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STEEL SOUL

作者: 蒼了一

 それ──が天から降ってきたのは、誰もまだこの星の土を踏んでいなかった頃のこと。

 いつ、降ってきたのか。

 いくつ、降ってきたのか。

 記録も証言も、もちろん存在しない。太古の空がどんな色をしていたのかさえ、今となっては知る由もない。


 形は小さく、掌に載せれば豆粒のようだ。親指と人差し指で軽くつまめるほど。

 パチンコ玉よりわずかに小さい銀の球体。表面には縦横に走る細い刻線があり、それは人の手が彫った紋様のようにも、偶然の結晶模様のようにも見える。

 まるで微細な鉱物を呼び寄せる磁場でも持つのか、薄く砂粒をまとい、遠目には道端の小石と変わらない。


 齋藤蒼流(さいとうそうる)がそれ──を拾ったのは、ほんの昨夜のことだ。

 ヤケ酒で自分を沈めきった帰り道、ふらつきながら自宅近くの電信柱に手をつき、腹の奥のものを盛大に吐き出した直後だった。


「……あン? なんだ……こりゃ……」


 吐瀉物のすぐ向こう、街灯に照らされる空中に、それは浮かんでいた。

 いや、浮かんでいたのか、ただ揺らいで見えたのか。酔いのせいで地面も空もぐるぐる回る中、銀色の地肌が砂の皮膜を脱ぐようにサラサラと剥がれ落ちていく。

 蒼流は電柱に背を預け、焦点の定まらぬ視線でそれを凝視した。

 この状態では、目の前にゾンビが現れたって驚かない。むしろ肩を組んで「もう一軒」と笑ってしまうだろう。酒飲みなら、そのどうしようもない鈍さをよく知っている。


 だが──。


「あがッ……!」


 次の瞬間、それは空気を裂くように動き、蒼流の口内へと飛び込んだ。

 反射的に舌が引きつり、喉が締まる。

 抵抗する暇もなく、感触らしい感触も残さず、銀の小球はただ重力に従う水滴のように、するりと胃の奥へと消えた。


 *


 齋藤蒼流──都内の食品メーカーで営業を務める二十八歳。

 百八十五センチの長身に、百三十キロの巨体。椅子に腰を下ろすと、背もたれがたわみ、机の端がかすかに震える。

 スーツ姿ではボタンの悲鳴が聞こえそうで、むしろ浴衣に髷のほうが自然に見える男だ。


 その身体は、幼少期の飢えの記憶で形づくられた。ネグレクトで空腹に耐える幼少期を過ごし、食べられるときは際限なく食べた。その習慣が、やがて肉を重ね、骨格の輪郭を覆い隠した。顔も、善し悪しの評価を超えた、ただの「丸」だ。歯並びは悪く、言葉を発すれば滑舌の悪さが耳に残る。


 それでも──いや、だからこそか──蒼流には妙に強い正義感があった。体格ゆえか、威圧にも動じず、相手が誰であれ退くことがない。

 その正義感が、昨日、職場で暴発した。


 相手は直属の上司、宮下係長。粘着質で、部下を萎縮させることを自分の仕事だと誤解しているような男。だが不思議なことに、一人だけ例外があった。新入社員の森本咲良。

 宮下は入社当初から彼女に執拗に付きまとい、「指導」と称して深夜まで食事に誘い出す。その日も、いつもと同じ空気が漂っていた──はずだった。


 昼下がり、隣席の咲良が突然、声を震わせ泣き出した。

 小さな声で、蒼流にだけ聞こえるように言う。「宮下係長の下では、もう働きたくない」と。続く言葉は、これまで受けてきたセクハラの告発だった。


「……わかったよ。よく我慢してきたな」


 蒼流は、胸の奥で何かが切れる音を聞いた。

 次の瞬間、椅子を引き、宮下の席まで一直線に歩く。言葉は不要だった。

 振りかぶり、一発──拳が鈍く頬を打つ感触。


 オフィスがざわめきから怒号へと変わる。紙が舞い、椅子が引かれ、誰かの悲鳴が遠くで響く。

 事情を説明しようとしても、胸が焼けるように熱く、舌がもつれる。肝心の咲良は、涙の海に沈んだまま、何も言わなかった。


 警察沙汰にはならなかった。だが「週明けに事情を聞く」と課長に告げられ、そのまま帰された。

 帰る気にはなれず、足は自然に行きつけの居酒屋へ向かう。夜の街の明かりは、やけに冷たく滲んで見えた。


「……終わったな。なにもかも……」


 無名大学を出て六年。雨の日も、取引先の無理難題も、必死にこなしてきた会社だった。それを、自分の衝動で壊した。

 後悔は、喉を焼く安酒と同じく、飲んでも飲んでも消えなかった。

 この夜の酒は、ただ苦く、重く、そして底が見えなかった。


 *


 「……ん……ぐ……」


 目が覚めると、枕のシミが視界の真ん中にあった。自宅のベッドだ。

 どうやって帰ったのか記憶がない。だが、こうして朝を迎えているのだから、人間の帰巣本能というやつは大したものだ──酔いの残る頭で、妙に感心する。


 うつ伏せの体を起こそうと、腕を顔の前まで引き寄せた瞬間──。


 カチャ。


 指先に固いものが触れる。しかも一つや二つではない。ざらりと数えただけで十を超える。

 小石のようだ……いや、それにしては表面が不自然に滑らかだ。ひとつ摘まみ上げ、目を凝らした。


「なっ……!?」


 それは──歯だった。人間の歯。

 枕元に転がっているのは十本どころではない。おそらく一人分まるごとだ。


 血の気が音を立てて引いていく。わかる。これは、自分の歯だ。


「まさか……」


 昨夜、酔ってどこかに顔面からぶつかり、歯がすべて砕け落ちたのか……?

 職を失い、歯まで失った──そんな最悪の想像が胸を締め上げる。震える指先で口元に触れた。


「あれ……?」


 歯はあった。全部。

 それどころか、昨日までガタガタだった歯並びが、歯科医院にある見本のように整列している。


「はぁ!?」


 蒼流は跳ね起きた。

 そのとき、異変はもう一つ明らかになった。体が、やけに軽い。

 着ている服がぶかぶかで、肩からずり落ちそう。実際、ベッドから一歩踏み出した瞬間、ジャージはパンツごと足元に落ちた。


「……なんだ? 何があったんだ?」


 困惑のまま、着ているものをすべて脱ぎ捨てる。

 姿見の中に立っていたのは──昨夜までの自分ではない。


 贅肉に覆われ、膨れた肉体は消えていた。

 そこにあったのは、全身の筋肉が均整を保ち、無駄の一切ない引き締まった身体。広い肩幅、腹筋の割れ目、腕から胸にかけて流れるようなライン。

 そして顔──頬は引き締まり、顎は鋭く、目の奥の影までもが凛としている。この顔なら、男性誌のモデルとしても通用するだろう。


 蒼流はしばらく鏡の前に立ち尽くした。

 それは、観察というよりも鑑賞に近い行為だった。

 惚れ惚れするほど見事な肉体。自分のものであるという事実が、かえって現実感を奪っていく。 


 *


〔……メがサめたか、ソウル〕


 頭の奥で、誰かの声が響いた。低く、ざらつき、金属のこすれるような音質。

 思わず周囲を見回す──が、部屋には誰もいない。声は空気ではなく、脳髄から直接響いてきている。


「な、なんだ……誰だ!?」


〔ダレだって? オレは……セイギのミカタさ〕


「……正義? 何の話だよ」


〔おマエ、キノウ……オレとユウゴウしただろ。だからカラダを……カイゾウしてやった〕


 融合──?

 記憶にない。だが、目の前の異様な肉体がその証拠だとでも言うのか。


「……お前が、この身体にしたのか」


〔そうだ。これからイブルとタタカってもらう。そのためのカイゾウだ〕


「イブル……? なんだそれ。なんで俺が……」


〔セイギのミカタだからだ。オレのことは……セイクとヨべ〕


 名前を名乗られても、理解は半分も追いつかない。

 だが確かに、体重は九十キロ。昨日より四十キロも軽い。筋肉の鎧をまとったこの体は、もう元の自分ではない。

 そんなことより差し迫った問題があった──着ていく服がない。下手をすれば、イブルとやらと戦う前に、不審者として警察に捕まりかねない。


「……仕方ねぇ」


 ジャージの紐を限界まで締め、裾も紐で縛る。

 ダボダボになったダウンを羽織り、足元はサンダル。靴はぶかぶかで履けない。


〔どこへ行く〕


「服を買いに行くんだよ。この格好じゃ外出もできねぇ」


〔もうデているじゃないか〕


「出てるのは身体じゃなくて、恥ずかしさだよ」


 近所のファストファッションのチェーン店に向かう。

 ガラス越しに見える明るい店内と、マネキンの整った姿が、今の自分の惨めさを際立たせる。ここなら靴から服まで一式揃えられる。


〔……きたぞ! イブルだ!〕


「はぁ!? 今!?」


〔ココからトウナントウジュウニキロ。イソげ!〕


「十二キロって……遠いわ!」


 それでも、声には抗えなかった。

 両手に買い物袋を抱えたまま、蒼流は駅のホームへ走る。

 井の頭線のドアが閉まる瞬間、胸の奥で再び金属質な響きがした。


〔ハシれ、ソウル。コレが……はじまりだ〕


 *


 二月十四日──バレンタイン当日の渋谷。

 朝から交差点は人の波が絶えず、手には紙袋や花束、笑顔と甘い匂いがあふれていた。

 その空気が、一瞬で崩れ去る。


 スクランブル交差点の中央に、影が落ちた。

 見上げると、巨大な──いや、怪物としか呼べないネズミが立っていた。

 体高およそ五メートル、全長二十メートル。尻尾まで含めれば五十メートルを優に超える。

 灰色の毛皮は油で濡れたように光り、黄色く濁った両眼は人間の群れを舐め回すように動く。口からは腐肉の臭気を帯びた熱い息が吐き出され、地面を濡らした。


「みなさん急いで逃げてください!!」


 警察官が指揮車の上からスピーカーで叫ぶ。

 だが群衆は命令を聞くより早く、悲鳴を上げて四方八方に散った。バッグや靴が落ち、踏まれ、転がる。


 怪物は無慈悲だった。

 人を掴み、巨大な門歯で噛み裂き、咀嚼もせずに吐き捨てる。

 赤い飛沫がビルのガラスに散り、路面にいくつも血の池ができた。

 渋谷の街は、もはや警察の手に負えぬ地獄と化していた。


 事態はすぐに国会へ伝わり、総理を長とする緊急会議が招集される。

 「災害出動」の名目で、自衛隊に出動命令が下った。


 発生から四十分後。

 陸上自衛隊・習志野駐屯地から飛び立った二機のアパッチ・ロングボウが現場上空に到着。

 チェーンガンが唸りを上げ、曳光弾が怪物の体を貫いた。灰色の毛皮の下から赤黒い肉がえぐれ飛び散る──が、その傷は瞬く間に塞がる。

 効き目はない。降り注ぐのは薬莢と無力感だけだった。


「打つ手なしか!! オイ! 早急になんとかしろ!」


 モニター越しに光景を見ていた総理が机を叩く。

 誰もが顔を伏せる。もしこのネズミが渋谷を離れ、都内を徘徊し始めれば──その想像は、現実よりも先に心を凍らせた。


「ああっ!」


 職員の女性がモニターを指差す。

 瓦礫と血の中、倒れた人々の間で、小さな体が動いた。

 幼い女の子だ。母親に覆いかぶさられるように倒れ、気を失っていたのだろう。今、目を覚まし、涙で滲む視界に巨大な影を見上げる。


 ネズミとの距離は数メートル。

 次の瞬間、前脚が振り下ろされ──誰もが目を伏せた。


 だが。


 鈍い衝撃音と共に、巨大な爪は止まっていた。

 それを、ひとりの男が、両腕で受け止めていた。


 *


「おい! セイク! こんなバカでかいなんて聞いてねぇぞ!」


〔そうか。イブルはデカいぞ。……これでいいか?〕


「良くねぇよ! こんなの、どう倒せってんだ!」


 振り下ろされた爪を両腕で受け止めながら、蒼流は舌打ちする。

 爪の根元から伝わる振動は、コンクリートを割る衝撃と同じはずだ──それを押し返せる自分の腕力に、ほんの一瞬、背筋がぞくりとする。

 この力はもう、人のものではない。筋肉の奥に、何か異質なものが脈打っている感覚があった。


「そりゃあっ!」


 膝を沈め、全身のバネを解き放つ。

 巨大な爪を軸に半回転し、その慣性でネズミの巨体が横倒しになる。ビルの壁が揺れ、ガラスが割れる。群衆の悲鳴がさらに高まった。


「今だ……!」


 蒼流は倒れたネズミを一瞥し、血の中で縮こまる女の子へ一直線に走る。

 そのまま腕を差し伸べ、軽々と抱き上げ──跳んだ。

 地面が一気に遠ざかり、風圧が頬を打つ。十メートル……いや、それ以上。ビルの二階を越える高さまで舞い上がり、パトカーの陰に身を隠す警官の足元へと着地した。


「この子、お願いします」

「えっ……あ、ああ……き、君は……?」

「なんか、正義の味方することになったらしいんで……仕方なく」


 肩をすくめるように答え、すぐに背を向ける。

 視線の先では、倒れたはずのネズミが唸り声を上げ、再び立ち上がろうとしていた。

 自衛隊のアパッチですら通用しない相手──始末できるのは、自分しかいない。


 蒼流は膝を曲げ、再び夜空へ跳躍した。


 *


「見えますか!? 視聴者の皆さん、あそこです──たった一人の人物が、巨大ネズミに立ち向かおうとしています!」


 東都放送の取材ヘリ。その揺れる機体の窓から、レポーター新田沙綾が必死に声を張り上げる。

 自衛隊による航空規制を無視した無許可飛行。本社の管制室からは「すぐに退避せよ」という無線が何度も飛ぶが、彼女は耳に入れようとしない。

 今、この映像は国内で唯一の生中継。すでに数千万の視聴者がテレビの前に釘付けとなっており、局内でも「この放送を切れば国民の信頼を失う」と誰も止められない空気ができあがっていた。


 カメラがズームする。

 ビルの谷間を縫うように走る、一人の男。巨大ネズミの爪を受け止め、まるで投げ飛ばすかのような超人的動き。

 その服装は、既製品のジャージにサイズの合わないダウンジャケット。顔にはレジ袋を目の位置だけくり抜いてかぶっている。


 瞬く間にSNSは沸き立った。

「#貧乏仮面」

「#レジ袋マン」

「#正義の味方(仮)」

 皮肉と賞賛が入り混じるニックネームが乱れ飛び、タイムラインはその話題で埋め尽くされる。

 閉塞感に覆われたこの国で、久しく現れなかった本物の超人。その姿に、人々の熱が一気に解き放たれていく。


「ああっ、今──飛びかかりました! すごい! ネズミが倒れた! ……がんばれ! がんばってぇ!!」


 もはや実況ではなく、ただの必死な応援。だが、その叫びは視聴者の胸を直接震わせ、全国から蒼流への声援が押し寄せていく。


 もちろん──当の本人はそんなこと、知る由もなかった。


 *


「おいっ! こいつ、どうやって倒すんだよ! いくら攻撃しても効かねえじゃねーか!」


〔イブルのショウタイは……チイさなタマ。それをトりダせば、こいつはシぬ〕


「死ぬって……どこにあんだよ、それ!」


〔メとメのアイダ……だとオモう〕


「思うって、頼りねーなー! ホントかよ!?」


〔シカタない。ワタシもイブルとタタカうのはハジめてなんだ〕


「はぁ!? マジかよそれ!!」


 舌打ちをひとつ。もう文句を言っている暇はない。

 蒼流は大きく息を吸い込み──一気に跳躍。


 ネズミの巨大な前歯がギラリと光り、尻尾が鋼鉄のワイヤーのように唸りを上げる。

 建物の壁が削れ、街路樹がなぎ倒され、信号機が宙を舞った。コンクリート粉塵が舞い、耳をつんざく衝撃音が四方から押し寄せる。


「おらぁっ!」


 蒼流は尻尾の一撃を紙一重でかわし、街灯を足場に二段跳び。空中で身体をひねり、怪獣の耳の裏へ踵落としを叩き込む。

 巨体がよろめき、アスファルトにヒビが走る。


「眉間だ……そこしかねぇ!」


 ネズミが狂ったように腕を振り下ろす。破壊の暴風が周囲を薙ぎ払う中、蒼流は一瞬の隙を捉えた。

 渾身の跳躍──景色がスローモーションに見えるほど集中する。

 拳ではなく、指を揃えた抜き手。狙いは、眉間の奥。


「──どりゃああああッ!!!」


 骨と筋肉を裂き、指先に固い感触が触れる。小石ほどの球体。

 セイクの言ったとおり……ここにあった。


 腕を一気に引き抜くと、手の中には銀色の核。

 次の瞬間、ネズミは全身から力を失い、地響きを立てて崩れ落ちた。

 砂埃が街を覆い、視界が茶色く染まる。


 静寂。あれだけ暴れ狂っていた怪獣は、もう二度と動かなかった。


 *


「や、やりました! 突如現れた男性が、巨大ネズミを倒しました! ありがとう! ありがとう貧乏仮面! ありがとうレジ袋マン!」


 新田沙綾の声は震えていた。マイクを握る手に汗が滲み、もう片方の手で支えるスマホの画面が微かに揺れている。目の前で繰り広げられた光景は、まるで悪夢のような現実だった。巨大なネズミの死骸が倒れ伏し、その周囲には瓦礫と恐怖に怯える人々の姿。そして今、彼女の口から飛び出すのは、命を救ってくれた英雄への心ないニックネームだった。

 涙腺が緩みそうになるのを必死に堪えながら、沙綾は中継を続ける。プロとしての使命感と、生き延びた安堵感が複雑に絡み合い、彼女の胸を締め付けていた。


 それから数時間。渋谷の惨劇は瞬く間に拡散していった。

 SNSのタイムラインは「#巨大ネズミ事件」「#レジ袋マン」で埋め尽くされた。投稿される動画や画像は荒い画質のものばかりだったが、その分生々しさが際立っている。コメント欄には賞賛と困惑が入り乱れ、一体何が起こったのかという疑問符が踊っていた。

 人々が最も気にかけているのは、あの謎の男の正体だった。巨大ネズミが息絶えた瞬間、まるで蜃気楼のように姿を消した彼。その神出鬼没ぶりが、かえって人々の想像力を掻き立てていた。

 警視庁も総力を挙げて捜査に当たっていたが、手がかりは乏しかった。あの混乱の最中、街中の監視カメラの大半が機能を停止しており、男の足取りを辿ることは不可能に近い状態だった。捜査員たちは苛立ちを隠せずにいた。


 一方その頃、蒼流は静寂に包まれた自宅のリビングで、テレビのニュースを眺めていた。

 画面に映るのは、先ほど自分が立っていた渋谷の惨状。買ったばかりの新しい服に身を包んだ蒼流の表情は、外見の穏やかさとは裏腹に複雑だった。避難者の群れに紛れて帰路についた時の緊張感は既に薄れ、代わりに妙な脱力感が心を支配している。


(おそらく、捕まることはないだろう)


 蒼流はそう自分に言い聞かせた。しかし、胸の奥底では別の感情がざわめいている。救った人々の安堵した表情、そして自分に向けられた感謝の眼差し。それらが記憶の底で静かに輝いていた。

 リモコンでチャンネルを変えると、どの局でも同じニュースが流れている。「貧乏仮面」という呼び名が繰り返し使われるたび、蒼流の口元に苦笑が浮かんだ。


 *


「それにしても、よくあんなバケモノ倒せたな」


 蒼流は天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。部屋の空気は重く、先ほどの戦いで放出されたアドレナリンがまだ血管を巡っているのを感じる。自分の手を見つめると、あの巨大ネズミを粉砕した拳がそこにあった。信じられない。この平凡な手で、あんな化け物を倒したなんて。


〔ワタシのアタえたチカラのおカゲだ。おマエがモトにモドることはない。エイキュウにカンシャしツヅけろ〕


 頭の中に響く声は、相変わらず高圧的で容赦がない。蒼流の心臓が再び早鐘を打ち始めた。


「そりゃいいけどさ、もう借りは返しただろ」


 蒼流の声には、かすかな期待が込められていた。もしかしたら、これで元の平凡な生活に戻れるのではないか。そんな淡い希望が胸の奥で震えている。


〔ナニイってる。イブルはヒャクハチコあるのだ。おマエがタオしたのはいっこだけ〕


「ええっ!? あと百七回もあんなの倒さないといけないのか?」


 蒼流の声は裏返った。血の気が引き、足元がふらついた。まるで奈落の底を覗き込んだような絶望感が、じわりじわりと心を侵食していく。百八体。その数字が頭の中で反芻され、まるで鉛のような重みで蒼流の肩に圧し掛かった。


〔いつ、どこにデるかはわからんからな。イツでもタタカえるジュンビをしておけ〕


「しておけって……俺にも生活ってものがあって……」


 蒼流の抗議の声は尻すぼみになった。現実の重さが、彼の心を押し潰そうとしている。明日の朝、いつものように会社に行き、いつものように仕事をする。そんな当たり前の日常が、もう二度と戻らないのだという事実が、ようやく実感として迫ってきた。


 考えた所で仕方ない、と蒼流は自分に言い聞かせた。しかし、その諦めにも似た感情の奥底で、何かが燻っている。

 今の会社では、もう仕事を続けられない。日雇いの仕事で食いつなぎ、なるべくフリーハンドでいなければ怪獣退治なんて不可能だ。蒼流は計算を始めた。収入は激減する。貯金はそれほどない。しかし、選択肢は他にない。


「仕方ねぇな……」


 その言葉は、諦めでもあり、覚悟でもあった。


 再び鏡を覗き込む。そこに映る顔は、確かに齋藤蒼流のものだった。しかし、精悍さが、目の奥に宿る光が確実に違う。

 姿形がここまで変わってしまった今、職場に現れたところで、自分が誰なのかもわからないだろう。下手にこんな姿を見せたら、それこそ余計な詮索を招きそうだ。蒼流の心の中で、最後の躊躇いが消えていく。


「よしっ、決めた!」


 その声には、もう迷いはなかった。

蒼流はスマホを手に取り、震える指で検索を始める。画面に浮かぶ文字列を見つめながら、彼は深呼吸をした。これが、ヒーローとして生きる決意を固めた最初の一歩だった。


 電話のコール音が響く。一回、二回、三回──。


「お電話ありがとうございます! 退職代行のモーダメです!」


 明るく元気な女性の声が聞こえた瞬間、蒼流は不思議と安堵を感じた。会社は辞める。姿を見せずに退職できるなんて、本当にいい時代だ。皮肉めいた笑みが口元に浮かんだ。


 通話を終えた蒼流は、窓の外を見つめた。夕焼けが空を染めている。あの混乱の現場も、今頃は静寂を取り戻しているのだろう。しかし、これは始まりに過ぎない。

 胸の奥で何かが燃え始めているのを感じた。恐怖でも諦めでもない、もっと複雑で、もっと熱い感情。それは使命感だったのかもしれない。

 そしてこの日から、齋藤蒼流とセイクの戦いの日々が始まる。平凡だった男の人生が、永遠に変わってしまった瞬間だった。

お疲れ様でした! 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

この話を書いた蒼了一そうりょういちです。

この作品は、私の「名刺代わり」として書いた短編です。


「こんな感じの話を書く人間です」という自己紹介のつもりで気楽に筆を走らせました。

実は、冴えない主人公が超人的な力を得るという王道パターンに、現代日本のリアルな要素を混ぜ込んでみたくて。セクハラ問題、退職代行、SNSでの拡散、ファストファッション……そんな「あるある」な現代社会の中で、レジ袋を被った正義の味方が暴れまわったら面白いんじゃないかと思ったんです。

蒼流みたいに「仕方ねぇな……」と言いながらも、結局やるべきことはやる。そんな等身大のヒーローが好きなので、もしこのキャラクターや世界観を気に入っていただけたら、今後の展開も考えてみたいと思います。


もしよろしければ、感想やご意見などいただけると嬉しいです。

批判でも賞賛でも、「ここが面白かった」「ここがよくわからなかった」みたいな気軽なコメントでも大歓迎です。

それでは、お付き合いいただき本当にありがとうございました!


もし本編を気に入っていただけたら、現在連載中の作品「異界戦国ダンクルス」をぜひお読みください。

ノリはちょっと重めですけど、ヒーロー好きならきっと気に入っていただけると思います。

ぜひぜひよろしくお願いします!

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