第4話 【エリナ視点】グレイハート侯爵邸にて
――数週間後、グレイハート侯爵邸にて。
私は自室の窓から沈む夕日を見つめていた。ずっと憧れていた、自分だけの部屋。豪華な調度品。美しいドレス。全てが間近にあるのに、私の心は暗く、深く沈んでいた。
ふと、部屋の扉がノックされる。その固い音に、心より先に身体が反射的に立ち上がる。――アデライド様だ……!
「エリナさん、よろしいかしら?」
「は、はい……!」
私は急いで……でも、余計な音を立てないように慎重に扉に駆け寄り、扉を開く。そして、向こうに立つ貴婦人――アデライド・グレイハート侯爵夫人に頭を下げた。
アデライドはいつものように無表情のまま私を睨みつけていたが、諦めたように息をつき、あからさまな作り笑いを浮かべる。
「掛けてもよろしいかしら?」
その瞳の奥に浮かぶのは、あからさまな嘲笑。発作のように怒りが頭の中を駆け巡りそうになるが……密かに息を吐いて抑える。感情なんか、見せちゃいけない。絶対に。
「……ええ、もちろんです」
私がどうにか笑みを浮かべると、アデライドは悠然と窓際の椅子へと歩を進めた。
華奢な一人がけの椅子に腰を下ろすその仕草は、まるでこの屋敷の空気さえも支配しているかのように尊大で……悔しいほどに、優雅だった。
「昨日、参加した女王陛下主催のサロン、如何でした?」
悪夢のような昨日が一瞬で脳裏に蘇る。前日まで、必死に準備をしたのに。流行の詩集だって、一生懸命何冊も読んだのに。……それなのに。
不意に眉間が熱くなる。けれどどうにか笑みを浮かべながら、用意していた言葉を絞り出した。
「あ……ええ、とても素晴らしいものでした。紅茶の香りがとても見事で……」
「そう。それならよかったわ」
アデライドはゆっくりと目を細める。その何気ない仕草のはずなのに、妙に威圧的に感じるのは……私が過敏になっているから?
「けれど、マダム・エヴァンスから……あなたはずっと下を向いて黙っていた、と聞いたけれど?」
『マダム・エヴァンス』――その名前に背筋が凍る。あの年増女は、明らかに私を嫌っていた。知識人ぶって、難しい話の時に限って私に問いかけてきて、私を吊るし上げた。その上、アデライドに告げ口まで……!
恥ずかしい、許せない……あの気取った顔面を叩きのめしてやりたい……! あの女の顔を思い出し、胸の奥がぐつぐつと煮えたぎる。色んな感情がごちゃまぜになって込み上げてくるが……どうにか……どうにか、飲み下す。
「侯爵夫人として、公の場で話すべき内容というものがあるのよ。話題を振られたとき、あたふたして黙り込んでばかりなのは……少しばかりよろしくないわね」
「……申し訳ありません、まだ至らず……でも……」
私は顔を伏せ、険しい表情を見られないようにしながら、言い訳を探す。しかし、それを遮るように、アデライドはふっとため息をついた。
「まあ、仕方のないことでしょう。あなたは平民の出身なのですから」
その言葉が、胸に突き刺さる。
平民の出身――この家に来て、私は常にそれを意識させられてきた。
屋敷の使用人たちの視線も、アデライドの態度も、私を侯爵家の正統な一員として見なしていないことをはっきりと示している。
実際、私はレオ様と未だに正式な婚約関係にはない。事実上の婚約関係にある恋人として、屋敷に置いてもらっているだけだ。
レオ様は「母上に君が認められれば、すぐにでも婚約の手続きをしたい」……そう言って私を抱きしめた。
けれど、あの、軟弱者は……! 数週間たってもアデライドが態度を軟化させない様子をみて、「父上を手伝いたいから」と言い残して遠くの領地へ行ってしまった!
そして、残された私は、アデライドとふたり。この牢獄のような屋敷で、毎日、毒のような叱責に晒され続けている。
レオ様の愛を勝ち取れば、幸せになれると、貴族になれると思っていた。そうすれば、ずっと目指してきた『強い自分』になれると……。馬鹿でのろまな母と違って、男に命運を握られ続けることなく、自分の力で立って生きていけるようになると……信じていた。
……私はまだ、頑張らなければいけないの? このまま耐えていれば、いつか貴族として認められるの? 誰にも媚びへつらわず、生きていけるようになる? この地獄に出口はあるの……?
「……エリナさん?」
アデライドの声に、はっと顔を上げる。
「あなたなりに励んでいらっしゃることは、もちろん理解しているわ。ただ、それだけでは足りないの。あなたは、私たちとは違うのですから」
「……え?」
「あなたのような取り柄のない平民を選ぶなんて……レオの優しいのにも、困ったものだわ……」
アデライドはそこで、あからさまにため息をついてみせる。
「恐れ多くもグレイハート侯爵家に入りたいと考えるのなら、あの子の与える慈悲に甘えず、人一倍努力をしてもらわなければ……いずれ、家を出てもらうしかなくなりますよ」
入れ替わり立ち代わり訪れる家庭教師から礼節やダンスを習い、筆記の練習をし、教養が身につくように慣れない本を読み漁った。
――これ以上、何をどう頑張ればいいの?!
だけど、そんなことをアデライドに尋ねても意味がない。むしろ、立場がさらに悪くなる。私はどうにか喉の奥から絞り出すように「はい」と短く返事をした。
私の情けない姿を見て鬱憤が晴れたのか、アデライドは満足げに目元を歪ませ、ようやく椅子から立ち上がる。
「今日はこれで失礼するわ。またお話しましょう」
――嫌味な年増と話すなんて、願い下げよ! その言葉を飲み込んで、黙って頭を下げた。アデライドが部屋を出るのを俯いたまま見送る。
靴音が十分遠ざかるのを確認して、思い切りアデライドが座っていた椅子を蹴り飛ばした。絹の靴が黒く汚れたけど、どうでもいい、構わない!
「何なの?! あの厭味ったらしい言い方は? 本っ当に気分が悪い……」
貴族として認められるために努力しても、「元は平民だから」と蔑まれ、完璧に振る舞えなければ、それは「努力が足りないせい」だと突き放される。
胸の奥に沈む不安を紛らわすように、私は両腕を抱きしめた。
……誰か、私を褒めてよ。
平民なのに、侯爵家の跡継ぎを射止めて。絹のドレスに包まれて、この屋敷で必死に頑張ってる。
すごいでしょ? 羨ましいでしょ……?
少し前なら、私の話を聞きたいって言ってくれる男の人はたくさんいた。けれど、この立場になってから……みんな、私から遠ざかってしまった。
ついに涙がこぼれそうになったとき……ふと、ある日のサロンで耳にした噂話が蘇る。
最近、貴婦人の間では夜、ホストクラブという場所に出かけるのが流行しているという。なんでも、そこではホストと呼ばれる男性に、お酒や紅茶を飲みながら話を聞いてもらえるらしい。
確か、あの時ご婦人たちが夢中になっていた店の名前は――
『ルクレール』だったかしら……
私は再び窓の外に目を向けた。夕闇が迫る街の向こう、貴族たちの華やかな社交の場とは異なる、別の世界が広がっているのだろうか。
もしも、そこに私の話を優しく聞いてくれる人がいるのなら……。
――やがて、夜の帳が下りはじめた頃。私は誰にも言わず、馬車に乗って夜の街へ駆け出していた。