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第5話 優しさの対価

 その日、私は少し早めに 『ルクレール』に来ていた。専用部屋で部下が取りまとめた帳簿を最終点検しながら、合間に店で振る舞う紅茶の選定を行う予定があったからだ。


 手元の帳簿をめくりながら、差し出されるままに次々と紅茶を口に運ぶ。――ふいに、朝露を含んだ草木のような、清々しい香りが鼻孔を抜けた。湯気の温度とともに甘みが舌に広がり、少し遅れて、喉奥にじんと響く渋みが残る。


「……この紅茶の産地は?」

「キレス峠でございます」

「はじめて聞く名だ……香りは静謐、語りかけてくるような味わい……。よく、見つけてくれた」


 そう言って腹心のレインに視線を向けると、彼は黙って下を向いてしまう。相変わらず、賞賛を受け取るのが下手な男だ。彼は黒服でホストではないから、構わないが。


 そこで、扉がノックされた。


「レイン様……申し訳ございません。今、よろしいでしょうか?」


 レインは扉の前に立ち、扉を開ける。向こうには最近、孤児院から使用人として雇入れたばかりの少年が立っていた。レインは少しかがんで視線を落とし、穏やかな声色で問いかける。


「どうした? 何か困りごとでも?」

「あの……お店の前を掃除していたら、お客様が入り口に……」



* * *


 営業時間前の『ルクレール』のホールは、薄明かりの中で舞台の幕が上がる直前のような静けさを湛えていた。しかし、シャンパンの泡がグラスの底から立ちのぼるように、これから訪れる熱の予感が空間に満ちている。磨き上げられた大理石の床に、シャンデリアの硝子が淡く揺れて映っていた。


 片隅にある卓に、大人しい菫色のドレスの女がひとり、居心地悪そうに座っていた。大きな瞳に、どこかあどけなさを残した顔立ち。その顔には覚えがあった。彼女の名は……


「お待たせいたしました。……エリナ様」


 私が声をかけると、エリナは小動物のようにぴくりと反応し、はじかれたようにこちらを見上げた。その眼差しには、かつて見せた獲物を狙うような狡猾さは、もうない。


「あ、あの。すみ……申し訳ありません。営業時間のこと、わからなくて……」


 エリナは落ち着かない様子で目をさまよわせ、やがて視線を下に落とした。くすんだ灰色の瞳は、控えめなドレスの色合いと溶け合って、失せた生気を強調していた。


 それにしても、こんなに早く『ルクレール』で彼女に会うことになるとは……。


 まあ、いい。今日の彼女は客、そして、私はこの『ルクレール』のホスト・クロード。誠心誠意、彼女に奉仕し――その対価を受け取ろう。


 私はゆっくりと目元を和らげ、口元を綻ばせてみせる。


「構いませんよ。本日はご来店いただき、ありがとうございます」


 さらりと腰を折り、一礼する。エリナが吸い寄せられるように私を見るのを、気配で察する。


「クロードと申します」

「……エリナ……と、言います……」


 苗字を名乗らなかったのは、自分がまだグレイハート家の一員と認められていない現実を、あえて口にしたくなかったのか。それとも、いかにも平民だとわかる名を口にするのが、ためらわれたのか……。


 私は許可を得て彼女の隣に少しの距離を開けて座り、メニューを広げてみせる。


「何かお飲みになりますか? 軽食もございますよ」


 エリナがメニューを受け取る手はたどたどしく、その上を滑る指先はぎこちない。貴族らしい仕草にしようという意図が伝わってくるのが、痛々しい。……日常のあらゆる動作を変えようとするのは、思う以上に辛いものだ。


 そんなことを考えながら彼女を眺めていると、エリナは困った顔でこちらを見上げて来た。


「えっと……。お会計は……どういう仕組みなんでしょう……」


 なるほど、価格の表記を探していたのか。平民の彼女にとって、品物の値段を把握しようとするのは当然の行為だ。


 しかし、貴族の店ではそうしない。値段を表に出せば店の品位を下げると考えられている。金額は請求書で示されるもの。席で語るものではない。


「あ、ご、ごめんなさい。急にお金のことを言ったりして。……品がないですよね」


 私がすぐに答えないでいると、エリナは急いでメニューを閉じ、またうつむいてしまった。彼女に触れぬよう注意しながら手元にメニューを引き寄せる。ふと彼女が顔を上げ、再び目が合った。

 

 力なく揺れる瞳に……慈悲と、少しの憐れみを込めて、私は微笑む。


「とんでもございません。大切なことを気にして頂きありがとうございます。価格についてはお尋ねいただければお伝えしますよ。お支払いは後ほどお屋敷にご請求させて頂くこともできますし……」


 「屋敷」と口にした途端、エリナの目にうっすらと涙の膜がにじんだ。あの立場で、こんな店から請求が届けば、きっと騒ぎになる。そんな場面を思い浮かべたのかもしれない。それならば……


「次回ご来店いただいたときでも、構いませんよ」


 小さな逃げ道を案内してやると、ようやくエリナは息をついた。


「……きっと、お客さんが貴族ばかりだからそういう仕組みでも大丈夫なんですね」


 たしかに、平民相手なら前金を取らない飲食店など、あっという間につぶれてしまうだろう。……さて、義母の顔色と請求に怯えるお客様に、クロードとして、どう対処しようか……。


 私は少し離れて控えていたレインに合図し、傍にきた彼の耳元に短く囁く。


 やがてレインが銀盆に載せて運んできたのは、二客のティーカップと、『ルクレール』で評判の小さなクッキーだった。


「あれ、私まだ何も頼んで……」

「こちらは私から。ちょうど、素晴らしい紅茶が手に入りまして」


 レインが卓に置いたティーカップからは、朝の冷たい空気のように澄んだ香りが、カップからふわりと立ちのぼった。エリナに紅茶をすすめてやると、彼女はゆっくりと丁寧にカップをつまみ上げ、小さな口元をティーカップに寄せた。


「美味しい……」

「でしょう? とても美味しいですよね」


 陶器のティーカップよりも白かったエリナの顔に、かすかに赤みが差す。そのまま笑うかと思ったが……彼女は何かに気が付いたように、悲し気に眉根を寄せた。


「でも、美味しいだけじゃダメなんでしょう? ……もっと、香りが豊かだとか、味がどうだとか、産地はどこだとか……そういうこと、言わなきゃいけなんでしょ」


 グレイハート家での教育は、なかなかどうして厳しいらしい。短期間で平民の女を貴族に仕立てようと思えば、仕方ないだろうが。



 レオに取り入ればあっさり貴族になって、夢のような豪華な生活を送れると思っていた。しかし現実は違い、貴族になるための厳しい教育が待っていた。努力しても認められない現状に、彼女は他者からの肯定に餓え、乾いている。


 ……エリナの現状はそんなところだろう。



 ならば、その渇きを癒してみせるのが、私の仕事だ。


「……そういうお話も耳にします。けれど、ここ……『ルクレール』では美味しい、だけでいいのです」


 あえて意図的に口元を緩め、大げさに笑ってみせた。貴族の作法からすれば砕けすぎたその表情に、エリナは目を見開いた。その反応を見届けてから、私はわずかに身を傾ける――ただし、距離はまだ詰めない。


「『ルクレール』では日々の疲れを癒していただきたい……心のまま、お話いただくことが慰めになるなら、そうして頂くことが私の喜びです」

「……でも」


 「それに……」とだけ言って、わざと続きを言わない。エリナがこちらを見たのを確かめてから、親しみを込めて、少しだけ悪戯っぽく笑ってみせた。


「私はこの店のオーナーですから。ルールは私が決められるんですよ」

「え? そ、そうなんですか?」

「今日は何を食べても美味しい、しか言えない日にしましょうか?」


 そこで、ようやくエリナが笑った。

 小さく声をたてて、口元も覆わずに。


「ふふ、なあにそれ? それは流石に困っちゃうわ」


 曇っていた灰色の瞳に、光が宿る。


「さあ、他のお客様がいらっしゃって騒がしくなる前に、ぜひエリナ様のお話をお聞かせください。……どんな出来事が、あなたの顔を悲しく曇らせたんですか?」


 言うか言わないか迷うように唇が震えたが――抗えるはずもない。


「クロード様……」


 ――その、くすんだ眼差しの奥に確かな熱が揺らめいたのを、私は見逃さなかった。


 卓にカップを置いたエリナの手に、そっと自らの手を重ねる。熱が伝わるのを待って……ため息がちに、囁く。


「どうか、クロードと」


 息を詰めた気配が伝わってくる。頬には朱が差し、シャンデリアの光を宿した目元が、かすかに潤んでいた。――彼女の渇きが、私で満たされるのを感じる。


 カップの縁に、言葉がひとつ、落ちた。



「クロード……」



 熱く震える、濡れた声。

 その名を口にした瞬間から、彼女はもう――私の客でしかいられなくなる。



 甘さの中に、見えない鎖を忍ばせて。

 この店では、優しさすら対価に変わる。

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