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ソフィアは嘘が嫌いだ。
父からエリックの呪いについて明かされ、それまでの会話の流れを思い返せば、エリックが根っからの嘘つきであることは明白だった。
それでも、ソフィアはエリックを受け入れた。
ソフィアが最も恐れているのは、口先だけで愛を囁かれて心を傾けてしまった相手に、心の中では裏切られることだから。
ソフィアは辺境伯家長女。これまで一度も婚約の話がなかったわけがない。
十年ほど前、婚約に至る直前で白紙になった相手がいた。辺境伯領と隣接する小さな領地を持つ子爵家の三男だ。ソフィアの二つ歳上で、名前はダリオ。しょっちゅうソフィアのもとを訪ねて来ては一緒に遊ぶ、幼なじみの関係だった。
二人の仲は良好で、ソフィアが八歳、ダリオが十歳になる頃には婚約が検討されるようになった。この国の貴族が婚約する年齢としては一般的だ。
ダリオは利発な少年で、フロスト家に婿入りし、いずれ辺境伯となる予定だった。この国では血筋に関わらず、男性が当主となることが一般的だからだ。
そんな矢先にソフィアの母が身篭り、双子の男子を産んだ。祝福ムードも束の間、産後の肥立ちが悪く、母は日に日に衰弱していった。
「きっとすぐに良くなるさ。だからソフィアは、笑顔でいて。そして双子の世話を手伝ってくれないか」
そんな父の言葉を、ソフィアは信じた。
母がゆっくり体を休められるようにと積極的に部屋を訪ねることもせず、一生懸命双子の面倒を見た。
しかしその結果、別れの覚悟も決められぬままに母を亡くした。
父はきっと、ソフィアには母の前では最後まで笑顔でいて欲しいと願ったのだろうし、父自身も母の命が長くないことを認められないという思いがあったのだろう。
しかし正直に母の容態について伝えられてきたならば、母との最後の時間をもっと大切に過ごせたはずだった。
悲しみに暮れる父に恨み言のひとつも言えず、やり場のない感情を抱えたままのソフィアに寄り添ってくれたのが、ダリオだった。
母の死後すぐに駆けつけ、ソフィアのそばにいてくれた。かけるべき言葉が見つからないのか、彼は何も言わなかったけれど、ソフィアを想って来てくれたことが、その気持ちが嬉しかった。
その後のソフィアに出来たことといえば、ただ残された双子の赤ん坊の世話をすることだけだった。母がわりに毎日忙しく子守りをしているうちに、母の喪が明けていた。
そうとなれば、ダリオと正式に婚約してもいいタイミングだ。けれどダリオは、いつの間にかフロスト家を訪れることはなくなっていた。
そんな折に父から聞かされたのは、ダリオとの婚約白紙だった。これはダリオの意向でもある、と。
とても信じられなかった。
だからソフィアは、すぐにダリオを訪ねたのだ。しかしダリオの口から語られたのは、予想外の言葉だった。
「ソフィアと結婚しても辺境伯家を継げないなら意味がない。俺はずっとそのつもりだったのに、弟が生まれたからそっちに継がせるなんて、騙されたようなものじゃないか」
そう言われてはじめて気が付いた。ダリオは次期辺境伯当主の座を手に入れるために、ソフィアに近付いていたのだと。
幼い頃から仲良くしていたのも、優しくしてくれたのも、全てそのためだったのだ。
父は二人が正式な婚約を結ぶ前に、ダリオとその家族に跡継ぎの変更について打ち明けたのだろう。
一連の出来事でソフィアはとても傷付いた。そしていつか結婚するのならば、表面上だけの付き合いではなく、本音を言い合える相手がいい、と思うに至った。
月日は流れ、十五歳でデビュタントを迎えたソフィアは、はじめて王都でのパーティーに出向いた。けれど煌びやかな社交界が如何に嘘にまみれているか、ほんのわずかな時間で嫌というほど知ってしまい、これまで社交を避け続けてきた。
跡継ぎ問題でソフィアを振り回したと反省している父も何も言わなかったし、そのままずるずると十八歳になろうとしていた。
そんな時に降って湧いた、エリックとの婚約である。
驚いたのはそれだけではない。今頃になって父はソフィアの婿となるエリックに、辺境伯家当主を任せたいと言い出したのだ。もちろん王家からの圧力があってのことだろうが、父自身も双子に家を継がせることは諦めたらしい。
双子の弟たちは今年十歳となるが、脳筋なのだ。勉強から逃げ回り剣を振るうばかりで、二人揃って将来は辺境騎士団に入団する、の一点張りだった。
双子が生まれて以降、随分と振り回され続けたソフィアだが、父の言葉には従うしかない。貴族の家に生まれたからには仕方がないことだと理解する程度には、きちんと教育を受けている。
それに奇しくもエリックは、ある意味ソフィアの理想の相手と言える。嘘がつけない彼の言葉は、全面的に信頼出来る。
今は互いに突然のことで戸惑いが大きいけれど、言葉を重ねて時間をかけて、エリックとわかり合えていけたら……と、ソフィアは思う。
────けれど。
エリックは何も喋らなくなった。
理由などわかり切っている。話をしなければ呪いが発動しないからだろう。
しかしそれでは、理解し合うなんて不可能だ。
療養名目ではあるが、エリックは健康そのものであり、領地経営についての勉強も、ここでの暮らしに慣れてから……ということで始まっていない。
要するにエリックは暇人。ソフィアは遠慮なく構い倒すことにした。
「エリック様。一緒にお茶でもいかがですか?」
そう声をかければ、エリックは柔らかく微笑み頷く。
口こそきかないが、エリックの態度は決して悪くない。はじめて会った時だって、本音はどうあれ、ソフィアと良好な関係を築こうとしていた。
「エリック様、良ければ私に領地を案内させてくれませんか?」
「……」
「実は、お恥ずかしながら私の趣味は乗馬なんですが、ご一緒にどうでしょうか」
「……」
「エリック様は釣りの経験はありますか? フロスト城の近くにとってもよく釣れる川がありますよ。私、釣りの腕には自信があるので、夕食のメインになる立派な魚を釣ってみせましょうか」
「……」
どんなに話しかけても、エリックは微笑みを顔に貼り付けたまま、頷くだけ。
それならばと、ソフィアは思い切って全て実行することにした。
手始めに、釣りを。
エリックは本当に釣りへと連れ出されるとは思っていなかったようで、さすがに驚いた様子を見せた。
青空の下で並んで川岸に座り、水中に糸をたらすエリックの横顔を覗き見ると、退屈なのか憮然とした様子だ。とりあえず、笑顔の仮面は剥がすことに成功した。
水面が太陽の光を反射して眩しくて、ソフィアも顰め面になっていたかもしれない。
宣言通り大きな魚を釣って見せると、エリックは魚の跳ねる様子に腰が引けて、近付くこともして来なかった。双子をはじめて釣りに誘った時も同じだったな、とソフィアは微笑ましく思った。
次に馬での遠乗りに出かけた。
エリックが馬に乗ると、やたら様になる。見事に乗りこなしてみせるので、ソフィアも本気を出して思い切り草原を駆け抜けた。
しばらくして、気持ちいいですね、と声をかけようと振り返ったら、エリックは遙か後方だった。
慌ててエリックのもとへ戻り謝ったものの、ソフィアに追いつけなかったことを恥をかかされたと思ったのか、睨まれた。
しかし馬たちにより慣れ親しんでいるのは間違いなくソフィアなのだから、自分の方が早く走れて当然だと思う。意外と負けず嫌いなのは双子と同じで、弟が増えたような気持ちになった。
護衛を伴い、辺境伯領で最も栄える町も案内した。
とはいえ、王都の賑わいには遠く及ばない。国中の高級品も、流行最先端の品も揃う王都に住んでいたエリックには、面白いものは何もないかもしれない。それでも辺境伯を継ぐエリックには、領内のことを見て、知ってもらう必要があるので、そこは我慢してもらうしかない。
そんなソフィアの心配をよそに、エリックは意外にも、立ち並ぶ店のうちいくつかに興味を示したようで、立ち止まっては覗き込んでいた。
「何か気になるものがありましたか?」
尋ねると、たっぷりと逡巡した後、ようやくエリックは躊躇いがちに口を開く。
「…………これは、隣国の品物だろうか」
なんだか久しぶりにエリックの声を聞いた気がする、などと思いつつ、ソフィアは説明をする。
この町には一部の許可を得た商人が、たまに隣国から商品を売りに来たりする。エリックが目をつけたものは、きっとそれではないか、と。
辺境にわずかに入って来た隣国の品々は、王都にさえ出回っていないようだ。エリックの気を引くものをようやく見せることが出来て、ソフィアは満足した。
エリックの方も、呪いが発動しなかったことにほっとしているように見えた。ただ質問しただけなのだから当たり前なのだが、その日からエリックは少しずつではあるものの、話をするようになった。
ある時、エリックがふとソフィアに尋ねた。
「君は、社交を避けていたようだが、引っ込み思案な性格には見えない。理由を聞いても?」
「嘘が嫌いだからです」
即答するとエリックは顔を引き攣らせたが、ソフィアは包み隠さず全て話した。
デビュタントで仲良くなれたと思ったご令嬢たちに、田舎者だと馬鹿にするような陰口を言われていたこと。それを家庭教師に相談すると、社交界とはそういうものだと諭されてしまったこと。
「嘘だらけの社交界に身を置くのは、私にとっては苦痛でしかありません。双子の弟のうちのどちらかが辺境伯家を継ぐ予定だったので、父の許可を得て引きこもっていました。もちろん、貴族として政略結婚する覚悟もありました。でも、さすがに今の状況は想定外です」
そこでソフィアは、言葉を切った。
エリックの顔を正面から見つめる。
自分の思いが、まっすぐにエリックへと伝わるように、と。
「だから、エリック様。あなたを頼りにしています。この辺境に来てくださったこと、感謝しています」
エリックは、相変わらず何も言わない。それどころか、例の貼り付けたような笑みも消えていた。
散々あちこち連れ回して、話すようになったとはいえ全く本心を見せようとしない。そんなエリックを前に、ソフィアの口からはじめて弱気な言葉が出た。
「…………迷惑でしょうか」
「そんなはずがない。頼ってくれてありがとう。君のために、精一杯務めを果たすよ」
長年体に染み付いた習慣というのは恐ろしいもので、弱さを垣間見せた令嬢を前に黙ってはいられないエリックは、反射的にソフィアを励ます言葉をかけてしまった。
もちろん、思ってもいない嘘だ。
「──……。僕たちは、あまりに正反対だ。きっとうまくいかない」
呪いのせいで炙り出されたエリックの本音は、はっきりとソフィアを拒絶するものだった。