『第2証言者』
聖女が所属していた魔王討伐パーティーの戦士。
名はミカエル・サリヴァンヌ。
黒縁メガネに切れ長の目が特徴的な青年。
真面目な性格が現れた質実な戦い方は単純ながらも耐久性に優れていた。また、個性の強い魔王パーティーの橋渡し役としても活躍した。
※以下は、彼との問答の記録である。
初めまして。
オゼワールから話は聞いています。さぁ、こちらの席へどうぞ。
名乗る必要はありませんよ。どうせ偽名でしょうから。
…少々言葉が強かったでしょうか。
もしお気を悪くされたなら、申し訳ありません。
改めまして、わたしはミカエル。ミカエル・サリヴァンヌです。聖女様からはミカちゃんとお呼び頂いておりました。
あなたの目的は知っています。先程述べた通り、オゼワールから文が届いたのです。ちゃらんぽらんに見えて、案外しっかりしている一面があるんですよ、彼。
それに、ああ見えて情に厚い部分もありますから。普段の態度に目を瞑れば、いい男なんですがね。
そういう訳で、一通りはあなたの事も聞いております。
今更聖女様の死を調べてらっしゃるとは、随分奇特な方ですね。もしや、以前聖女様がいらっしゃった異世界からこられたのですか?見た目はお若く見えますが、ひょっとしてお父様でしょうか?
あはは。冗談です。言ってみただけですよ。
聖女様が異世界からいらっしゃったのは事実ですが、それは魔法によるあくまでも一方通行のもの。こちらから再び魔法を使って召喚しない限りは、あちらの人間がこちらに来ることはありません。
オゼワールから聞いたでしょう?
100年に1度、王家が使う魔法のことですよ。
他力本願とは言いますが、あそこまで身勝手な魔法を私は知りません。加えて、それをお国自らが使うのは如何なものかと私は思いますが、所詮は後の祭り。私個人の意思など、国にとってはどうでも良い些事なのです。
我々後から不足が故に、異世界にまで白羽の矢を立ててしまったこと、今でも申し訳なく思っています。その結果、彼女らの命を奪ってしまったことも。
聖女も勇者も、最初から英雄だったわけじゃありませんから。
私の父は、国王陛下を助言する、臣部院の代表を務めておりました。俗に言う、国王陛下の右腕というやつでしょうか。
父は懐の読めない冷たい目をした人でした。
常に合理的で、己の利益を最優先に行動する機会のようなお人。その人柄が気に入ったのかは知りませんが、国王陛下からは大層信頼されていたようです。
故に、公私問わず様々な課題を相談され、その度に父が助言をし、解決してまいりました。今回の聖女様と勇者様の召喚にあたりましても、父が1枚噛んでいることは事実です。その点に関しましては申し訳なく思っていますが、幼き頃の私が意見を申したところで変わりはないでしょうから、悪しからず。
話が逸れてしまいましたね。
そろそろ本題に移りましょう。
私が聖女様と初めてお会いしたのは、彼女がこの世界に召喚された、まさにその時です。遡ること…およそ6年といったところでしょうか。
陛下のご意向により勇者、聖女両名の召喚が決定され、召喚の儀式はは滞りなく実行へと移されました。
元を辿れば、召喚の提案をしたのは私の父。一連の計画の発起人であり、陛下の腹心である父と、父の後継者たる私が儀式に立ち会うのは、当然の流れと言えるでしょう。
魔法陣は滞りなく構築されました。
父が思い描いた通り、国の上級魔法使いの力を総動員し、術式は発動へと至りました。
魔法陣の周囲を煙幕が覆いその場にいた全員が息をのみ、食い入るように煙幕の向こうを見つめました。私も、異世界人の召喚を見るのは初めてでしたので、多少興味をそそられたことはよく覚えています。
やがて白い煙は風に巻かれて消えていき、陣の中にしゃがみこむ人の形が見えてきました。
1人は男。油がぎっとりと染み付いた黒髪に、いつ洗ったかも分からぬヨレヨレの衣服。顔立ちもおおよそ勇者とは思えぬ、汚らわしい少年でした。
率直に述べると、私は失望しました。
来んな醜く汚れた人間が勇者?笑わせるな。これならそこらの道端に転がっている子供の方が余程見映えがいいではないか。金と時間をかけて召喚した異世界人がこれとは滑稽そのもの。
私はすっかり興を冷めてしまい。父にさっさと帰ろうと耳打ちしました。しかし、父の目線は陣に釘付けになったまま。
仕方がないので最後まで付き合おうと、視線を戻した先に。
僕の運命がいた。
艶のある長い黒髪。ふっくらと桜色に色付く唇。1度見たら吸い込まれてしまいそうな憂いを帯びた黒い瞳。緩やかな曲線を描く、柔らかな頬の線。
華奢な身体。触れれば割れてしまいそうな儚げな雰囲気。蝶よりも花よりも鮮烈に引き立てられる美しさ。全てが脳裏に鮮明に焼き付く。
香ってもいないのに、彼女の匂いが鼻腔を貫く。甘いのにどこかさっぱりとした、初夏の新緑を思わせる香り。
まるで彼女という存在そのものが、僕の魂に染み入るようだった。
僕は感激した。それと同時に狂おしい程の渇きに襲われた。
彼女に触れたい。話したい。
身体の奥深く、魂に至るまで結合し、彼女と溶け合い、境界線など消えてしまうぐらい抱きしめ合いたい!!!
…気持ち悪いですか?
常人にとってはそうでしょうね。でも構いません。あの時僕が感じた衝撃と慈しみは、僕だけのものです。僕が感じた思慕は、彼女にさえ伝わればいい。あなたに理解して欲しいとも思いません。むしろ、この思いは僕だけのものであることに喜びすら感じます。
あの瞬間、僕の全ての細胞が沸き立つような感覚。今思い出しただけでも全身が震えます。
僕は確信しました。裕福な父の元に生まれてきたのも、父の後を継ぐためとやってきた政の真似事も、全ては彼女と出会うためにあったのだ。
僕の今までの人生も、これからの未来も、全ては彼女に捧げねばならない。そういう運命なのだと。
僕は生まれて初めて、父に感謝しました。正確には、父の持つ権力に、ですが。
僕が魔王討伐パーティーに加わりたいと志願すると、父は喜んで各所に根回しをしてくれました。
僕がパーティーに加わり、魔王を討伐した英雄の一角となれば、父の立場はますます磐石なものになると考えたのでしょう。しかし、そんなことはどうでもいいのです。
単純な戦力値としてみれば、僕の実力は戦士全体の半分にも届かない。しかしそれをカバーするのが父の役目でした。
半月も経つ前に僕には戦士という地位が与えられました。国王陛下への謁見も叶い、正式にパーティーの一員となることが認められたのです。あとは他のメンバーと顔合わせを行い、出立の儀を行えば晴れて旅立ちの日を迎えることになります。
初めての顔合わせの日。
魔法使いは聞いていた通りちゃらんぽらんな男で、さほど興味もありません。他方勇者は小綺麗になっていたものの、やはりぱっとしない、側溝に溜まるドブのような男でした。彼らについて思い出せるのはこれくらいです。
僕の人生最高の瞬間は、この後訪れました。
ああ、思い出すだけで達してしまいそうです。
凛と咲く黒百合の、なんと美しいことか。
言葉にするなど烏滸がましいにも程がある。彼女まさに、僕が想像していた通りの人でした。
誰にも心を許しているようで、許していない。鉄壁に取り繕った仮面は何人の侵入も許さず、全てを受け入れているようで、全てを拒絶する…矛盾を体現した佇まいは、1目にして僕の心を奪いました。
理想の聖女?完璧な人間?
笑わせる。彼女は何も完成などされていない。むしろ完璧などとは程遠く、最も不安定な存在でした。あのちゃらんぽらんには、理解できるはずもありませんがね。
討伐パーティーの中で、本当の彼女を理解していたのは僕だけです。
見かけはオゼワールの言った通り、完璧な聖女に見えたことでしょう。誰にも平等に優しく接し、弱気を助け強気を挫く精神性。人を救うことに躊躇がなく、常に気品と笑顔を携えておりました。
しかしその仮面の奥に隠された本心。…あなたに分かりますか?
《問・聖女について》
彼女の秘密は、僕の彼女だけが共有するもの。
秘密というものは、誰にも明るみにされないから美しいものなのです。薄暗く、スポットライトの当たらない暗闇に隠されているからこそ、隠された美が際立つ。
それを赤の他人であるあなたに、みすみす話すとお思いですか?どいつもこいつも、僕と彼女だけの神域に入り込もうとする、不届き者ばかりなのでしょうか。
…と、言いたいところですが。
僕たちが共に過ごした日々が誰にも伝わらないのは、それはそれで寂しいものです。ちょうどいい冥土の土産にもなるでしょうし、あなたにはお教えしましょう。
僕たちの旅は王都から始まった…と、オゼワールから聞きましたね?その通り、僕らパーティ一行は王都から旅立ち、長い人界での旅路を経て、魔王のいる魔界へと至りました。
人界での旅路の方が長かった理由は、既に聞いた通りです。元々の経路が長かったこのに加え、あの薄汚い勇者の身勝手に付き合わされたからです。
勇者の身勝手、とは一見悪いことのように聞こえるかもしれません。が、実態はただの人助けでした。勇者は実に困った人間でね。少々、というかかなり偽善を気取りたがる人だったのです。犠牲の延長線で、醜い奴隷まで仲間に加える始末でしたので。
馬車が動かない。家の鍵を落としてしまった。農作物の収穫を手伝って欲しい。
などなど、魔王の討伐には関係の無い貧乏人どもの世話ばかり焼くものですから、僕は飽き飽きしていました。オゼワールは渋々ながらも手伝っていましたが、僕は毛頭やる気などありません。
道端に突っ立っていた僕の手を引いてくれたのは、あの美しい黒百合です。
「ほらミカちゃんも!一緒に手伝お?」
僕だけに向けられた偽物の笑み。柔らかな木漏れ日を模した偽物の優しさに、僕はさらに惹き込まれていきました。この偽物の優しさが、彼女の不完全を象徴していたからです。
勇者の勝手に付き合わされているのにも関わらず、彼女が笑顔を絶やすことはありませんでした。少しも嫌な顔をせず、むしろ貧乏人に対する慈愛すら浮かべて、喜んで手助けをしていました。馬鹿な勇者は彼女の態度を当たり前のように受け止めていましたが、僕は感動して涙を流しそうになった。
不完全な少女が己の苦痛を奥底に押し込め、他人を思いやる姿。今まで見てきたどの絵画よりも神秘的で、完成された光景でした。
《問・魔王討伐までの旅路について》
魔王討伐までの旅路の中、唯一残念に思ったことがあります。
彼女の不完全が、完璧という名の仮面に隠されてしまっていたことです。
オゼワールが述べていた通り、彼女は完璧だった。魔人との戦闘においても、貧乏人どもに対する態度も、何もかもが聖女として完成されてしまっていた。そのせいで、彼女が本来持ち合わせていた不完全が、覆い隠されてしまったのです。
…いや、隠されていたのではありません。
正確には、彼女自身が隠していたのです。
どうやら彼女は、己の内の不完全を厭わしく思っているようでした。故にどのような時にも完璧の仮面を深く被り、内に秘めたる美しさを見せようとはしなかった。まるで、内に秘めた弱さを恐れているように。
僕としては至極残念でなりませんでしたが、彼女を問い詰めたところでのらりくらり躱されるのがおちでしょう。ならば、今この状況を楽しんだ方が得というもの。
秘めたる美しさを棘で覆い、微笑むお姫様。
ああ、なんと甘美な響でしょうか。
不完全を恐れ、内に封じ込めようと完璧の仮面を被る彼女も、それはそれで美しいものではないか。僕は彼女の不完全を愛していましたが、不完全を隠そうとする彼女自身も愛していました。飄々とした態度を繕い、笑顔を振りまく彼女もまた違った美がある。むしろ、彼女の本心を知っているのは自分だけ、という優越感もありました。
考え方次第で人は変わるもの。僕は純粋に、この旅を楽しむことにしました。
勇者と魔法使いという邪魔者を除けば、僕と彼女だけの完成された空間がある。彼女を見るだけしかできなかった期間に比べれば、これほど恵まれた環境はありません。
日が出ている間は勇者ごっこのお手伝い。そして夜になれば、僕と彼女だけの時がやってくる。
僕は夜な夜な彼女の寝室に忍び込み、その寝顔を食い入るように眺めました。月明かりに照らされた淡い色の肌。しとやかに閉じられた両の瞼。まつ毛の1本1本、唇の皺に至るまでもじっくりと眺め、僕の魂に刻み込みました。すっと息を吸い込むだけで、甘くさっぱりとした彼女の体臭が鼻腔をくすぐります。あの時間だけが、僕にとって最優の瞬間でありました。
肌に触れようとしたこともありました。
しかし彼女は感覚鋭いのか、少し触れるだけでも起きてしまうのです。ですから寝顔を眺め、匂いを吸い込むことしかできなかった。やや不満足ではありましたが、しっかりと活用することはできたので、よしとしておきましょう。
しかし、この時の僕は気づいていませんでした。
彼女の不完全は、美は、こんなものではないことに!!
…。失礼、取り乱しました。
彼女は勘が鋭い方でした。そのため、僕の好意には最初から気づいていたのでしょう。肝心なところで一線を引いてくることが間々ありました。
見かけ上はにこやかに、しかし確実に釘をさしてくるのです。細かく牽制されてしまえば、さしもの僕も打つ手がない。彼女が友好的ななうちに既成事実を作ってしまおうとも思いましたが、年頃の女性を手折るのは趣味ではありません。もっとも、それで彼女が廃人になってしまったら元も子もないので。
ですが、2回だけ。
たった2回ですが、彼女の仮面が剥がれた時があったのです。
───3回?…はぁ?何を仰って…。
オゼワールの奴が!?聖女様のお肌に触れ…後ろから抱きついた!?突き飛ばされたと!?
クソ!あの早漏魔法使いがッ!!アイツみたいな低脳で魔法しか取り柄のねぇガキが!聖女様に、僕の聖女様にィィ!!
だったらあの時、勇者諸共葬ってやればよかった!!
はッ、……。
…今のは忘れてください。
話を戻しますね。
1回目は…忘れるはずもありません。周囲を山に囲まれた盆地に位置する街でのことでした。
人界内において、魔界の最前線に位置する街。魔界に行く前のに、最後の補給と休養をとるため、僕たちはその街に寄りました。
山に囲まれているためか終始穏やかな風が吹く街。休憩を取るにはちょうどいい過ごし安さだな、と思ったのも束の間。火照るような暑さが襲ってきました。そういえばこの街は夏なのかと、今更のように思い出したことを覚えています。
その町はちょうど真夏の真っ只中でした。盆地にあるせいで余計に暑さが酷く、かと思えば夜は冷える。温度変化が酷い気候に、聖女様がお風邪を召されないかと大層心配しました。
その街でも僕たちは勇者の人助けごっこに付き合わされました。
僕は辟易しながらも、彼女の冷たさと温かさを同時に帯びた手に引かれ、渋々ながら彼等の後に続きます。彼女の右手に繋がれた手が燃えるように熱く、僕の中の熱を押し込めるのに必死でした。
依頼は魔人の討伐でしたが、あんなもの僕たちの敵ですらない。半刻も過ぎぬ間にあっけなく討伐は完了。
勇者のごっこ遊びが終わったあとは、これまたごっこ遊びの延長である宴への招待を受けます。
勇者も魔法使いも喜び勇んで誘いに乗り、聖女様は「お邪魔にならなければ。」と謙遜しながらも参加する意思を示されました。聖女様がそう言うなら、と僕もいやいやながら参加することになりました。
宴自体は大層つまらないものでした。街の人々の感謝の言葉がお経のように流れ、でれでれと汚らしい表情を浮かべた勇者が上っ面だけの謙遜をする。汚らわしい。汚らわしいったらありゃしない。
僕が1人出された安酒を嗜んでいると、今度は魔法使いが絡んできました。乱暴に肩を組んできて、「お前も飲めよ〜!!」と真っ赤に染まった顔で誘います。至近距離で嗅ぐアルコールの匂いに嘔吐きそうになりながらも、僕はちびちびと酒を啜っていきました。
ふと目が覚めると、飲んでいた酒場の天井が見えました。僕とあろうものが、こんな安酒場で酔いつぶれてしまっただなんて。
面目ないことこの上なく、二日酔いも相まってさらに気分が悪くなりました。
床には酔いつぶれた人間が虫のようにひしめき合っていました。中には魔法使いの姿もありましたが、勇者と聖女様は見当たりません。大方早めに切り上げて、宿に帰ったのでしょう。
何とか外にでて草むらの陰に嘔吐すると、幾分か気分がよくなりました。
立ち上がって空を見ると、ちょうど朝焼けの時間帯でした。空が徐々に橙と桃色を帯び、青空が顔を覗かせる。聖女様に負けず劣らずの美しさでしたが、さほど興味も湧きません。
昨夜は魔法使いのせいで大変な目にあった。本来見るはずだった聖女様の寝顔を見過ごしてしまったのです。ああ、何たる失敗かと嘆いていましたが、ふと気づいたのです。
朝焼けが見える、ということは、時刻は4時か5時辺りといったとこ。それならば、聖女様はまだお眠りになっているかもしれない!
そうと決まればやることは決まってます。私は聖女様が泊まられている宿屋に直行しました。酒場からはやや離れた位置にあるものの、所詮同じ街の中にあるのだから、あまり時間はかかりませんでした。せいぜい20分といったところです。
僕も酷い格好でしたから、一目見てすぐに退散しようと思っておりました。
宿屋は二階建ての木造。ここの主は先程の酒場で酔いつぶれていましたので、ポケットから鍵を拝借。
聖女様のお部屋は1階の角部屋。部屋番号は1。もちろん全て事前に調査済み。
さぁいざ行かん!と鍵を手にした時、確かに聞こえたのです。
聖女様の、すすり泣く声が。
僕はすぐに周囲を見渡し、聖女様を探しました。宿の中から聞こえた声ではない。なら聖女様はどこにいるのか?
時折聞こえる泣き声に全神経を集中させ、居場所を探っていきました。四つん這いになり、さぞかし不格好な姿に見えることだろう。でも関係ない。
この先に、この先に僕が求めたミスズがいる!!!
高ぶる気持ちを抑え、宿の後ろにある草むらの中に突っ込んで行きました。
木々をかき分け、枝を踏み、足から血が流れても、痛みなど感じなかった。僕が求めているのはミスズ、ただ1人だけ。
やっとの思いで森を抜けた先に、小さな湖がありました。
朝焼けに照らされ、桃と橙の光を反射する湖面。緩やかに波打つ水面の中心に、聖女様がいらっしゃいました。
彼女は呆然と僕を見、言いました。
「な、んで…。」
カラカラに乾いた声が、天使の歌声のように聞こえました。
ああ、ああ…!なんと美しいことか!!!
涙にぐっしょりと濡れた瞳。泣き腫らし赤くなった目尻。どこまでも吸い込まれそうな暗闇を宿す眼差し。震え、乾いた唇。
水に濡れた髪が、痩けた頬にぺたりと貼り付いていた。全身水に浸かったのか、彼女の体はずぶ濡れでした。身にまとったワンピースが体のラインを際立たせ、胸の膨らみを蠱惑的に引きつける。
傷つき、怯え、触れれば壊れてしまうガラス如き淡い煌めき!
僕が望んだ通りの彼女が、目の前にいたのです。
完璧の仮面は粉々に砕け散っていました。不完全を体現した美しい少女だけが、朝焼けに照らされています。
僕はあまりの感動に、気づいたら涙を流していました。
同然です。目の前には本物の女神がいるのですから。
涙を流し、ボロボロになった手足を叱咤して、僕は彼女に歩み寄りました。
二日酔いのせいで真っ直ぐに歩けず、年老いた老人のごとく覚束無い足取りはさぞ滑稽に見えたことでしょう。
しかし彼女は笑うことなく、虚ろな目で僕を見つめてくれたのです!
湖は思っていたよりもぬるく、深さもそれほどなかったため、簡単に彼女の傍に立つことができました。
近くで見て、初めて気づきました。彼女が着ていた白いワンピースが、へそから下にかけて切り裂かれていたのです。
よくよく目を凝らしてみれば、他にも不審な点がありました。水面に、血と水が混ざりあったまだら状の模様が浮かんでいたのです。出血の元を視線で追うと、自然と彼女の秘部へと辿り着きました。下着もつけておらず、顕になったそこから煙のように血が流れています。
加えて、鎖骨あたりにつけられた赤い斑点と噛み跡。
彼女自身から仄かににおう、彼女とは違うにんげんの匂い。
ソウイウコトをした、におい。
…なんたるッ!なんなることかッ!!!
この僕の預かり知らぬところでッ!彼女の純潔は破かれ!彼女本来の美しさが露呈してしまった!!
ありえない…ありえないありえないありえない!あってはならない!彼女の初めては僕が奪うべきものだ!彼女の虚ろな目に映るのは僕でなければならないのに!!!
僕以外の男に、手折られてしまうだなんて。
…。
彼女の純潔を奪った男は、簡単に予想がつきました。
僕らパーティーが泊まる予定だった宿には、僕ら以外の宿泊客はいなかった。
加えて、僕と魔法使いは酒場で酔いつぶれていたし、それは宿屋の主人も同じ。
となれば、残る人物は1人。
…薄汚ねェ小僧が!!!僕の、僕だけのミスズを奪いやがった!!
腸が煮えくり返る、なんて生易しいものじゃない。体内にマグマが巡るような激しい怒りに焼かれ、僕は勇者を殺しに行こうとした。
しかしそれを止めたのは、他でもない彼女だった。
「誰にも言わないでって、シルキーに頼まれたの。」
雀の泣くようなか細い声で、震える指先で、彼女は僕の裾を掴んだ。
シルキーとは、数日前に勇者が道端で拾ったエルフの奴隷でした。彼女に口止めをされた。たったそれだけで、己の苦痛を飲み込み、泣き寝入りするつもりなのか。
───なんと、なんとなんと美しいッ!
純潔とと共に仮面を砕かれた彼女は、僕の理想通りの姿だった。
虚ろな瞳でどこともつかぬ虚空を見つめる。儚く、弱々しい雰囲気を纏い、細い指先で僕を縫い止める。あの汚物の臭いの奥には、彼女本来の馨しい香りが隠されていた。大きく息を吸い込めば、甘く、さっぱりとした香りが鼻腔をくすぐった。朝露を乗せた風が彼女の頬を撫で、髪をさらう。絹の糸を編んだ黒髪がさらりと流れ、僕の頬に触れる。この上なく柔らかい、上質な感触。
気づけば、僕はミスズを抱きしめていた。
ああ、細い。僕が力を込めれば、容易く折れてしまう体。
勇者に汚された体を、ここで必死に清めていたのだろう。落ちない汚れを何度も、何度も洗い落とそうとしたのだろう。その証拠に、彼女の手首にはいく筋もの切り傷が付けられていた。股から流れる血は、勇者の粗末な物が貫通したからだけではない。自分でも擦って、洗って、汚れを水に乗せて落とそうとしたのだ。
全てをなかったことにするために。
なんてことだ。僕は勇者に怒っていたはずなのに、いつの間にか怒りの炎は消えていた。僕はただ、感謝するべきだったのだ。他ならぬ彼が、彼女の完璧の仮面を砕いてくれたのだから。
僕はミスズから体を離し、湖の中で片膝をついた。虚ろな瞳を覗き込み、細い両手を握り込む。
手の甲にそっとキスを落とし、肌に乗る雫をひとつ舐めとる。彼女はピクリとも動かず、されるがままになっている。
「もし君があいつを殺したくなったら、いつでも僕に合図して。僕だけは、絶対に君の味方だ。」
あの日僕は、朝焼けの湖の中で誓った。
ミスズからすれば一方的な誓いだっただろう。もしかすると、僕を気味悪く感じたかもしれない。
それでもいい。結果として、彼女は僕に合図をくれたのだ。
勇者がなぜ事に及んだのか。以前から彼女に好意があったのか、酒の勢いかは知りませんが、今となってはどうでも良いことです。
あの時、あの一瞬だけ、僕は仮面が剥がれた素の彼女を見ることができた。それだけで十分。
あなたはミスズが自殺した理由を調べているのでしょう?僕が今話したことで、ある程度納得がいったのではないでしょうか。
女にとって、これほどの不幸はないことでしょう。貞操の喪失。我々男にとって決して理解の及ばない苦痛です。
ともあれ、自ら命を絶ったことで、彼女は苦痛から救われました。結果として彼女がこの世からいなくなってしまったことは残念ですが、悔いなどありません。なぜなら僕たちは、天界でもう一度結ばれるのです。
…僕が持っているもの、気になりますか?
これは昨日、王宮の中庭から拝借してきました。…ご明察恐れ入ります。ええ、ミスズの遺骨です。
私は彼女とともに、今世に幕を下ろします。
後悔も、生への未練などこれっぽちもない。僕は醜い下界の民に別れを告げ、ミスズの御座す天界へと導かれるのです。他でもない、ミスズと共にね。
僕の幸せはミスズとともに。ミスズがいるのであれば、他に何も要りません。
それでは、名も無き訪問者さん。どうぞご達者で。くれぐれも、僕の邪魔をしようなどと考えないでくださいね。
では、さようなら。