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1章「羽なし」と呼ばれた娘②

 朝の家事を終えた後、学校に通う代わりに夕花は仕事に向かう。


 羽なしの夕花が上山手区で働けば、変な噂になって神楽家に迷惑がかかると言われ、徒歩で隣の区まで毎日通っていた。


 屋敷からコソコソしながら出る。道を歩けば、通りすがりの人が夕花を見て眉を顰めるのがわかった。貧しい服装の夕花は、高級住宅街である上山手区に相応しくないからだろう。夕花は身を縮こめて、早足で歩き出した。


 橋門に差し掛かると、警杖を持った衛士が夕花をジロッと睨む。毎度のことながら、夕花は緊張して門を通り抜けた。

 出入りするための許可証は特にないが、怪しい風体だと門前で止められてしまう。夕花もかつて止められたことがあった。神楽家の名前を出したら通してもらえたのだが、その晩に父からひどく叩かれてしまったのだ。なんでも家に恥をかかせたからだそうだ。それ以来、橋門を通るのが恐ろしい。今日も止められなかったことを安堵した。


 門を抜けて隣接する中泉寿区に入り、ようやく夕花はホッと息を吐く。橋門の付近は広大な霊園になっていて人気が少ない。そこからさらに歩き、賑やかな町に入った。


 綾地町という看板がある。ここはいわゆる下町の中心部だった。綾地町に住む人々は幻羽を持っていない、ごく普通の人々である。


 まだ午前中にもかかわらず、町はガヤガヤと賑やかだ。さほど広くない道を人々が行き交い、活気に溢れている。


 これだけの人間がいて、夕花が羽なしであることは誰も知らない。夕花はここにいる時だけが安心できる時間だった。

 夕花は神楽家から出て、いつかはこの町で暮らしたいと考えている。それには金銭的に先立つものがないため、すぐには難しいだろう。

 だとしても夕花にとって、それだけが希望の光だった。


「おや、夕花ちゃん!」


 歩いている夕花を呼び止めたのは、馴染みの饅頭屋のおかみさんだった。丸々した顔に優しい笑みを浮かべている。


「おはようございます」

「おはよう。ねえ、顔色悪いんじゃない。夕花ちゃんは元々色が白いけど、今日は特に真っ白だよ。ちゃんとご飯食べてるの? ほら、うちのでよければ一個あげるよ。蒸したてだからさ」


 差し出したのは湯気が立つ饅頭だった。茶色い皮が艶々している。


「あ、ありがとうございます。お金、払いますから」


 夕花は慌てて薄っぺらい財布を取り出したが、饅頭屋のおかみに止められた。


「いいっての。熱々だから今ここで食べておいきよ。アンタみたいな別嬪がうちの饅頭を美味しそうに食べるってのが、一番いい宣伝になるんだからさ」

「おかみさんってば、お世辞が上手いんだから。じゃあ、ありがたくいただきますね」


 夕花はお言葉に甘えて、その場で饅頭を口にする。かじかんだ手には熱いくらいの饅頭だった。むっちりと弾力があり、甘さ控えめのこし餡はなめらかで、毎日食べても飽きない味である。冷え切っていた体に温もりが生まれる。 


「おかみさん、ごちそうさま」

「どういたしまして。うん、ちょっと顔色がマシになったかね。登美の分も包んだから、持っていって」

「はい。いつもありがとうございます」

「こっちはちゃんと登美から代金もらってるんだから、気にしないの」


 そう話をしている間にも、周囲の人が足を止める。湯気の立つ饅頭を覗き込み、美味しそうに見つめていた。


「ほら、夕花ちゃんのおかげでお客さんが集まってきたよ」

「そんな、おかみさんのお饅頭が美味しいからですよ」

「美味そうな饅頭だね、一つ貰おうか」

「こっちは五個、包んでくれるかい?」

「はいはい、ありがとうございます!」


 忙しそうに動き出すおかみさんに頭を下げて、まだ温かい包みを抱えて夕花は歩き出す。


 チラホラ降っていた雪はいつのまにか止んでいた。




「登美さん、おはようございます」


 夕花は代書屋と書かれた引き戸をガラッと開け、そう声をかけた。一階は代書屋、二階は店主である登美の住まいになっている小さな一軒家である。


 玄関を上がってすぐの座敷には文机が二つ並んでおり、一方には女性が座して紙を広げていた。


「ああ、おはようさん」


 店主の登美は夕花の方を見ず、文机の紙に視線を落としたままそう言った。


 登美の詳しい身の上は聞いていないが、未亡人だそうで、この代書屋に一人で住んでいる。おそらく三十過ぎくらいの年齢だろう。着物には襷をかけ、背筋はシャンと伸ばしている。一筋も乱れがなく髪を結い上げているところに、きっちりとした彼女の性格が現れていた。

 まだ早い刻限だがもう仕事を始めているようだ。


「お饅頭屋さんのおかみさんから受け取ってきましたよ」


 甘いものに目がなく、毎日饅頭を朝食代わりにしている登美に、預かった包みを渡そうとすると、登美はようやく顔を上げて渋い顔をした。


「あ、忘れていたよ。アタシはこれを仕上げたら外に出る用事があってね。悪いけど、その饅頭は夕花が食べてくれるかい?」

「え、ええ、それは構いませんが」

「それじゃあ、さっさと今日の仕事に取り掛かっておくれ。また朝からたくさん仕事が来ていてねえ。ありがたいことだが、これじゃ手がいくらあっても足りないよ」

「はい!」


 夕花の仕事は代筆である。登美にお世話になって、もう半年ほどだろうか。

 この日天国では一般の識字率がそれほど高くない。幻羽族は高等教育を受けているのが普通だが、それ以外の一般の人々は、自分の名前や簡単な単語を読める程度で、手紙を書くほどには至らない。そんな層が国民の半数以上を占めているのだ。この代書屋では手紙だけでなく公共の書類の代筆に至るまで、多岐にわたって請け負っている。特にこの辺りは識字率の高い上山手区に隣接しているのもあって、お得意様宛にと、手書きの案内状やご機嫌伺いの手紙もよく頼まれるのだ。


 夕花は無学だが、亡き母から、みっちり字の読み書きを教え込まれていた。母が亡くなってからも、教えられたことを忘れないよう、裏紙が真っ黒になるまで練習し、紙がなければ地面に書いていた。そのおかげで、今こうして仕事をさせてもらえる。


「じゃあアタシは出かけるよ。昼過ぎか、遅くても十五時には戻るから。変な客が来たら、饅頭屋に駆け込むんだよ」


 登美は急ぎの仕事を片付けると、そそくさと出かける準備を終えて、夕花にそう言った。


「はい、任せてください」 


 登美は無言で火鉢を夕花の方に寄せる。冷えていた体に火鉢の熱が心地よい。


「ありがとうございます、登美さん」

「ふん、寒さに手がかじかんで、字が書けないって言われたら、雇ってるアタシが困るんだ。それだけだよ」


 登美は物言いは少々きついところがあるが、とても優しい人なのを夕花は知っていた。


 夕花が仕事を求めて右も左もわからない状態で、字を書くことにだけは自信があると飛び込んだのがこの代書屋だった。


 登美は夕花が訳ありであるくらいは察しているだろう。しかし、それについて聞いてきたことは一度もない。身元の保証もない夕花を雇ってくれた登美には感謝しかない。夕花は親切な登美や饅頭屋のおかみ、そしてこの町が好きだった。




 登美が出かけてしばらくすると、引き戸の格子ガラス越しに外が明るくなって来たようだった。雲の合間から青空が覗いている。朝は雪がちらついていたが、天気はすっかり回復したようだ。


 ふと、店の前で男性が足を止めるのが見えた。この付近では珍しい洋装姿である。

 お客さんだろうかと思った瞬間、男性の体がぐらっと傾ぐ。そのままバッタリと店の前で倒れてしまった。


「大変!」


 夕花は慌てて表に出た。


「あの、大丈夫ですか?」


 倒れた男性の肩をトントン叩いてみるが反応はない。額に触れてみたが夕花と大差なく、熱があるということもなかった。息はすうすうと穏やかで、ただの寝息のようにも聞こえる。


「寝ているだけ……なのかしら」


 一見して怪我もないようだし、顔色も悪くない。寝ているだけだとしても、寒い屋外で放っておくわけにはいかない。


 夕花はずっしりと重い男性を担ぎ、半ば引きずるように室内に運んだ。


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