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1章「羽なし」と呼ばれた娘⑥

 夕花は風呂に入れられ、普段着ているより幾分マシな着物を着せられて自室に追いやられていた。


 玄関近くは後妻が、勝手口には早紀が陣取って夕花が逃げないか見張っている。外に出してもらえそうにない。もし本当に死んでしまうとしても、最後の挨拶くらいはしたかったのに。

 夕花は不意に閃いた。


「確か……他にも出入り口があったはずだわ」


 今は物置部屋になっている部屋に、大きな荷物の搬入搬出するための扉があるのを覚えていた。屋敷の裏手にある蔵に近く、大型の箪笥や、亡き母のピアノを売る時にも使われていたはずだ。


 そして使用人が早紀しかいないのも幸いした。そっと覗いてみたが、その部屋には誰もいない。もしかしたら愛菜がいるかもとドキドキしていたが、愛菜はこの部屋に扉があることを知らないのか、それとも埃っぽい部屋で見張りなどしたくないのか、とりあえず見張りはしていない様子だ。


 埃っぽい物置部屋で古道具を動かすと、記憶していた通りに出入り口が見つかった。ネジ式の鍵を開け、引き手に力を加えると、錆びた音を立てながら少しだけ開く。夕花が通れる程度だからほんの少しでいい。隙間に体を捩じ込ませ、外に出た。


 決して逃げるわけではない。ただ最後に挨拶をするだけ。夕方なら代書屋に行って戻ってくる時間がじゅうぶんにあるはずだ。九郎には会えるかわからないが、せめて登美にだけでも──そう思った時、思いがけないほど近くから声が聞こえた。


「──やあ、待ったかい?」


 夕花は声を上げそうになり、慌てて口を手で塞ぎ、物陰に隠れた。

 その声は夕花が会いたかった人物──九郎のものだった。


(どうして九郎くんが……?)


 ほんの一瞬、夕花を助けに来たのかと期待してしまったが、まさか夕花が吸血鬼に嫁ぐなど、九郎が知るはずがない。そして、誰かに親しげに呼びかけている。それを理解し、夕花の胸の中が冷えていくのを感じていた。


「んもー遅いよぉ」


 そしてそれに応じた媚びたような声色は、愛菜のものに間違いない。


 どうして二人が。夕花はそう思ったが、考えてみれば、九郎は母親がこの屋敷で働いていたから、ちょくちょく訪れていたのだ。ということは、愛菜もまた九郎に面識があるのは当然の話である。


 夕花は激しいショックを受けながらも、見つからないように声の方を伺った。


 屋敷の裏手にはもう何年も使われていない蔵がある。その蔵の陰に二人の姿があった。


 それがどういう意味か理解し、心臓がドッドッドと激しい音を立てる。


 近くの塀がV字に壊れている。身軽な九郎であれば、あの壊れた部分を乗り越えて敷地内に入れるのだろう。

 二人はクスクスと笑いながら抱き合っている。


「ねえ、何か変な音しなかった?」


 愛菜はそう言う。今しがた夕花が扉を開けた音が聞こえたのかもしれない。


「俺が塀を乗り越えた音じゃないのか?」

「だといいけど。父様だったらどうしようかと思っちゃった。こんなことしてるって知ったら、きっとひっくり返っちゃうわ」


 夕花は口元を押さえたまま、二人が話すのを聞いていた。

 愛菜はすぐに物音のことはどうでもよくなったようで、話を変えた。


「あ、そうだ九郎。姉さんが結婚するのよ。それも今日」

「ええっ、初耳だよ!」

「急に決まったんですって」

「ショックだなあ……」


 夕花は己の話題が出たことで、つい聞き耳を立てる。はしたない行為だとわかっていたが、立ち去ることはできなかった。


「なによ九郎ったら、まさか姉さんのことが好きなのかしらぁ?」


 愛菜は不満げに口を尖らせる。九郎はククッとくぐもった声で笑った。


「そんなわけないだろ。あんな陰気な娘に興味ないよ。幼馴染だから特別に優しくしてやってただけさ」


 吐き捨てるような言い方は、本当にあの九郎なのだろうか。

 つい先日の優しい笑みや泣きそうな顔、そして夕花の手を握って感謝してくれた、あの九郎だと思えない。しかし紛れもなく九郎の唇が言葉を紡いでいた。


「俺が好きなのは、可愛くて小悪魔な愛菜だけだよ」


 ふふっと愛菜は勝ち誇ったように笑う。それと裏腹に、夕花の心は完全に凍てついていた。


「まあ、そうだよねえ。姉さん、地味で暗いし、なんか小汚い着物しか持ってないんだもん。そもそも神楽家に生まれたくせに羽なしとか、ただの役立たずだしね」

「あー、でも、困った。遊ぶ金がなくなると、夕花にもらってたのに、当てがなくなっちまう。あ、もらってないや、借りてるんだっけ。まあ、返す予定なんて、最初からなかったけどさ」


 九郎は悪びれずケラケラと笑う。愛菜もキャハハと甲高い声で笑い、二人の声が不協和音になって夕花は頭がくらくらするのを感じた。


 夕花は声を出さないよう、しっかりと己の口を押さえる手が震えるのを止められない。それでも押さえていてよかった。少しでも気を抜いたら声を上げて泣いてしまいそうだったのだ。


「うちの親もケチでさ、お小遣いが少ないから嫌になっちゃう。あ、でもあの人のおかげで借金がなくなるって言ってたし、これからはもっともらえるかも。あんな姉でも少しは役に立つのね。でも、九郎もお金は自分でなんとかしてよ。奢ってくれなきゃ嫌なんだから」

「もちろん、わかってるって。上山手って、暇なオバサンが結構いてさ、俺みたいな可哀想な男の子が母さんが病気で……って言うとコロッと騙されて、小遣いをくれるんだ。俺の母ちゃん、遠くの町の飲み屋で働いてピンピンしてるってのにさ!」

「あはは、何が可哀想な男の子よ。悪い男ね」

「お前もだろ。この不良娘」


 クスクス、クスクスと抱き合いながら、笑っている。


 夕花と違い、何もかもを持っている愛菜。夕花への優しさは全て嘘だった九郎。


 楽しそうな二人と裏腹に、夕花は埃まみれで立ち聞きするしかない。それがなおさら惨めだった。


「ねえ、九郎。あれやってよ。キャラメル食べたぁい」

「愛菜はこれが好きだよな」


 九郎は角の潰れたキャラメルの箱から一粒取り出し、自分の口に咥える。そのまま愛菜を抱き寄せ、唇を合わせた。


「んふふ、甘ぁい」


 その言葉に、キャラメルを口移ししたのだと夕花は気付いた。同時にあの日食べたキャラメルの甘さを思い出し、ぐうっと吐き気が込み上げる。


 夕花は物音が立つのも気にせず、扉を閉めることも忘れて自室に戻った。


 胃がぐるぐるとして気持ち悪い。

 夕花は畳に横たわり、丸くなって吐き気を堪えていた。

 泣くつもりはなかったのに、次から次へと涙が出てしまう。気持ち悪さのせいだけではない。ずっと耐えていた悲しさ、悔しさが涙となり、夕花の目から溢れていった。




 どれくらい経ったのだろう。


「……夕花、おい、夕花!」


 父が慌てたように呼ぶ声で、夕花は我に返った。


「は、はい……」


 慌てて涙の滲む目を袖で拭う。


「逃げていなかったようだな。迎えが来た」


 泣いているうちに夕方になってしまったのだ。

 夕花は父に背を強く押され、転がるように玄関から押し出された。


 屋敷から出ると、愛菜がポカンと口を開けて呆けていた。後妻や、その後ろに控える早紀も同様である。


 吸血鬼とは、どんな恐ろしい姿なのだろう。

 夕花はおそるおそる前を向く。


 開け放たれた門の前に、バサバサと音を立てて、一匹の蝙蝠が円を描くように飛んでいた。


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