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第6話 【エリナ視点】一度目のシャンパン

 『ルクレール』を初めて訪れて、クロードに出会ってから……私の世界は、すっかり彼に支配されてしまった。


 昼も夜も、彼のことが頭から離れなかった。アデライドの目を盗んで、『ルクレール』に通う。ただ彼と話せる、それだけが唯一の希望だった。


 今までの人生、たくさん恋をしてきたつもりだったけれど……ここまで誰かに心奪われたことなんて、一度もなかった。


「聞いて? 今日も大変だったの。筆記の練習ですっごく怒られて、ほら、手の甲を叩かれちゃった……」


 そして、今日も私は屋敷を抜け出し、『ルクレール』に来ていた。家庭教師に定規で叩かれ、赤くなった手の甲を見せるとクロードは悲しそうに、この世で一番美しい眉を下げてくれた。


 ……クロードのこの顔が見られるなら、何度だって手を叩かれていい。


「これは……なんてひどい。今は、痛くありませんか?」

「平気よ。これくらい慣れっこ。平民だからね」


 クロードの切ない顔も素敵だけど……やっぱり笑ってほしくて、私は冗談交じりに言葉を返した。すると彼は「仕方ない」とばかりに目元を緩めて、いつものようにさりげなく黒服を呼び、何かを囁いた。


 ほどなく、銀のトレーに乗った白いハンカチが運ばれてきた。クロードはそれを手に取り、私の手の甲の腫れたところにそっと当ててくれた。


 ハンカチはひんやりと冷たくて……爽やかな、ハーブの香りがした。


「よろしければ、今日はこちらを当てていて下さい」

「これ……」


 クロードが、私のためにこれを……? あまりに嬉しくて……幸せで……私は何も言えないでただ彼を見つめていた。


「ミントティーを薄めて冷やして、布に含ませてみました」

「そんな、わざわざ……」

「いつも前向きに頑張っているエリナ様に、少しでも応援の気持ちを伝えたくて」


 ああ、やっぱりクロードだけが、私の頑張りを分かってくれる。認めてくれる。そして、褒めて、優しくしてくれる……。心が震えて、目頭が熱くなる。


「クロード……」


 今の心のすべてを込めて、その名前を呼んだ。クロードはその、おとぎ話の王子様のような顔を私にそっと寄せて、ちょっとだけ平民風に笑ってくれた。……私だけの、彼の笑顔。


 その眩しさに撃ち抜かれて、胸を高鳴らせていると……黒服が彼の背後に立ち何かを耳打ちしていった。……嫌な予感。


「申し訳ございません。少し、席を離れますね。別の者がすぐに参りますので」

「あ……」


 笑顔の余韻だけを残して、クロードは私の卓から去っていった。彼の背中を目で追うと……どうやら、彼は噂の王女様の卓に呼ばれたらしい。柱の陰から、クロードを歓迎する甲高い声が聞こえてくる。


 王女のくせにこんな場所で遊び惚けてるなんて、許されるの? 税金で生きているくせに。罰当たりだ。……まあ、今の私も、同じような立場なわけだけど。それでも、彼女より私の方がよっぽど苦労しているはずだ。



 隣に別のホストが来て、新しい飲み物を飲んでも、私の心は晴れなかった。


「エリナ様……あの、気分が優れませんか?」


 落ち着いた茶色い髪の、背の高い人。テオと言うらしい。クロードに似たスーツを着て、私に優しく接してくれる。数か月前まで靴磨きをしていたとこっそり教えてくれて、平民同士の親しみも感じる。



 でも、クロードじゃない。顔も声も魂も……何もかもが違う。



「どうしたら、この卓にクロードは戻ってくるの?」


 時おり聞こえる妙にはしゃいだ王女の声が癇に障って、ついぶっきらぼうに尋ねてしまう。テオは苦笑いを浮かべ、こめかみに手を当て少し考え込むような仕草をしたあと、言った。


「シャンパンをご注文いただければ、おそらく」

「シャンパン? どうして?」

「特別な飲み物をご注文して頂いたお客様には、ご指名のホストが直接お礼を言うというルールがありまして……」


 そんなルールがあるなら、メニューにでも書いておきなさいよ! 貴族向けの仕組みは何事も回りくどい。ああ、でもクロードに会えるなら何でもいい。


「それじゃあ、シャンパンを頼んで」


 せっかくの注文だというのに、なぜかテオは浮かない表情を浮かべる。


「どうしたの、早くオーダーを通して」

「エリナ様、実はシャンパンは……」


 続けて、テオはシャンパンの売値をひっそり教えてくれた。……その金額は、思わず手汗が滲むほどのものだった。一杯で、平民の一家がまるまる一月、食べて眠れる……そんな現実離れした数字だった。


 今まで、ルクレールでは紅茶やちょっとしたお菓子などしか求めてこなかった。その程度ならレオや、昔の男からの贈り物を売ればしばらくは通えそうだった。


 けど、今、シャンパンを頼んでしまったら……私が『ルクレール』に通える回数は、クロードに会える回数は……大きく減ってしまうだろう。でも……それでも……。


 そこで、再び王女の嬌声が聞こえてくる。気安くクロードを呼ぶ、甘ったるい声。「ねえ、好きって言ってみて」……使い古された台詞。王女のくせに、なんて教養のない。


 苛立ちのあまり耳をふさごうとした、その、刹那。



「愛していますよ」



 クロードの囁く声が……この世で一番残酷な音が……私の鼓膜を揺らした。


 愛、してる……? 王女は「好きって言って」って言っただけなのに、なんで『愛』なんて言葉を使ったの……?


「……今すぐ、クロードを呼んで! シャンパンを頼むから!」


 私は、何かを考える間もなく、反射的にテオに叫んでいた。彼は慌てて黒服を呼び、私のオーダーを伝える。どこかで軽やかなベルが鳴る……ああ、この音、シャンパンが頼まれたときに鳴る音だったのね。


 俯いて固まる私を、テオはずっと心配そうに見ていてくれた……けど、どうでもいい。クロードじゃなきゃ意味がない。クロードしかいらない。


 『ルクレール』の喧騒が、普段の十倍、遅く感じる。早く、早く、来て……。



「エリナ様……お待たせいたしました」


 無限に感じるような祈りの時間を超えて、ついに待ち望んだ瞬間が訪れた。

 振り返るまでもなく分かる。私の世界を支配する、その声。



「クロード……」


 テオの姿はもうそこになくて。

 代わりに――シャンデリアの光を纏い、金糸で縫い取ったように煌めく、クロードが立っていた。


 手にしたシャンパングラスの中では、金色の泡が静かに立ちのぼり、溶けていく。際限なく湧く渇きが、ひとつずつ、癒されていくように……。


 感極まって私が動けないでいると、クロードは「掛けても?」と微笑んでくれた。


「座って、傍に……」

「それでは……すぐ、傍に」


 シャンパングラスを静かに卓に置いて、今までで一番、近い位置にクロードは座ってくれた。少し躊躇ったけれど……思い切って、その腕を抱いてみる。その腕は華奢だったれど、しっかりと力強く、私を抱きとめてくれた。


「……これは、嫌?」

「いえ……あたたかいです」


 心を溶かすような声が耳に響いて、私の方こそあたたかく……熱くなってしまう。


「ねえ、私のこと……好き……?」


 本当は、「好きって言って」と、言おうかと思っていた。でも、あの女と同じと思われたくなくて……あとは、「愛してる」の言葉がもらえなかったらと考えると怖くて……結局、自分でも笑ってしまうほどありきたりな質問が、口からこぼれた。


 恐る恐る、彼を見上げる。クロードの返答を聞くのが怖い。でも……早く答えが聞きたい。私の心は彼の前ではいつだって、ふたつやみっつに分かれてしまう。


 クロードはしばらく私と視線を絡ませて、眩しそうに目元を緩め……ついに口を開いた。



「あなたのことが、一番……知りたい」



 「好き」でも、「愛してる」でもなく……王女にも捧げなかった「知りたい」という言葉をくれたのは、どうして……? それに、「一番」って……。


 顔が熱い。きっと今、私の顔は真っ赤になっているはずだ。でも、クロードから目を逸らせない。そんな哀れな私の頭を、クロードは……撫でてくれた。優しく、優しく……。



 ああ、もうどうでもいい。クロードと一緒にいたい。ずっと。



 所詮、私はこのクラブの客で、クロードはホスト。……わかってる。でも、もう、そんな考えはクロードを目の前にすると、シャンパンの泡のように儚く消えてしまう。



 早く、また『ルクレール』に来たい。

 まだクロードは目の前にいるのに、夢の時間は終わっていないのに。


 それなのに、私はもう……次の夢を欲しがってしまっていた。

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