プロローグ
新作になります!
オフィスラブを書くのは初めてなので、今回も突っ込みどころが多いと思います。
読者様の間で、何か気になることなどございましたら優しくご指摘ください。
「鬼塚」
俺は、この人にもう何回とこの名前を呼ばれている。それも、不満を感じさせる低い声で。
「……はい」
覚悟を決めて、冷たい空気に胸がヒリヒリしている同僚に見守られつつ、俺はその人の前に立つ。
大きく開いた栗色の瞳が、俺に威嚇するようにして睨み付ける。もう、この光景にも慣れてきてしまった。いや、慣れてはいけないものなのだが。
上目遣いは、こんなに怖いものだったっけ? と、俺に思わせるほど、彼女からの視線は冷たく、鋭いものだった。
「この企画書、やり直し。前言ったところ、全然直ってない」
用件を手短に話し、俺からふいっと目を逸らした。彼女の視線はデスクに戻る。
手渡しで俺の手にやってきたのは、もう何回も見たであろう企画書。
「すみません……」
精一杯の謝罪を残して、俺は重い足取りで自分の椅子に腰掛けた。
「栞、あと1時間で定時だけど?」
同期に追い打ちをかけられ、書類を打ち込む手が止まる。そして、また怒られる。
鬼塚栞、入社2年目。俺には鬼上司がいる。
「甘野部長、この間の件ですが……」
「あぁ、あの案凄く良かったよ。採用の可能性が高いから、気になるところがあればどんどん改善していきましょうね」
「はいっ」
その鬼上司に話しかけた同僚にさりげなく注目する。
鋭い視線、恐ろしく低い声のトーン、そんなものを全くもって感じさせない今の彼女は、別人だと思いたい。
俺には一生向けられることのない、暖かい笑顔の持ち主は、甘野優輝さん。企業部部長で、入社したてだった俺の教育係。入社から年月が経った今も、現在進行形で教育係である。
「さらば、俺の定時帰り……」
「お先に失礼しまぁ~す」
俺から漏れた心の声を華麗にスルーした薄情者、もしくは同僚達は、賑やかに飲みに行った。
即座に返却された企画書とパソコンと俺の睨めっこは終わらない。
「はぁ……今日も残業か。」
誰に宛てたものでもない俺のため息と悲しい独り言は、静まりかえったオフィスで余計に大きく聞こえた。
不幸中の幸い、家が徒歩圏内にあるため終電などという言い訳は通用せず。同僚達からは残業し放題だな、なんて言われてしまっている。遠い場所への引っ越しを検討したい。
入社して2年、甘野さんとの付き合いも2年。未だに分からないことだらけだ。
甘野さんは、「俺にだけ」鬼上司だ。
決して、自意識過剰ではない。同僚達からも言われているから。それがどうしてかは、分からないのだけれど、俺が悪い意味で特別視されているということだろう。
まぁ、甘野さんにしごかれて、ここ企業部の営業成績は上がっているけど……。
もう少し、優しく指摘していただきたいというのが俺の我儘。
他の社員に向けられているあの天使のような笑顔は、どこからくるのだろう。
甘野さんの態度に疑問を抱きつつも、何とか終わらせた企画書。
「やっと帰れる……」
また甘野さんにチェックしてもらって、またしごかれよう。そう覚悟を決めた。
スマホのメールを確認すると、何件か通知が来ていた。
飲みに行った同僚達の飲み会、ご丁寧に飲み屋の場所のリンクまで送られている。今から行ってもまだ間に合うだろうけど、行ったところで俺はどうせ酔っ払い達の世話係になるだけなので遠慮しておく。
「程々にしろよ、と……」
俺は顔を真っ赤にしてだる絡みをする姿を容易に想像できる同僚に忠告のメッセージを送ってやった。
あいつら、酒癖悪い癖に結構ペース速いからな……。毎度、べろべろになった良い大人達を送らせられる俺の身にもなってほしい。
「帰ろ……」
早く帰ってネクタイ外して、靴下を脱ぎたい。
徒歩10分ほどの短い帰り道が、異様に長く感じた。
今年の目標の1つに定時帰りを掲げたが、達成できる気は全くしない。
「甘野さんのいない世界へ行きたい……」
俺の願望は、顔を押し付けた枕に吸い込まれていった。