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第11話 歪んだ鏡

 エリナが去り、『ルクレール』には秩序が戻った。


 クロードという絶対的な存在がすべてを操作し、予定調和で回る世界。

 『完璧』な舞台で私は夢を売り、対価を得る。



『私は、クロードが好き』



 けれど、ふとした瞬間、エリナの灰色の瞳が、今もなお瞼の裏で燻っているのを感じるのはなぜだろう。

 彼女はもう終わった客。搾り取られ、燃え尽きたはずの灰。……けれどその灰の奥底に、まだ火種が残っているような気がしてならない。


「……クロード?」


 肩によりかかるシャーロットに呼ばれ、反射的に微笑む。


 エリナが去って数日が経ち――私は今日もシャーロットの卓につき、彼女に奉仕していた。ただ、対価を得るために。


 王女様の淡い薔薇のつぼみのような唇が、不満げにすぼめられていた。


「どうされましたか、シャーロット様」

「ここのところ、気がそぞろなようね」


 シャーロットは放蕩姫などと呼ばれているが、ときに預言者じみた鋭さをみせるときがある。異質なまでの人形じみた美しさと、不必要な明晰さが、彼女を孤独にさせるのかもしれない。


「ご不安にさせてしまいましたか?」

「……別に、不安になんて」


 顔を近づけ、紅い瞳を覗き込む。流れる血がそのまま現れたような紅。切迫した情動を感じさせる色。その迫力に、エリナが去った日の姿がよぎり――無性に胸の奥を揺さぶられる。


 ……いけない。この感情はクロードらしくない。


「しかし……瞳が揺れています」


 揺れているのは自分だと分かっていながら、誤魔化すように囁く。しかし、シャーロットは私の『失言』ですべてを悟ったのか、顔を歪め、苛立ちを露わにする。


「あの女……」


 カナリアのように澄んでいるのに、地の底から響くような重い声色。


 私は表情を固めたまま、次の発言を待った。しかし……シャーロットは急に表情を緩くし、打って変わって歌うように言った。


「そういえば……エリナ・バレット……。修道院送りになったそうね」

「……そうなんですね。存じ上げませんでした」

「グレイハート家の財産を売り払っていたそうよ。王家の縁者にまで言い寄って援助を受けたらしくて……ここのところ周りがざわついて鬱陶しいの」


 鬱陶しい、と口にする彼女の顔には微笑みさえ浮かんでいて……表情と言葉の隔たりが、冷たく背筋を凍らせる。


「それだけでも腹が立つのに、私のクロードにまで傷をつけて……」


 シャーロットは上体を起こし、卓上のグラスを手に取ると一気に飲み干した。彼女のために用意したロゼ色の貴重なシャンパンは、その喉をほんの少しでも潤すことができたのだろうか。


「完璧なルクレールで、完璧な夢を見せてくれるはずのあなたは、どこか変わってしまった」


 天井の中央から下がる、王宮にも劣らぬ豪奢なシャンデリア。シャーロットは私ではなく、それを見つめながら呟いた。ホールの喧騒にかき消されそうな小さな声で。


「歪んでしまった鏡のよう。ここのところ、あなたを見るたび、頭痛がするのよ」


 そこで、ようやく視線が私に戻された。

 深紅のふたつの光が私を正面から捉える。



 ……シャーロットは、どこかからエリナが去った日の私の様子を聞きつけたのかもしれない。


 あの日、エリナの熱に当てられて、クロードという仮面がひび割れかけた。

 誰にも気づかれていないと思っていたけれど――もし、あれを見られていたとしたら、それは致命的な失態だ。


 シャーロットは相手を支配することで愛を実感する。彼女を安心させるには、恭順を示すのが最もたやすい。


「……シャーロット様」


 あえて名前だけを呼び、胸に手を当てて俯いてみせる。ホストとしての自分を演じきれず申し訳ない、という本心を滲ませて。


 シャーロットはそんな私に興味がないとでも言いたげに、顔を背けて命じる。


「シャンパンを頼むわ。すぐに塔を組みなさい……高く」


 私は深く頭を下げてから立ち上がり、注文を察知して寄ってきた黒服にグラスを積むように指示した。高く、天井まで届くようにと。


 黒服に指示を伝え終わったとき、視界が急に傾く。……シャーロットが後ろから私を抱いたのだ。彼女の薔薇の香りが私を包み、存在ごと飲み込まれるような錯覚に陥る。


 シャーロットはそのまま、耳元に唇を寄せ……声を落とす。


「シャンパンの見返りに、今日は私だけを見つめていなさい。他の誰かのことを想うことは禁じます」


 悩ましく、ゆるやかに、首筋に指が這う。


「出来なければ……重い罰を与えてあげる。……面白い余興でしょう?」


 彼女の支配欲を満たしてやるため、あえて心の揺れをそのまま言葉にのせ、問う。


「罰……それは、どのような……」


 しかし、シャーロットはくすくすと笑うだけで、結局答えはしなかった。



 そのあとの時間は、一時の不穏さが嘘のように穏やかだった。

 宮廷での不満ごとを聞いてやり、流行の詩文について語り合い。感情のひだにふれることなく、言葉を重ねていた。


 しかし、平穏というのは、いつだって唐突に終わりを告げるものだ。


「あれを持ちなさい」


 シャーロットが『ルクレール』の黒服ではなく、自らの使用人に命じて何かを取りに行かせた。しばらくの後、使用人が持ってきたのは腕一杯の、白い百合の花束だった。


 卓が白百合で埋め尽くされた瞬間。

 その光景が、記憶を引き戻す。


 リリィの微笑み、エリナが去っていく背中――。

 胸の奥に、春の陽射しのような温もりと、ひりつく風のような痛みが同時に走った。


「……これは」


 私は抗えず、声を震わせる。

 息を飲んだ、その瞬間――白く細い腕が絡みついてきた。

 シャーロットは私を正面から抱きしめ、妖艶に囁く。


「ふふ、禁を破ってしまったわね。可哀そう……」


 背中に回された手が、きつく、私を縛る。

 息が詰まる。気力が萎えていく。……力が、入らない。


「あなたのすべてを、私のものにしてあげる」


 私は、この腕を振り払えない。



「ねえ……ソフィア」



 暴かれるはずのない禁足地を、踏み荒らす背徳。


 私を『ソフィア』と呼んだシャーロットの貌は、陶酔にも似た歪みを孕み――どうしてか、フレスコ画の聖母を思い出した。

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