第15話 小さな舞台
リリィが生きていることが分かった日から、私は早速動き始めた。あの子の居場所が分かったなら、レインならきっと、父の手が及ばないように保護してくれているはず。
彼を信じて、私はシャーロットの檻から出られるよう、ある計画を企てた。
計画を実行するためには協力者が必要だった。そこで、私はシャーロットの使用人のうち数人を『誘惑』することにした。
シャーロットが突如、昼間の湯あみを所望したその隙を突き、私は廊下の隅で年嵩の女使用人の手を取り、ぐっと身を寄せる。
「……クロード様……困ります……」
ツンと厳しく吊り上がった目尻は下がり、頬はかすかに上気している。私が少し微笑んで見せると、慌てて顔を逸らそうとするが、目線は私に釘付けになったままだ。
「困る? どうしてでしょう?」
「……あの方の恐ろしさは、骨身に沁みて知っています。……子どもが三人いるんです。下の子はまだ七つで……」
この屋敷の使用人たちの忠誠心は恐れの上に成り立っている。この人もそうだ。
ならば、それを利用するまで。恐れは鼓動を早くさせる。ときに、自らが恋する少女になったと、錯覚してしまうほどに。
「たしかに、私に協力したことが露見し、シャーロット様の不興を買えば、どんな目に遭うか……」
彼女は浅く息を呑む。喉元が細かく震えている。距離を詰め、耳元に声を落とす。
「シャーロット様が私に罰を与えるとき、寝室でなにが起こっているか……あなたなら知っているでしょう。私も、あの方が恐ろしい……」
浅いため息が漏れる。心臓の鼓動が、壊れそうなほど高鳴っているのを感じる。この人の家族がこの様子を見たら、どんな顔をするだろうか……。
私は触れていた手を、やわらかく包み込むように握り直し、囁く。
「……これは私なりのシャーロット様への奉仕の一環です。あなたに罪はありません。……私が、すべて引き受けますから」
そこで握った手を放してやる。視線が私に向いたところで……仕留める。
「あなたの忠誠が揺らいだことにはならない。……だから、ね?」
彼女は半ば呆然としながら、数度、自分に言い聞かせるように頷いた。そのくせ、私の手を強く握ったまま、離そうとしなかった。
『ルクレール』で手練手管を振るってきた『クロード』からすれば、夜の刺激を知らぬ使用人たちを『説得』してあげることなど、造作もない。
さて、この使用人の協力を得られれば、あの計画を実行するための準備は容易く完了するだろう。
あの『舞台』で、私は王女を堕とす。
――彼女を酔わせ、惑わせ、そして……私の夢を現実にする。
* * *
それから数日後の夜の、湯あみの直前。
私は無言でシャーロットの手をとって彼女を舞台へ誘う。シャーロットは私については来たが、不快を隠さず、私に問う。
「クロード、これはどういうこと? 私はこんなこと、命じてはいないけれど」
「常に首を垂れ、服従する犬などシャーロット様には相応しくない。違いますか?」
そう答えると、彼女は私の手に爪を立てた。
「……気に入らない余興だったら、ただでは済まさないわよ」
私はそれに何も言わず……シャーロットが愛してやまない、クロードらしい微笑みだけで応えた。
扉を開けた向こうには、懐かしい、洗練された空間が広がっていた。
優美な白い光を落とす瀟洒なシャンデリア。流行を踏まえた、控えめながら存在感のある調度。そして、部屋の中央には真っ白なクロスの引かれたひとつの卓。
ここは、小さな『ルクレール』だった。
「どうぞ。今日のために密かにご用意いたしました」
シャーロットは思わず、と言った様子で、エスコートする間もなく吸い寄せられるように卓に腰かけた。
私はかつての『ルクレール』でそうしていたように、近すぎず遠すぎない距離で隣に腰かけ、卓の上に用意されていた脚の細いデカンタグラスに用意された白ワインを、グラスに注ぐ。
このワインはシャーロットが初めて店に来たとき、振る舞ったものと同じもの。使用人経由でレインに連絡をとり、用意した。
「これは……」
シャーロットはグラスを手にし、わずかに目を見開いた。
淡く澄んだ琥珀色。香りは奥行きを持ち、ゆるやかに立ちのぼる。
白桃を思わせる上品な甘みと、冷えた石灰岩のような清冽さが、淡く漂う。
主張しすぎず、けれど記憶に残る香り──まさに、あの夜の味だった。
ワインの色と香り、そして場の空気で、彼女はそれを悟ったのだろう。口元をわずかに緩め、グラスをこちらへ傾ける。
「クロード、あなたも飲みなさい」
「それでは、お言葉に甘えて」
自分のグラスにもワインを注ぎ、彼女にそれを差し出す。
「素晴らしい夜に」
透明な硝子がぶつかり、儚い音を立てる。
「……美味しいわ」
「光栄です」
あたりに満ちていた張りつめた空気に、かすかな柔らぎが差す。その兆しに静かに寄り添うように、私はグラス越しに彼女の瞳を見つめ、問いを投げかけた。
「……あの日、はじめて会ったとき……。どうしてシャーロット様は私に微笑んで下さったのですか?」
シャーロットが『ルクレール』を初めて訪れた夜のことは、今でも鮮やかに思い出せる。
誰よりも美しく、そして誰よりも孤独なその人は、ひとことも発さずに卓についた。私もまた隣に腰を下ろし、ワインを一杯だけ注いだ。
甘い言葉はひとつも交わさなかった。
けれど、あのひとときは――まるで世界の時がふたりのために止まっていたかのようだった。
薄い杯が鳴らす澄んだ響き。遠くの卓からこぼれる、誰かの笑い声。
音たちが交わるなか、シャーロットは言葉もなく、ただ手元の飲み物に唇を寄せていた。
やがて閉店の時刻が近づくと──
彼女は席を立ち、ふとこちらを振り返って、初めて私に微笑み、こう言った。
「また来るわ」
それ以来、シャーロットは『ルクレール』の常連となった。
「わかっているくせに、私に尋ねるの?」
シャーロットは椅子の背に悠々ともたれ、こちらを見下ろす。少しだけ、二人の距離がひらく。
「想像はしております。……けれど、あなた以外、真実は知らない」
言葉を紡ぎながら、私はシャーロットの髪をひと房すくい上げ、そっと唇を寄せた。彼女はそれを拒むことなく、ただ静かに、その様子を見つめていた。
そして、私が髪を手放したとき、ぽつりと一言、こぼした。
「あなたの横にいたあいだ……久しぶりに、自然に息を吸えたの」
シャーロットはひと口ワインを口に含み、続ける。
「王女なんて言っても、所詮、私は王宮の飾りの一つに過ぎない。抗えない恐ろしい力に怯えながら傅かれる憂鬱……けれどあの日はなぜか、それを忘れられた」
彼女はゆっくりと顔を上げる。ふたつの紅い瞳が、天井のシャンデリアを映す。
「たいした理由なんてないの。ただ……隣にいて、楽だった。それだけよ」
細やかな光を宿したその瞳は、磨かれた紅玉よりも深く、しんとした輝きを放っていた。
「今も、そう思って下さいますか?」
私の問いかけに、シャーロットはただ黙して答えなかった。
表情をわずかに硬くし、視線を落としたまま、手元のワインをゆるりと揺らしている。
私たちはしばし、言葉を交わさずにいた。彼女が唇を濡らすのを、私は黙って見守り、ひとつひとつの所作の合間に、彼女の望みを探る。必要とあれば、次の一口が自然に運ばれるよう、さりげなく手を伸ばす。
長い、空白。
グラスの脚に添えた、指が冷たい。
……淡い金のワインが、こんなにも凍てつくように映る夜があるだろうか。
やがて、デカンタの底が見えはじめたころ──
シャーロットの唇で、ようやく沈黙が破られる。
「……本題に入りなさい」
私が何も言わず首をかしげると、紅い眼差しが私を射抜く。
「私が何も分からないとでも思っているの? なにか、慈悲でも乞うつもりかしら」
私の下心など、とうに見透かしていたのだろう。やはり、彼女は聡い。……いや、それとも。こんなふうにされたなら、誰しもそう思うだろうか。
「はい。実はひとつ……シャーロット様にお願いがございます」
一度、言葉を断ち切る。
そして、わずかに彼女の方へ身を乗り出した。
この胸の決意が、一片もこぼれ落ちることなく届くように。
「『ソフィア』としての永遠の愛を、シャーロット様に捧げます。代わりに──『クロード』を、解き放っていただけませんか?」




