白銀の森に咲く花
森に雪が降るのは、100年に一度だけだという。
その雪が降る夜、「白銀の花」が咲くと、誰かが恋に落ちるのだと、古い言い伝えがある。
第一章:雪の夜に現れた君
目を覚ましたとき、アイリスは見知らぬ森の中にいた。
見渡す限り、白い雪に包まれている。けれど、不思議と寒くはない。むしろ、心地よいぬくもりに包まれていた。
「ここは……どこ……?」
彼女の手には、いつのまにか握られていた花。
白銀に輝くその花から、かすかな光がこぼれていた。
「……起きたか」
低く、けれどどこか優しい声が背後からした。振り返ると、そこには白銀の髪を持つ青年が立っていた。
まるで雪が人の形をしているかのように、冷たく、美しかった。
「君は……誰?」
「俺はラグナ。この森の“番人”だ。君が持っている花は、ここでしか咲かない。──そして、それを手にした者は、もう戻れない」
「……え?」
「君はもう、元の世界には帰れない。だが、ここでなら生きていける。俺と一緒に」
信じられない話。でも、彼の瞳に映る優しさだけは、嘘じゃないと思った。
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第二章:帰れない理由
ラグナに導かれ、アイリスは森の奥にある小さな屋敷へと向かった。
屋敷は古びてはいたが、暖炉の火はあたたかく、香草の匂いが心を落ち着かせた。
「……まだ信じられない。夢みたい」
「信じなくていい。けれど、君が花を持っていたのは事実だ。そしてこの世界では、それがすべてだ」
ラグナは簡単なスープを用意してくれた。彼が差し出す器は、少し手が震えていた。
「ありがとう。……あなた、優しいね」
「そうか?」
「うん。さっきからずっと、私に触れないようにしてる」
ラグナははっとしたように目を伏せた。
「……俺は人じゃない。君の世界でいう“魔物”に近い存在だ。人に触れれば、記憶も感情も……時には命すら奪う」
アイリスはしばらく黙って彼を見つめていた。
白銀の髪、静かな瞳。まるでこの森と一緒に、ずっと時を止めているようだった。
「でも、さっき私を助けてくれた。優しくしてくれた。それだけで十分、人だよ」
ラグナの手が、ほんのわずかに震えた。
「……その言葉、百年ぶりに聞いた」
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第三章:森に咲いた花
数日が経ち、アイリスは森での暮らしに少しずつ慣れてきた。ラグナとは不思議な関係を築いていた。
彼は距離を取るけれど、どこか彼女のそばにいたがっている。
ある夜、ふたりで外に出た。雪が降る音が、しんしんと森を包んでいた。
「ねえ、白銀の花って……どうして咲くの?」
「それは、“誰かが誰かを強く想ったとき”にだけ咲く。たとえその想いが報われなくても」
「じゃあ……この花は、誰の想い?」
アイリスがそっと手にした花を見つめる。ラグナは静かに口を開いた。
「それは、君が現れたときに咲いた花。……きっと、俺のせいだ」
「ラグナ……」
「君に触れられないのに、君のことを想ってしまった。……こんな感情、もう持つべきじゃなかったのに」
その瞬間、アイリスは決意するように一歩踏み出した。
そして、ラグナの頬に触れた。
「大丈夫。私は、忘れてもいい。傷ついてもいい。それでも、あなたに触れたいの」
白銀の花が、再び光を放った。
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第四章:記憶と代償
アイリスがラグナに触れた瞬間、彼の身体が淡く光を帯びた。
まるで氷が解けるように、彼の肌から寒気が消え、ほんの一瞬だけ、あたたかい人の肌になった。
「……アイリス、どうして……」
「触れたいって、思ったから。あなたに、ちゃんと触れて……ちゃんと、伝えたかったから」
ラグナの頬に涙が伝った。それが彼自身のものだと気づいたのは、ずいぶんあとだった。
「俺は……この森でずっと“番人”をしてきた。人に恋をしてはならず、誰かに近づくことも許されなかった。
でも君が現れて、俺の世界が壊れた」
「……壊れてもいい。あなたに会えて、私はうれしかった」
アイリスの手は、ゆっくりとラグナの胸元に置かれた。
鼓動がある。
確かに、そこに“人間らしさ”が生まれていた。
だが──
「……ダメだ、アイリス。君の記憶が……!」
ラグナの叫びが森に響いた。
アイリスの視界が、少しずつぼやけていく。
ラグナに触れた代償、それは「大切な記憶を失う」ことだった。
「私……なにか……」
「もういい。もう、思い出さなくていい。……全部、俺が覚えているから」
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第五章:別れの花
数日後、森に春が来た。
百年に一度だけ降る雪が去り、白銀の花も静かに散っていった。
屋敷の前には、ラグナがひとり座っていた。
その前に立つのは、記憶を失ったアイリス。もう、ラグナを「知っている人」としては見ていない。
「……お兄さん、誰?」
「ただの通りすがりの“森の番人”だよ。君が無事なら、それでいい」
彼は、優しく微笑んだ。
「この花、キレイ……もらってもいい?」
「……もちろん」
アイリスが去ったあと、ラグナはひとり残された。
彼の胸には、彼女の声、笑顔、涙──そのすべてが、永遠に刻まれていた。
触れられた痛みと、愛された記憶。
白銀の森には、今年もひとつだけ花が咲いた。
──その花の名を、誰も知らない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ラグナとアイリスの物語は、決して幸せな終わりではありません。
けれど、「忘れられても、愛する」という気持ちは、どこかに残り続けると思っています。
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