第8話 【レイン視点】鏡のなかの星
――とある秋の夕暮れ。修道院にて。
裏門から入り、ささやかな庭園を抜ける。生け垣に隠された石の扉を開き、地下道を進んでいく。
足元に響く靴音が、石壁にくぐもって返ってくる。ひんやりとした空気には、カビと油の匂いがかすかに漂っていた。奥に進むにつれ、古びた紙とインクが混ざった、本の匂いも強くなっていく。突き当りの、小さな扉を開く。
もう何度も訪れた、石造りの壁に囲まれた地下書庫。その奥には使い込まれた長机がひとつ、陰影の中に沈むように据えられていた。
見ると、クロード様――いや、今はソフィア様と私以外の腹心2人が、すでに席に着いていた。
「遅れてしまい、申し訳ございません」
「いえ、時間通りよ」
数か月ぶりに見る、貴族令嬢としての彼女の姿は、クロード様のときより随分と柔らかく見えた。けれど、瞳には強い理知の光が宿り、その身には神々しいほどの清廉さを纏っている。
その瞳に射抜かれる前に、私は浅く黙礼し、席に着く。
「それでは、海運事業から報告を」
ソフィア様に命じられ、腹心のひとり――浅黒い肌の大男・オズワルドが頷き、海風に焼かれたしゃがれ声で話し始めた。
ソフィア様の目的――それは貴族たちの富を回収し、弱者に再配分する仕組みを作るため、いくつかの事業を営まれている。その柱は海運事業と貴族向けの商会事業、そしてサロン経営事業の3つ。私はそのうち、サロン事業を任されている。
海運事業の報告が終わると、次は商会事業の報告に移る。見事な白髪の老練な紳士・セシルが、詩でも吟じるように流麗に語り出す。
ソフィア様と私を含む3人の腹心は年に数回、このような秘された場所に集まり、状況を共有し合い、今後の協力方針などをすり合わせすることにしていた。それぞれの事業は表向き無関係だが、ソフィア様のもと、実際には複雑に絡み合い、お互いに引き立て合う関係にある。
「それではレイン、サロン事業について報告を」
ソフィア様に指名され、私は状況をまとめた紙束を取り出し、報告をはじめる。
「……かしこまりました。現在、管轄する社交サロンは5件。『ルクレール』を筆頭に、いずれも運営は安定しております。『ルクレール』は、今期もっとも売上高が高く、現在、週当たりの客単価が他のサロンの3倍近くにまで達しております」
「社交界の流行を牽引する『ルクレール』の存在が、商会事業にも好影響を与えているようです。ホストクラブというサロン形態が優れているのでしょうか」
セシルの問いに、私は頭を振る。
「いえ……ホストクラブの売り上げは、来店客をもてなすホストの技量に強く依存します。ひとえにソフィア様のご活躍のおかげかと」
「まあ、だろうな。ソフィア嬢、いつまで『ルクレール』での接客を続けるつもりだ?」
オズワルドが話の矛先をソフィア様に向けると、彼女はほっそりとした手を頬に当て、ゆるりと目を細めた。『ルクレール』にいるときとはまるで違うその乙女らしい所作に……つい、視線が吸い寄せられ、心臓が跳ねる。
「そうね、長くてもあと2年ほど……と考えているけれど」
あと2年。恐らく、それくらいにはソフィア様はご結婚なさるのだろう。彼女は『完璧』な令嬢を演じることを強いられている。グレイハート家との婚姻が無効になったとて、婚期を大きく逃すことなど、許されぬに違いない。
「やはり夜は寝た方がいいと思うがな。あんたはいつ会っても白くて細くて心配になる」
「体質であまり眠くならないから働いているだけよ。それに、オズと比べれば誰だって白くて細いでしょう」
「失礼ながら私も同意見です」
「セシルまで……困ったわね」
ソフィア様が働きすぎている、というのは我々の共通した意見だった。しかし、それを止めることができないというのも、また。
それでも私は願ってしまう。どうか、いつか。この優しい人に、安らかに眠れる日が訪れることを……。
――ソフィア様と出会ったのは、数年前の、ある冬の日のことだった。
かつて私はある貴族の家に、家令見習いとして仕えていた。しかし、その家の夫人に不名誉な罪を着せられ、信頼していた主人に右目を焼かれ――放り出されるように貧民街へ落ちた。
はじめのうちは自暴自棄になり、何もする気が起きなかった。それでも、じっとしているのに飽いた頃……ふと誰かの役に立ちたくなり、施しをもらう身でありながらとある修道院の炊き出しを手伝った。
そのとき、貴族の慈善活動として修道院を訪れていたソフィア様が、私を見出して取り立ててくださった。
『あなたのような痛みを知る人を、探していたの』
その言葉と、不釣り合いに大人びた瞳が、私の凍えた心に小さな灯をともした。それから色々な出来事を経て……私は今、この場にいる。
* * *
「ソフィア様、少しだけこの場でよろしいでしょうか」
「なにかしら」
会合が終わり、オズワルドとセシルは約束があるとのことで、名残惜し気に、しかし足早にそれぞれの仕事に戻っていった。今、この場にはソフィア様と私の二人しかいない。
……今なら、あの話をするのに都合がいいだろう。
「実は、エリナ嬢から先日、王家の紋入りの金貨をお支払いいただきました」
エリナはシャーロット様に対抗して、ここのところずっと高額な会計が続いていた。彼女はグレイハート家に半ば婚約者のような顔で居ついているが……所詮、今は何の権威も持たぬただの平民。まとまった金を用意する手段など、知れている。
王家の紋入りの金貨は、王家から権威ある貴族にのみ贈られるものだ。それを彼女が支払いに使ったということは、つまり……。
「そう……。ついに、行くところまで行ってしまったようね」
ソフィア様はどこかふと目線を上げ、呟く。その声色には、感情が一片もこもっていないように聞こえた。だが、その無機質さがかえって、寂し気な空気を漂わせていた。
どこか儚いその横顔に目を留めかけて、そっと逸らす。そして、私は胸の内に言えずにいた疑問を、ソフィア様に打ち明る。
「……エリナ嬢への接客について……少し、気になっております。普段のクロード様の接し方とは異なる気がしていまして……」
ソフィア様……いや、クロード様はどんな客も虜にしてしまう。しかし、無秩序に魅力を振りまいているわけではない。緻密な計算のもと客を操作し、御しやすいよう育てる……それが、クロード様のやり方だ。
それを踏まえた時、どうもエリナへの接し方には引っかかるものがあった。
分不相応な支払額、そしてシャーロット様へ立てつくような態度。彼女はクロード様に熱狂している。店への影響を考えても、普段のクロード様なら彼女の熱が『適正』になるよう、調整されるはず……と私は考えていた。
私の問いを聞いて、ソフィア様は目元を涼やかに細める。
「エリナは、長くグレイハート家に留まることはできないと思った。……だから、短期間でより多くの対価が得られるように振る舞ったまで」
その答えは、予想していたものだった。けれど……それでも完全に納得することはできなかった。
理屈は通っている。けれど、万が一にでもエリナが引き金でシャーロット様を激怒させるような事態になれば、『ルクレール』だけではなく、全ての商売が立ち行かなくなる。見返りに対して、あまりにリスクが高すぎる。
「腑に落ちないかしら? もしかして私は……彼女を憎からず思っているところがあるのかも知れない。あなたから見た私が、そこまで不可解なら」
しかし、私が頭の中でそんな考えを燻ぶらせていることなど分かり切っていたようで……ソフィア様はその先の言葉を自ら紡いで下さった。
「平民から抜きんでて、急に貴族になれと追い立てられながら、したたかに生き残っている姿は愛らしいし」
『愛らしい』……かつて、ソフィア様が客のことをそのように評価したことが一度でもあっただろうか? 彼女から洩れた特別な単語に、不意に動揺してしまう。
……いや、駄目だ。そんなことを考えるべきではない。
「……本日も、変わらずホールに出られるのですか?」
エリナに心を動かした『かもしれない』ソフィア様を見ていたくなくて、私はつい、聞かなくてもいい問いで、ソフィア様を煩わせてしまう。
ソフィア様は私に慈悲を与えるかのように、泰然と微笑む。
「ええ、予定通りに」
その微笑みには、クロード様としての凛々しさと、ソフィア様本来の清らかさが不思議な調和をなしていた。すべてを見透かすような眼差しに、私は背筋を震わせ――ただ、息を呑む。
――ソフィア様は鏡だ。
相対する者の、望む人物を写す鏡。
ある者にとっては彼女は海上で熱病に侵されることのなかった娘であり、
またある者にとっては信じて嫁がせた家で虐待を受けなかった孫でもある。
そして、私にとってソフィア様は……北極星だった。
夜空にて燦然と輝き、過たず、決して裏切らず、私を導く光。
誰も、そんな彼女を愛さずにはいられない。
当然、私も――