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資料室の片付けをなんとか2人で終え、俺はさっきまでやっていた書類仕事に戻った。
ただ、片付けをしていた分があるので、甘野さんが手伝ってくれている。
「鬼塚、ここ違うよ」
「あ、はい……」
他の同僚が帰った後なので、隣の天宮のデスクに甘野さんが座っている。
そのため、時々俺の画面を覗いては、間違いを訂正される。
隣に居られると、なんだか緊張して集中できない。甘野さんは部長だから、普段は俺と離れたデスク。隣に甘野さんがいるのは新鮮だ。
「私が頼んだから、残らせたね。ごめん」
俺が資料の打ち込みをしているとき、甘野さんがしゅんとした顔をした。
「いえ……残業なのは元からだと思いますし……」
これは甘野さんへのフォローが半分、もう半分は事実だ。
「後は私がやっておくから、鬼塚は帰りなよ」
それでも、顔が落ち込んだままの甘野さんがそう提案してくれた。
もちろん残業は嫌だし、やりたくないけど。
「最後までやりますよ。元々俺の仕事ですし、あと俺……家が会社から徒歩圏内なので残業し放題ですしね」
元々俺の仕事なのに、甘野さんにやってもらうのは申し訳ない。
それに、甘野さんが横に居るのなら、心強いし。
「ふっ……し放題って……ありがとう」
甘野さんの笑顔が、戻ってきた。
「……私の顔に何か付いてる?」
「っいえ、別に……」
慌てて自分のパソコン画面に目を向け、キーボードを打つ。
驚いた。俺に、あんな顔するんだ。
「やる気出すの遅いって……」
隣で、また優しく微笑む甘野さんは、残念ながらやる気を出した俺には見えなかった。
「終わった~……!」
甘野さんの協力もあって、割と早く終わらせることができた。
各々帰宅の準備をし、パソコンをシャットダウン。
「甘野さん、ありがとうございました!」
「こっちこそ、手伝ってくれてありがとう……その、片付けの件、男手が欲しいのもあったんだけど、薄暗いから怖くて……」
後半、少し照れながら甘野さんが言った。
だから、あの時俺が1人で戻るのを止めたんだな。
不覚にも、意外と可愛いところあるんじゃん、と思ってしまった。
「帰りましょうか」
「うん」
部屋の電気を消し、戸締まりをしっかりして会社を出た。
日が落ちてくると、少し肌寒い。特に、風が強い今日は。
甘野さんの瞳と同じ栗色の髪が、いつの間にかハッキリと見えていた月明かりに照らされている。
「月、綺麗だね」
空に浮かぶ丸い月を見て、甘野さんが独り言のように呟いた。
「……そうですね」
どういう意味か分からないまま、つまらない返しをした。
自宅は通り過ぎたが、暗くて危ないので駅まで甘野さんを送った。本当は家まで送ったほうが良いのだが、それは断られた。
甘野さんは、家が遠いそうだ。そこまで行っていると時間が掛かるらしい。
それでも、女性を夜に1人で歩かせるなんて危ないことはできない。でも、送ると何回言っても、甘野さんは「大丈夫」の一点張り。拉致があかないと、俺が先に折れた。
「気をつけてくださいね」
駅のホームで、電車に向かう甘野さんに一言。
「今日はありがとう」
また、優しい笑顔を俺に向けた。
でも、ありがとう、はこちらこそだ。
残業を手伝ってくれたのもそうだけど、今日で知らない甘野さんをたくさん知った。
暗いところが苦手で、結構優しくて、謙虚で、律儀。そして、ちゃんと鬼上司。
あんなに、優しくて暖かい顔をするんだなぁ。
そして、それを俺にも見せてくれるんだな。驚きと、嬉しさと、むずがゆさ。まだ消えずに心に残っている。
「明日は残業にならないように頑張ろ……」
ちょっと遅めのやる気が出てきた俺は、1人そう呟いて駅とは逆方向に進んだ。
なぜだか、少しだけ体が軽いような。そんな気がした。
自宅に着いて少しリラックスしていた時、ふと気が付いた。
甘野さんとは、仕事用の連絡先しか交換しておらず、無事に着いたか確認ができない。業務用のメールで聞くのも違うけど、やっぱり夜に女性1人で歩かせてしまったのだから、不安はある。
やっぱりちゃんと家まで送れば良かったなんて思っても、もう遅い。
数分間、メールを送ろうかと甘野さんとのメール画面を開いて迷っていた。前のやり取りは、甘野さんからのミーティングの連絡など。たまに、メールで1度、顔を合わせて1度、ミスを怒られたり。
「でもなぁ」
散々悩んだ結果、甘野さんなら、何とかなってるだろなんて無責任な結論に至ってしまった。
ベッドに入って、まだ落ち着けなかったタイミングで、ベッド横のサイドテーブルに置いていたスマホから音が鳴った。
「もしもし……」
「あ、鬼塚。仕事用でごめんだけど、一応。ちゃんと家着いたよ。ありがとう」
甘野さんだった。
電話だと、ちょっと声高い。
「なら良かったです。わざわざありがとうございます」
仕事で疲れてるだろうに、電話をしてくれて。まぁ、助かったけど。
「ううん。何度も言ってるけど、ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
甘野さんにそう返して、電話を切った。
鬼上司と夜におやすみを言い合うなんて、昼間の俺じゃ想像できなかっただろう。
俺は、安心して布団を被った。