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第7話 王女に捧げる夜想曲

 一度目のシャンパンを入れてから……エリナは歯止めを失ったかのように、私に深く入れ込むようになった。


 大きな投資をしたあと、客の熱が増すのはよくあること。問題は、彼女が他でもないシャーロットに牙を剥きはじめたことだった。


 『ルクレール』に訪れるのはほとんどが貴族。それも、一定以上の地位・品格・財産を備えた者ばかりだ。王家に逆らう愚かさを知っている彼女たちは、たとえシャーロットが私を独占しても、その敬意を崩すことはなかった。


 しかし、エリナは違った。


 シャーロットが私を呼べば、すかさずシャンパンを入れて引き戻す。そうなると当然、シャーロットはより高額なシャンパンで、私の時間を独占しようとする。


 ホールが二人の戦場になれば、『ルクレール』の品位を落としかねない。しかし、この熱狂が金を呼ぶのも、また事実だ。であれば、ふたつの熱を操作し、秩序を保ちつつ最大限の利を得ようとするのがオーナーでもある私の務めだろう。



 すべては、私自身の夢のために。



「クロード様。シャーロット様がいらっしゃいました」


 姿見で身なりを整えていると、いつものようにレインに呼びかけられる。私はシャーロットから最近贈られたカフスを身に着け、部屋を出る。あからさまに大きな石のついたカフスは重く、彼女の情念をそのまま形にしたかのようだった。


「……シャーロット様は今夜、少々繊細なご様子です」


 ホールへ向かう途中、レインが抑えた声でそう告げる。

 ――きっと、あの噂のせいだろう。


 隣国の第二王子との極秘の婚約が、密かに白紙になったらしい。理由は「感情の起伏が激しすぎる」こと。「嫉妬深くて扱いづらい」――そんな尾ひれまでついて、社交界を騒がせている。


「そうか。……今日は、穏やかな夜になるだろう」


 私はレインに『ある物』を用意するよう命じ、ホールに身を投じた。



 * * *



 挨拶をして卓についてからしばらく、私とシャーロットは一言も言葉を発することはなかった。ただ、乞われるまま彼女の頭を膝に乗せ、黙って頭を撫でてやっている。


 こういうことは、前にも一度あった。……確かあの時は王大后様が亡くなったときだったか。王大后様は王室で唯一、シャーロットに分け隔てなく接してくださる方だったという。


 卓の正面には天井に届かんばかりに高く積まれたグラスの塔が壁のように立ち塞がっている。飲み干されることのないシャンパンの中で、無数の泡が生まれては、虚しくも消えていく。


 頭の中で明日の予定を組み立てながらホールの様子を見守っていると、視界の隅でレインが唇の動きだけでエリナの訪れを告げてきた。


 やはり、今日も来たか。最近はエリナが来ない日のほうが例外だ。……どこから金を工面しているのか。レインによれば、今のところ支払いはすべて現金で済ませているらしいが……さて。


 遠くの卓からエリナの声が聞こえてくると、膝の上でシャーロットがぴくりと反応した。


 数回の争いを経て、シャーロットはエリナを不快な人物として認識している。彼女の気性の激しさからすると、その存在を感じるだけで、怒りで理性が焼き切れてしまうだろう。



 しかし、王女の不興を買おうとも――他に、どんな事情があろうとも。

 エリナは今日も私をシャンパンで買おうとするに違いない。



 エリナが来店してほどなく、シャンパンのオーダーを告げるベルが鳴った。それと同時に、エリナの卓についたテオが遠くから困った顔を私に向けて来る。


 恐らく、シャーロットよりも高いシャンパンを注文したのだろう。シャーロットもテオの様子に気が付いたのか、まるで八つ当たりのように私の手を無造作に払いのけ、ゆっくりと身を起こし、ゆらりと立ち上がる。


 乱れた髪もそのままに、淀んだ瞳をうすぼんやりと開け、言った。


「塔をもうひとつ組みなさい」


 私はちらりとレインに目だけで合図する。彼が頷いた瞬間、ホールの空気が揺れた。

 卓についていないホストたちや黒服が手際よく動き出し、エリナの卓とシャーロットの卓――両方に、グラスの塔を築いていく。


 どちらの欲望がより高く、より美しく積みあがるのか。

 ふたつの塔は、理性を失くした女たちの虚飾と見栄の象徴だ。


 塔が完成した頃合いを見計らって、レインが私にボトルを差し出してくる。


「注がせて頂きます」


 あえて甘い言葉は語らず、シャーロットの塔の前に組まれた足場に上り、その頂上からシャンパンを注いだ。欲望の山に酒が満ちたことを確認し、地上に降り立つ。そのまま、エリナの卓へ向かおうとしたとき、不意に袖を引かれた。


「もうひとつよ」


 「エリナの卓へ行くことは許さない」――立ち上るような怒気を宿したその紅い瞳が、そう訴えていることは明白だった。私はレインに新たな塔を組むように指示し……シャーロットを椅子に腰かけるよう、誘う。


「……あなたに特別な贈り物をさせて頂きたい。許して下さいますか?」

「贈り物……ですって?」

「今日……私は、あなたの心に届く言葉を見つけられない。ですから……どうか」


 シャーロットの前に跪き乞うてやる。

 彼女は黙って私を見下ろしていたが、やがてひと息、静かに笑った。


「……そこまで言うなら受け取ってあげるわ。けれど」


 彼女はゆったりと背もたれに身を預け、冷えた為政者の顔で宣告する。


「わたくしの期待を裏切るようなことがあれば……その代償、身をもって支払うことになると知りなさい」


 私はそれに微笑みだけで応え、ホールの中央、円形に開けたスペースに出る。


 ふと、強い気配を感じてそちらを見ると、エリナが切迫した表情でこちらを見ていた。私がいつ自分の元に来るのか、気になって仕方ないのだろう。……しかしそれは、今ではない。



 すかさず、レインは私にあらかじめ用意させていた『ある物』を渡してきた。――ヴィオラだ。



 ほどなく、淡い金の髪を長くしたホスト――元・吟遊詩人のリュカがチェロを抱えて私の横にあった腰掛に座った。目が合うと、彼は軽く肩をすくめた。


「まさか、火種に音を浴びせようとされるとは……」

「私はお前と違って口下手だからね」

「異なことをおっしゃる」


 小声で軽口を交わしながら音をあわせていると、ホールからはいつしかざわめきが失せ、水を打ったように静まり返る。客たちは開演前の舞台を期待するような目で、私とリュカを見ていた。



 一拍ののち、私はヴィオラを奏ではじめる。リュカのチェロの深い音色が、その旋律を追って、柔らかく包み込んだ。



 ヴィオラは、ルミエールの家に迎えられて間もない頃、貴族の嗜みとして習わされた楽器のうちのひとつだった。文字通り、血のにじむような努力をして身に着けたささやかな技術が、まさかこんな場所で役に立つなんて……。


 演奏の合間、シャーロットに視線をやる。

 柔らかく、月光のように降りそそぐ静けさで。彼女の心が休まり……今夜深く眠れるように。そんな想いをこめて。


 シャーロットは軽く目を見開き、熱い視線を送ってきた。――ようやく、機嫌が直ってきたようだ。


 エリナの方はあえて見ない。彼女は渇くことと、満たされること、どちらにも餓えている。悪いが、今このときは渇いて頂こう。



 ――やがて、曲が終わる。

 私とリュカが一礼すると、ホールは割れんばかりの拍手で満たされた。


 それに紛れるように、エリナの卓へ向かう。私が姿を現すと、エリナは今にも泣きだしそうなほどに、瞳に涙をためていた。


「……ごめん」


 頬に手を添えて言うと、ついにエリナは涙をこぼした。私は一瞬だけ彼女の背に手を回し、耳元で囁く。


「今日は……もう、無理をしないで。君が心配なんだ」

「……でも……」

「明日、出会った日と同じ時間に……ここに来て」


 それだけ言って身を離す。エリナが呆然と立ちすくんでいる間に、傍に立っていた黒服からシャンパンを受け取り、彼女の塔に注いだ。


 その儀式を終えるなり私は一度だけ彼女が好きな風に微笑んで見せ……何も言わずに背を向け、その場から去る。


 私は卓にも座らなかったが、背を向ける間際に見たエリナの表情はうっとりと恍惚に染まっていた。


 その肩越し、ふと活けられた百合の白が目に入る。花の名前に、あの子の純朴な笑顔が重なって……後ろめたさに、胸が軋んだ。



 そして、私はシャーロットの卓へ舞い戻る。


 彼女はエリナの卓へ行った私を、はじめは複雑な表情で迎え入れたが……私が目の前に立つと、憑き物が落ちたように凍てついた貌がほころび、頬に淡い薔薇色が差した。


 シャーロットはそっと私の胸に寄り添い、顔をうずめる。


「……今夜は、負けたわ」


 高鳴る胸の鼓動を、彼女は隠そうとしなかった。

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