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第12話 売約済み

 シャーロットが私を『ソフィア』と呼んだ翌朝。


 屋敷で朝食をとっていた最中、唐突に父の書斎に呼びつけられた。

 家令について部屋に入ると、父は間髪入れず命じた。


「明日からシャーロット王女の傍付きとして政庁に出仕せよ」


 窓から差し込む朝陽が、仄かに室内を照らしていた。けれど、私の耳に届いた父の声は湖の底で囁かれた呪詛のようにこの胸を暗くする。


 父の口元は珍しくゆるみ、声にもどこか弾みがあった。まるで商談が思惑通りに運んだ商人のような、この男にしては珍しい浮かれ顔。


 頬杖をつき、上機嫌に私を見下ろすその姿を見て、すべてを悟る。



 ――私は、売られたのだ。



 シャーロットは、クロードという仮面の中身をすでに見抜いていたのだろう。そして、何かをきっかけに私を所有する決意を固め、父に交渉を持ちかけた。


 それを受けて父は――この男は、私の身体を、名を、そして人生そのものを、王女に引き渡した。


 私は、何も知らぬまま『ソフィア』という存在そのものを売り渡された。なんて無様で滑稽なんだろう。自分の不覚に吐き気すら覚える。


「随分、急なお話ですが……」

「異論は許さぬ。まあ、貴様は私に逆らうことなど出来ぬだろうがな」


 私の言葉を途中で断ち切り、父は嘲笑するように言い放った。

 どうやら、かなりの好条件で話がまとまったらしい。私の身柄と引き換えに、新たな領地か、あるいは政庁の支援でも取りつけたのだろう。


「……事の経緯をお教え頂けないでしょうか」

「王女から要請に応じたまで。お前などに詳しいことを語る気はない」

「しかし、隣国のバリエール公爵家との縁談は……」

「行き遅れになる前に戻ってくれば良い。それに……今回の出仕で王家との縁も出来れば、他国との縁など不要になろう。せいぜい政庁でも令嬢らしく振る舞い、家のために尽くせ」


 瞬間。目の前が赤く反転する。

 怒りが……血を、視界を、胸の奥を染めていく。


 私を物のように扱う、この男が憎い。

 そして、それに何一つ抗えない、自分自身が……もっと憎い。



 それでも、私は――リリィのために、服従を選ぶしかないのだ。



「話は以上だ。下がれ」


 父は吐き捨てるように言い放ち、すぐさま机の上に積まれた書類へと視線を移した。

 一転して、私の存在など視界の外……空気のように扱うその態度を、普段の私ならいっそ清々しいとでも感じただろうか。


「……失礼致します」


 教え込まれたとおりに、『完璧』な令嬢らしく一礼をし、部屋を後にした。

 その従順さが、何よりも自分を汚している気がして――喉の奥が、焼けるように苦かった。



 * * *



 父との面会を終えて、私はすぐさま自室でクロードの服に着替え、馬車で『ルクレール』へ走った。

 今は自分の感傷に浸っているときではない。余計な思考は排除し、出仕前に仕事を整理する――それが、今の私が成すべきことだ。


 『ルクレール』に到着すると、レインは沈痛な面持ちで私を迎えた。私は彼の肩をさすって慰めてから、足早に専用部屋に向かう。


 部屋の隅の、小さな仕事用のデスクには私に宛てられた書状が置かれる書箱がある。海運事業と商会事業についてオズワルドとセシルから何通か書面で相談が届いていたので返信を書く。


 次いで、『ルクレール』の上客への礼状を手早く綴りながら、傍らに控えてもらったレインに口頭でサロン事業と慈善活動の引き継ぎ事項を伝える。


 クロードとしての仕事が――仮面を被ったまま、反射のように処理していく作業が、落ち着かない心をどうにか支えてくれていた。


 仕事がひと段落すると、レインがそっと紅茶を差し入れてくれた。その香りに少しだけ、心がほどけかける。ふと窓の外を見ると日は傾き、街には夜の帳が落ちかけていた。



 明日からは、私はシャーロットの籠の鳥として過ごすことになる。その時が少しずつ、迫ってきていた。


「……急にこんなことになって、すまなかった。改めて、明日から『ルクレール』を頼む。レインなら上手くやるだろうけど」


 自嘲気味に私が微笑むと、レインは神妙な顔をさらに厳しくした。傷つき引き攣れの残る右の目元が、こわばったように小さく動いた。


「本当に、王宮へ行かれるのですか?」


 レインの声は掠れていた。泣いてしまうのを必死に堪えているような、胸の奥から絞り出すような声。


「シャーロット様の元に仕えるとなれば、今より自由が奪われることは明らかです。それは……ソフィア様にとって、辛いことではないのですか?」


 彼は、優しい男だ。いつも周囲に気を配り、誰かのために動かずにはいられない。だからこそ――『ルクレール』も、慈善活動も、彼に託すことができる。


「辛い……か」


 辛い、苦しい……そんな気持ちは遥か遠い過去に封じたつもりだった。


 リリィのため、何があっても『完璧』な令嬢を演じよう。

 いつか妹に胸を張って会うために、そして、社会の陰に隠れるように亡くなった母のために……。このままならない世の中で、出来る限りのことをしよう。


 そう決めたとき、辛い気持ちも苦しい気持ちも消え失せた……気がしていた。


「考えようによっては、王家に縁ができるというのは好都合かもしれない。私たちが目指す富を再配分する仕組みも――」

「そんなものは、今はどうだっていい!」


 レインは急に立ち上がり、声を荒げた。

 驚く私を見て、彼は一瞬俯いて言葉を呑んだが……すぐに顔を上げ、揺れの残る目で、それでも真っ直ぐに私を見据えた。


「あなたの……あなたの心はどうなんですか? 言われるがまま、今度は王女に従って生きることに、納得しているんですか?」


 聞いているこちらの方が苦しくなるような、胸が詰まりそうになる声色でレインは訴えてきた。冷静なはずのレインが動揺する様子が、自分の内心とふと重なりかけて……私は両手で目を覆う。


「……わからない」


 そこで、気が付いた。

 ……私の両手は、震えていた。


 本当は……恐ろしいのだ。

 あの、シャーロットに秘密を暴かれ、命運を握られ……私は、今まで通り妹と母を想って生きられるのだろうか?


 外界と完全に隔絶されてしまうかもしれない。

 そうしたら……そうしたら私は、何のために生きたらいい?


 でも、それでも……



「……私は、従うしかない」



 父が妹の……リリィの生死を握っている限り、私は逆らうことができない。父がシャーロットに仕えよと命じるならば、拒否することはできない。


 レインはためらいがちにこちらに手を差し伸べ、ついに決心したように力強く私の手を握った。


「どこか遠くにいらっしゃる、妹様のために、ですか? だったら、今度こそ……」


 『リリィを探し出す』――レインがそう言う前に、私はその手を無理矢理に振り払った。


「……これ以上は、止めて。書類が整ったら呼ぶから」


 傷ついた色が一瞬だけ彼の顔をかすめた。けれどすぐにそれを塗りつぶすように表情を消し、機械のように一礼をする。そして、足音ひとつ立てずに部屋から出て行った。



 リリィに会いたい。……心から、会いたい。

 でも、だからこそ……私は、彼女がこの世にいないという可能性を常に恐れていた。


 慈悲の欠片もないあの父のことだ。私には生かしてやっているとうそぶきながら、リリィの存在を……この世から、消してしまっているかもしれない……。


 レインが死力を尽くして調べても、またリリィが見つからなかったら……それが、たまらなく恐ろしかった。



 ――私は、なぜこんなに弱いのか。

 『貴族の富を再配分する仕組みを作る』なんて大層なことを言いながら、結局父に抗えず、一番大切なはずの妹の姿を追い求めることすら怖がる。


 なんて、情けない姉だろう。



「リリィ……」



 私以外いなくなった部屋に、虚しく私の声だけが響く。

 私は……どうしたらいい?

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