえ言っていたはずだ。
それなのに、私は唯一の居場所すらも手放さなくてはならないの?
「……仕方ないな。退学の手続きは、今月中にでも済ませよう」
父は、あっさりと頷いた。
「それと、織物商のところにはラナを嫁がせましょうよ。エリシアよりも高値で引き取ってくれるかもしれないもの。それに婚姻を少しでも延ばせれば、その間にあの人の隠し財産も見つけられるかもしれないですし」
「……確かに、それもそうだな。あちらは『どちらの娘でもいい』と言っていた。エリシアが家に残るなら母の世話も任せられるし、都合がいいか」
蝋燭の灯りが、ふたりの顔を照らしている。
穏やかに笑うその表情のどこにも"エリシア"という人間に対する尊厳はなかった。
ああ。
私にはもう、何も残っていないのだ。
学ぶことも、この家から自由になることも。
生きていく理由さえも。
ふらふらと足が勝手に祖母の部屋へ向かう。
だって誰も祖母の世話をしていないのだから。
私には、部屋で涙を流す時間すら許されていないんだ。
「……おや、エリシア。どうしたの、そんな顔で」
「おばあ様……」
穏やかに微笑む祖母の顔を見て、ほっと息が漏れた。
今日は調子がいい日らしい。いつもは私を罵倒する祖母もその時だけは――あの、大好きだった頃の祖母に戻ってくれる。
厳しかったけれど、私に礼儀作法を教えてくれた人。
困ることがあってはならないと、家事を叩き込んでくれた人。
そんな思い出が残るから。いまでは私をこの家に縛り付ける存在でしかないはずなのに、どうしても憎みきれないでいる。
蝋燭に火を灯すと、枯れ枝のように痩せた手がそっと私へ伸ばされた。
「……ううん、なんでもないよ。おばあ様、寒くはない?」
「大丈夫だよ、ありがとう。エリシアは優しい子だね」
優しくなんてないよ、おばあ様。
だって私は――あなたの死を望んだことがあるのだから。
「……エリシアはこんなにいい子なんだもの。きっと幸せになれるはずよ」
「幸せ? ……そうね。そうなれば、どんなにいいことか」
少なくとも今はそんな未来を思い描けそうにない。
堪えきれずに涙がこぼれ落ちる。
祖母の手が、それを拭うように頬を撫でた。
「ひとりでこの家を出ても、いいんだよ」
「そんなこと……できるわけ、ないわ」
両親は私を手放さない。
それに、祖母を見捨てて逃げるなんて――そんなこと、できるはずがない。
祖母はしばらく黙って、私の顔をじっと見つめていた。
「ごめんね、エリシア。自分が誰かの重荷になるなんて、思わなかったんだよ……」
「そんなこと言わないで。お願いだから、長生きしてちょうだい」
それは本心からの言葉なのか。
それとも上辺だけの慰めなのか。
自分でももう分からない。
祖母の手をぎゅっと握る。かさかさに乾いた細い指先は体温もあいまいで、胸の奥がきゅうと痛んだ。
「もう休んで。また来るから」
「ああ、おやすみ、エリシア。……火の始末にだけは、気を付けるんだよ……」
それは、昔から何度も聞かされてきた祖母の口癖。
「分かってるよ」と返すと、祖母は安心したようにゆっくりと瞳を閉じた。
私は手早く片づけを済ませ、いつものように蝋燭の火を吹き消す。
暗闇に沈む寝台を一度だけ振り返り、静かに部屋を後にした。
その日を境に、祖母はもう私のことも、自分のことすらも分からなくなってしまって――。
そして、私の退学手続きは淡々と、何事もなく進められていった。
*
その夜は、ひときわ風が強かった。
屋根の隙間から吹き込む風が蝋燭の火を揺らし、古びた壁をみしりと鳴らす。
祖母の寝息を確かめ、湿った寝具を替え、蝋燭の火を消して――ようやく自室に戻ったころには、もう真夜中だった。
来週には学園を退学することが決まっている。
織物商に嫁ぐ話も、妹のラナにすげ替えられた。
ナディアは「おかしい」と怒ってくれたけれど、私にはどうすることもできなかった。
どうして私ばかりがこんな目に遭うんだろう。
この先、私はどうなってしまうんだろう。
漠然とした不安と焦燥が募るばかりで、眠るより先に涙が込み上げた。
「……私ほど不幸な子はいないはずよ。早く、迎えに来てよ」
だって、攫われたのなら仕方ないと諦められるじゃない。
祖母の世話ができなくなるのも、学園に行けなくなるのだって、全部、仕方のないことにできるもの。
本当にいるかどうかも分からない存在に縋って枕を抱きしめていた――そのとき。
風の向こうで、笛の音がした。
ひどく切ない音色。
けれど胸の奥を撫でられるように温かく、どこか懐かしい。
考えるより先に身体が動き、窓辺に駆け寄った。
遠くの森の方から、淡い光のような音が流れてくる。
ああ――やっと、私の元に来てくれたんだ!
カーテンがふわりと膨らんだ。
風が部屋の中に流れ込み、消していたはずの蝋燭が一斉に揺らめく。
そして、開け放たれた窓から夜を纏ったようなひとりの男が、すべるように入り込んできた。
笛を携えたその男の輪郭はぼんやりとして掴みきれない。
瞳があるはずの場所には、どこまでも深い夜が宿っている。
人の形をしているのに、明らかに、人ならざるものだった。
「……迎えに来たよ」
低く響く声に、心臓が跳ねた。
足が勝手に前へ出る。
「私を……早く連れて行って!」
私は選ばれたんだ。
これでようやく解放されるんだ。
私は、幸せの国に連れて行ってもらえるんだ!
そう、思ったのに。
男は静かに首を振り、長い人差し指で私の背後を指した。
そこには――寝間着姿のラナが立っていた。
眠っていたはずの妹が、頬を紅潮させ、目を輝かせている。
「私を連れていって! だって私は特別なんだから、姉さまよりも、私のほうが相応しいわ!」
「うん。君を迎えに来たんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が凍りついた。
――ああ、やっぱり。世界は私を選ばない。
どれほど耐えても、どれほど尽くしても。
最後の一瞬まで、私は報われないのだ。
「待って……お願いです、私を連れていって! あなたが探しているのは『不幸な子』なんでしょう!?」
「何よそれ、それなら私だって不幸だわ! こんな陰気臭い家はもうたくさん! 老人の家に嫁ぐのだって絶対に嫌よ!」
笛吹き男の瞳が、静かに私を映している。
悲しげに、けれどどこか慈しむように。
「――君は、連れてはいけないよ」
はっきりとした拒絶。
足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
ラナが笑っている。
あの幸福の象徴のような、満ち足りた笑みを浮かべながら。
笛吹き男が笛を唇に当てると、空気がふるえた。
部屋中の影が揺らぎ、ラナの姿が淡く霞む。
その笑みごと、光のように――消えていった。
残されたのは、ひとりきりの部屋と、吹き抜ける冷たい風だけ。
私はその場に蹲り、床を何度も何度も叩くことしかできなかった。
――どうして私は選ばれなかったの。
どうして、あの子だけが。
……気がつけば、開いたままの窓から朝陽が差し込んでいた。
夜の気配はすっかり消え、冷たい空気の中に微かな蝋の匂いが残っている。
無意識のうちに祖母の部屋を訪れると、そこには虚ろな目をした祖母が、ベッドの縁に腰をかけていた。
「笛の音が、聞こえたわ……」
「……もう行ってしまったの。私は、選ばれなかった」
祖母はしばらく黙り、遠くを見るように重たげな瞳を細める。
やがて、懐かしい記憶を辿るように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ねえさまも、そうだったのよ。わたしを苛めていたねえさまだけを、笛吹き男は連れていったの。……おねえさんも、おんなじね。わたしも、置いていかれちゃったのよ」
どこか幼いその声には、後悔とも安堵ともつかない微かな震えが混じっている。
「あなたのお顔はねえさまによく似ているけれど……とても優しかったわ。……あなたも幸せになれればいいのにね」
くしゃりと顔を歪めた祖母は、そのまま静かに目を閉じた。
呼吸の音だけが響いている。
何も返せないままその場に立ち尽くしていると――廊下の向こうから母の喚き立てる声が響いた。
「――ラナ! どこなのラナ! ああ、モーリスまで、いったいどこへ行ったの?!」
胸の奥がどきりと鳴る。
まさか、笛吹き男はラナだけではなく弟のモーリスまで連れて行ってしまったの?
「エリシア! 二人がどこへ行ったか知らない?」
「……分からないわ。部屋で眠っているんじゃないの?」
「それがどこにもいないのよ! 姉のあなたがちゃんと見ていなくてどうするの!」
「だって私はおばあ様を――」
「そんな人どうでもいいのよ! 好き勝手生きてきて息子の家に寄生して、なんの役にも立ちやしない! ああ、もしかしたら噂の人攫いかしら……こうしてはいられないわ。すぐに警備隊に通報しないと! あなた、起きて下さいな。あなた!」
母はバタバタと足音を立てて去っていく。
妹と弟がいなくなったと聞いても、どこか現実感がないままでいた。
その日は臨時休校となったけれど、翌朝学園へ行ってみると、校内には不穏な空気が漂っていた。
門の前では教師たちが慌ただしく出入りし、校庭のあちこちに衛兵の姿が見える。
昇降口の掲示板には、生徒の名がいくつも貼り出されていた。
――行方不明者の一覧。
そこには、ラナの名もあった。
廊下を歩けば、生徒たちが口々に囁き合っている。
「とうとうこの学園にも来たのよ。笛吹き男が!」
「消えた子は、みんな『幸せの国』に行ってしまったのかしら?」
「王立学園でも消息がわからない子息がいるんですって。王都中が大騒ぎよ」
やがて、王都は本当に大混乱に陥った。
失踪事件の調査が始まり、夜間の外出は禁止され、子どもを失った親たちの嘆きが街を満たしていく。
――私の家も、そうなるはずだったのに
警備隊の詰所の一室で、私は事情聴取を受けていた。
「……そうか。話してくれてありがとう」
事情を聞かれた理由は二つ。
一つは、ラナとモーリスが失踪したこと。
そしてもう一つは――私が学園に行っている間に、家が炎に包まれたことだった。
火元は祖母の部屋の燭台。
部屋を出る前に確かに火を消したはずなのに、倒れた燭台にはまだ火が残っていたのだという。
それは失火として取り扱われた。
祖母の部屋から見つかったのは、焼け焦げた三つの遺体。
動けなかったはずの祖母は、扉を塞ぐように倒れていたらしい。
私は、わずか数日で家族全員を失った。
「火事については、これで終わりにしよう。……それで、ラナ嬢が連れ去られた際に笛吹き男と話をしたというのは本当かい?」
「はい。……私は、連れてはいけないと言われました」
「そうか。君の家のことをもう少し詳しく聞かせてもらえるかな?」
もうこうなってしまっては家の恥も何もない。私はまだ夢を見ているような心地のまま、すべてを明かした。
父の失敗。借金。退学のこと。そして祖母の介護と、嫁入り話まで。
調書を取る男の顔が、ゆっくりと曇っていく。
「借金の担保として嫁ぐ予定だった、と……。頼れる親戚はいないのか?」
「絶縁していると聞きました」
「ふむ……。焼け跡からいくつかの貴金属が見つかったそうだ。それらを売れば、身を売る必要はないかもしれないな」
「え……そうなんですか?」
祖母は隠し財産を隠し持っていたらしい。その財産を目当てにこの家に引き取られたようなものなのに、どこを探しても見つからないと両親はよく喚いていた。
だからてっきり嘘だと思っていたのに。その遺留品は、祖母の寝台の辺りから見つかったという。
「私も多少は心得があるんだが、君のその髪飾りにも上質な石が使われているようだ。……嫁ぎたくなければ、それらを売りなさい。古物商を紹介しよう」
「あ、ありがとうございます。でも……嫁がないにしても、私にはもう帰る家がありません」
今は厚意で詰所の一室を借りているが、それも一時的なもの。聴取が終われば、私は嫁ぎ先へ行くことになっている。
「それなんだが……君はナディアのクラスメートだそうだね? 我が家はいまメイドを探しているんだ。君さえよければ、住み込みで働いてみないか。友人の家では気を遣うだろうが、便宜は図ってあげられる」
「えっ、ナディアの……お父様なんですか?」
そう言われてみれば、私を気遣うような眼差しはナディアにとてもよく似ていた。
「今回の火事の件もナディアは知っている。……とても胸を痛めている様子でね。娘のためにも、受け入れてもらえるとありがたい」
以前、ナディアに声をかけられた時は断ってしまった。ただ私に寄り添ってくれるだけの慰めの言葉に過ぎないと思ったからだ。
けれど、あの頃とは状況が違う。家も、家族も、行くあても――もう何もかもが変わってしまっている。
そんな中で差し出されたその手は、あまりにも魅力的なものだった。
「もちろん給金は支払う。交代制だから夜遅くまで働く必要もない。望むなら、学園を辞めずに通い続けることも出来るだろう」
「……でも、それはあまりにも私に都合のいい話な気がします。それに、施しを受けるのは……」
言葉が喉の奥で途切れる。
もうプライドだなんて言っている場合ではないのに。
それでもどうしても両親の言葉が呪いのように反響する。
「……施しと思う必要はないよ」
男の人は、やわらかく微笑んだ。
「これはあくまでも一般的な――そうだな、支援に他ならない」
「……支援、ですか」
「そうだ。未来ある若者に対する投資と言ってもいい。君は、家事が得意なんだろう? 望まぬ行為だったかもしれないが、それは経験として糧になっているはずだよ」
支援。その言葉をゆっくりと繰り返すと、どうしてか、その言葉はすんなりと胸に落ちてきた。
哀れみかもしれない。同情もきっとあるだろう。それでもこの人はただ純粋に、私を生かそうとしてくれている。
このまま織物商に嫁いだとしてもそれなりに暮らしていけると思う。もしかしたら思いも寄らない幸せな未来が待っているかもしれない。
けれど、ナディアの忠告――『あの家は黒い噂がある』という言葉が頭をかすめた。
「……ありがとうございます。私なんかでよければ、ぜひ」
ナディアのお父様はほっとしたように微笑んだ。
――こうして私は、ナディアの家の屋敷にメイドとして迎えられることになった。
*
メイドとしての仕事は、あの家での暮らしの延長のようなものだった。
けれど決定的に違ったのは、これはあくまでも対価を得られる『仕事』であるということ。
誰も私を『無償で使い潰して当然』と見なさないことだった。
人手がある分だけ家事は分担されている。むしろ以前よりもずっと楽をさせてもらっているくらいだ。
学園の授業料まで立て替えてくださって、私は無事に卒業を迎えることもできた。
ナディアは学園では私を友人として扱い、これまでと態度を変えないでいてくれた。
お父様も何かと気にかけてくださるし、奥様は新しい洋服まで揃えてくださった。
それに――台所で紅茶を淹れていると、時折、ナディアの兄であるラディ様が気さくに声をかけてくださる。
「いつもありがとう。君の淹れる紅茶は、不思議と美味しく感じるんだよね」
これもれっきとした仕事に過ぎないのに。「ありがとう」なんて言葉、あの家では聞いたことがなかった気がする。
食後のお茶の時間に誘ってくださることもある。
仕事を終えて席に着くと、ナディアとラディ様が寛いだ様子で談笑していた。
「お疲れ様。エリシアも少し休んでいって」
「ありがとうございます。それでは、失礼して……」
「僕たちの前では言葉を崩して構わないってば。……そういえば聞いたかい? 君の嫁ぎ先だった隣町の織物商。あそこの主人が、暴行事件を起こして捕まったそうだよ」
「えっ!」
思わず息を呑む。
借金を返した今となってはもはや何の繋がりもない家だ。けれど、何事も無ければ私か妹がその人の妻になっていたかもしれなかったのだ。
「被害者は家政婦ばかりだったそうだけれど……もし後妻でも迎えていたら、その人も被害に遭っていたかもしれないね」
「そんな……」
「表では人格者面して最低ね。……ああ、だから貴女の妹のところに笛吹き男が現れたんだわ」
「……それはどういうこと? あの子は特別な子だから選ばれたんじゃなかったの?」
あれから数年経ったけれど、ラナもモーリスも見つからない。
笛吹き男の連れ去り事件は今も迷宮入りのままだ。
「……前にさ、『不幸な子が連れて行かれる』って話してたの、覚えてる?」
「ええ。だから私は自分が選ばれると思っていたのに……」
「あれね、以前の大量失踪の調査の結果――『不幸な子』だけじゃなくて、『不幸になる子』も選ばれているんじゃないか、って言われてるの」
「不幸に……なる子?」
似ているようで、どこか違う。
でも、その違いがいまいち掴めずに首を傾げていると、ラディ様は「お喋りな妹だ」とひとつため息を吐いてから、静かに続けた。
「……その件については色々と噂されているんだけれどね。笛吹き男はずっと昔から――まるで周期でもあるかのように、定期的に現れるものらしい。それでこれまでに連れていかれた子どもたちの家庭や背景を調べた結果、あまり良い環境とは呼べなかったそうだ」
分かりやすい例としてあげられたのが、貧しい子、病を抱えた子。
不幸な子には違いないけれど、将来が約束されていなければ、いずれ『不幸になる子』として数えられるかもしれない。
「当時もその言説が広まりつつあったそうなんだけれど、そんな風潮の中で自分の子が連れていかれたとなると、親はそれを認めたくない。ないがしろにしていたなんて口が裂けても言えないだろう? だから、連れ去りの条件は長い年月のうちにねじ曲げられたんだよ。『幸せの国に招かれた、特別な子』だって」
「……なるほど。そうすれば後ろ暗いことは、全部隠せますものね」
「僕も父から教えてもらうまではそう信じてたよ。警備隊の中では暗黙の了解だそうだけれどね」
「でもそれじゃ、誰も探さなくなるわね」
「そう。都合の悪い真実ほど、誰も明らかにしたがらない。……それにもし見つかって家に帰したとしても、その子が本当に幸せになれるとは限らないだろう? だから、捜査もなかなか進まない」
――たとえば、王太子様。
帝王学についていけず、折檻を受けていたという。
――たとえば、結婚を控えた令嬢。
婚約者に裏切られ、心を病んでいたそうだ。
前回もそんな子達ばかりだったと、ラディ様が薄く笑う。
彼もまた、春には警備隊への入隊が決まっている。もしかしたら、被害の裏に隠された現実にどうしようもない歯がゆさを覚えているのかもしれない。
「エリシアは、笛吹き男と直接話をしたのよね?」
「え、ええ。……私は連れてはいけない、と」
「そうか。それなら君はきっと、不幸になる子ではなかったんだよ」
それならどうして、ラナとモーリスは連れていかれたのだろう? あの子たちは、両親に甘やかされて、何不自由なく暮らしていたはずなのに。
まだうまく呑み込めずにいると、ラディ様が「あくまでも僕の見解だけどね」と前置きを置いて、静かに続けた。
「君のご両親がしていたことは、愛という聞こえのいいもので誤魔化した虐待だよ。モーリス君の自制心のなさは、いずれ彼自身を食い潰していただろう。それはラナ嬢も同じことだし、もし君の代わりにそのまま織物商に嫁いでいたら、きっと被害に遭っていたはずだ。……不幸になる未来が、笛吹き男には見えていたんだろうね」
「じゃあ……私が選ばれなかったのは……」
「君は今、不幸なのかい?」
優しい声色に、ふるりと首を振る。
だって私はいま――とても幸せなのだから。
「……あの子たちも、どこかで幸せに暮らしているのでしょうか」
「さあ、どうだろうな。笛吹き男はただの奴隷商とも、悪魔とも天使とも言われているからね」
「幸せだと信じましょ。きっと病気も貧困もない世界で、心穏やかに生きているわよ!」
置いていかれたと言った祖母も、最期まで幸せだったのだろうか。
私の幸せを、朧になった記憶の中で望んでくれていたのだろうか。
ぐすりと鼻をすする。気遣うようにラディ様はハンカチを差し出してくれた。
「……さて、笛吹き男がまた現れないように、君はもっと幸せにならないといけないね」
「そんな。私はもう十分に幸せです」
それは嘘偽りのない言葉。
家族には恵まれなかったけれど、友人に恵まれた。
温かな居場所まである。あんなに嫌だった家事だって、私の糧となって仕事に昇華された。
だから私が笑顔でそう答えると、ラディ様はむぅと不服そうに唇を尖らせる。
「君はもう少し、欲張りになってもいいと思うんだけれどな……」
「兄さまはもう少し積極的になった方がいいと思うわ。そうだ、今度二人で観劇に行ってらっしゃいな」
くすくすと笑うナディアと、「それはいいね」と柔らかく微笑むラディ様。
暖かな家の中で、大切な友人と尊敬するお兄さまに囲まれながら、私は『幸せ』というものを、静かに噛みしめていた。
――それからも、笛吹き男は定期的に子どもを連れ去っていった。
けれど、私の耳に笛の音が届くことは、二度となかった。




