2章 吸血鬼の屋敷①
二章
目を覚ました夕花は、見知らぬ部屋にいることに気が付いた。
「ここは……」
寝かせられていた天蓋付きのベッドは、まるで物語に出てくるお姫様のベッドのようだ。
あまりにも広々したベッドの大きさは、それだけで夕花が寝起きしていた狭い使用人部屋と大差ないほど。柔らかなマットの上で、夕花はそうっと起き上がる。
部屋には誰もいない。状況が飲み込めず、夕花はとにかく周囲を観察した。
ここは何から何まで洋風の部屋だった。
猫足のテーブルにソファー、天井にはシャンデリアが輝いている。ベッドから降りると、床は深緋色の絨毯が敷き詰められていた。絨毯とはいえ厚みがあり、足裏を柔らかく受け止めてくれる。ここに寝転がっても、普段使っている布団より寝心地がいいかもしれない。
部屋に時計はなく、窓には分厚いカーテンが隙間なく閉められているせいで、まったく外が見えない。
どこもかしこも美しく整えられている。門外漢の夕花でも、見ただけで上質なものなのだと察しがつく。絨毯でさえ本当に踏んでしまっていいのかと、疑問になってしまうほどふかふかしているくらいなのだ。
おろおろしながら部屋の中を見て回る。二つある扉の片方は一畳ほどの納戸に繋がっており、もう片方は廊下に出た。
廊下には部屋と同じく絨毯が敷かれ、たくさんの扉が幾つも並んでいる。静まり返り、人の気配もしない。これを一つずつ確認しなければならないのだろうか。
ここはおそらく白夜の屋敷なのだろうが、夕花のことなど知らない人もいるだろう。こんな見窄らしい夕花では、屋敷に忍び込んだ泥棒と思われてしまうかもしれない。そんなことを考えると胸がきゅうっとし、不安に苛まれる。
そんな時だった。不意に扉が開く音がして、肩を震わせた。
「あれ、夕花様。起きましたか」
てくてくと近寄ってきたのは、白夜が亘理と呼んでいた少年だった。
「おはようございます。気分はどうです? お腹は空いていませんか」
「えっと、あの……」
聞きたいことは山ほどある。彼もまた吸血鬼なのだろう。蝙蝠姿から人間になるという異能を目の当たりにしたのだから。
しかし、多すぎて何から聞けばいいのやら。亘理もそれを察してくれたのか、ニコッと微笑む。
「あ、僕は亘理と申します。立ち話もなんなので、こちらにどうぞ。とりあえず喉を潤しましょう」
亘理は夕花の手を掴み、てくてく歩き出す。口調はしっかりしているが、身長からして十歳程度だろうか。手足が細いので、もう少し幼いかもしれない。
立ち話もなんなのでと言ったわりに、亘理はペラペラと話しかけてくる。
「着物、苦しくなかったですか? 眠っていたので、帯とか緩めた方がいいんじゃないかと思ったんですが、女性の着物を勝手にいじるわけにはいかないでしょう」
「え、あれ……?」
今更気が付いたが、あの白無垢ではなく、神楽家で着せられた着物のままだった。
「ああ、あの白無垢はご主人が異能で見せた幻影みたいなものですよ」
亘理は察して話を繋いでくれた。頭の回転もよく、とても親切な少年なのだと少し話しただけでわかった。
「あの花嫁衣装が幻影? 手触りまで本物みたいだったのに。すごいのね」
手触りどころか衣擦れすらも、普段着ているものとは異なっていた。
幻羽族が出す幻羽は触っても何の感触もない。同じ幻影といっても大違いのようだ。
「そうでしょう! ご主人は普段あまり異能は使いませんが、本当は色んなことが出来るし、すごい人なんです!」
着きましたよ、と亘理は突き当たりの扉を開けた。
その部屋も当然ながら洋風だった。おそらく居間なのだろう。さっきいた部屋より大きなソファやテーブルなどの家具が複数置かれているが、まったく狭く感じないほど広々としている。
窓には暗い色のカーテンがかけられ、さっきの部屋同様、外は見えない。
時計は十二時近くを指し示していた。
「わ、私、六時間以上寝てしまったんですか」
夕花は時計の時刻と、閉められたカーテンから深夜なのだと考えた。
「いえ、六時間じゃないです。今はお昼の十二時ですから」
その言葉を聞いて、夕花はもう一度倒れるかと思った。
「そ、そんなに……」
まさか、十八時間も寝てしまったとは。
「それだけお疲れだったということなんでしょう。顔色もよくなりましたね。喉が乾いたでしょう。お茶を淹れるので座っていてください。あと、簡単に食べられるものを用意しますね」
亘理はニコニコしながらソファを指し示した。
夕花はおそるおそるソファに座る。座面が柔らかく、座り心地がいい。相当に高価なソファなのだろう。そう考えると、座るだけで汚してしまわないか不安になってしまう。
白夜は夕花を花嫁に迎えるため、何千万もの金額を父に渡していた。夕花を助けたいと言っていたが、そこまでしてもらえるようなことをしたわけではない。
白夜に聞きたいことは山ほどあるのだが、ここに彼の姿はなかった。
「お待たせしましたー。お茶とサンドイッチです。足りなかったら言ってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。これが僕の仕事です。それから、夕花様は僕に敬語を使わないでください。僕は月森家の使用人ですし、それに僕の方が年下ですから」
「あの……私、わからないことだらけで……私、どうしてここに……」
しどろもどろになった夕花を、亘理は妙に大人びた顔で制した。
「夕花様、僕に質問されても、使用人が答えられる範囲外はお話できないんです。それに諸々のことは後で白夜様が説明してくれると思います。なので、とりあえず今は何も考えずに食べてください。ね?」
そう言うと、またニコニコした顔に戻る。亘理は不思議な少年だった。しかし、亘理の言うことも納得で、夕花は頷く。
「はい……じゃあ、いただきます」
お茶とだけ亘理は言っていたから、夕花はつい馴染み深い緑茶を想像してしまったが、カップの中身は紅茶だった。愛菜に頼まれて紅茶を淹れたことは何度もあったけれど、飲むのは初めてだ。神楽家にあった紅茶よりずっと芳しい気がする。
一口飲んで目を丸くした。
飲む前から気付いていた強い香りが口いっぱいに広がり、鼻から抜けていく。嫌な苦味や渋みはなく、ただただ美味しい。そして、思っていたよりずっと喉が乾いていたらしい。あっという間に飲み干してしまった。
亘理は嬉しそうにお代わりを注いでくれる。
喉が潤うと空腹だったのを思い出し、夕花はサンドイッチを手に取った。パンは何度か食べたことがある。正しくは、愛菜のためにサンドイッチを作り、切り落としたパンの耳を食べたのだった。それだって、柔らかくて甘く、まるで菓子のようだと驚いていたのだが、サンドイッチは想像していたより遥かに美味しい。ふわふわのパンに、ハムとチーズ、それからレタスと思しき葉野菜が挟まれており、サックリとした軽い歯応えがする。
「美味しい……!」
夕花は夢中であっという間に平らげてしまった。
「よかった。お口に合ったみたいですね。お代わりを持ってきましょうか?」
しかしその質問には夕花は首を横に振った。
「いえ、これでもうお腹いっぱいよ」
「でも、昨晩から食べていなかったし、これだけじゃ全然足りないでしょう。遠慮しなくていいんですからね」
「本当にこれで充分なのよ。普段からこんなに食べないもの」
「うーん、夕花様が細い理由がわかった気がします。きっと胃が小さいんですね。また二、三時間したら軽くおやつでも食べましょう」
「お、おやつ……」
愛菜のためにおやつを用意したことはあっても、夕花がおやつを食べることはほぼない。
生活が一変したのを感じていた。