5章 青の幻羽③
夕花はガラッと襖を開けて言った。
「お待ちください!」
洋風の応接室で、大理石のテーブルに革張りのソファが設られている。給湯室に繋がっているのか、部屋にはもう一つ小さな扉がある。
ソファに清楚な振袖を着た愛菜、横に父が座っていた。テーブルの向かい側に、上品そうな着物姿の老婦人がいた。さっき、夕花に助け舟を出してくれたあの老婦人である。やっぱりさっきの優しそうな人が、夕花の祖母だったのだ。
「あら、貴方はさっきのお嬢さん……何かご用?」
「ちょっ、ねえ──」
愛菜は姉さんといつものように呼ぼうとし、慌てて口を噤んだ。
「い、今更なんの用だ!」
父が声を張り上げた。
「神楽さん、この方たちはどなたですか? お知り合い?」
祖母は、父と愛菜の様子から、知り合いだと察したようで、急に入ってきた夕花たちに取り乱す様子はない。
「知りません! 単なる不審者ですよ!」
父は慌てて立ち上がり、祖母の視界から隠して夕花を追い出そうとした。しかし夕花は一人ではない。夕花を庇い、白夜が一歩前に出た。
「この泥棒め、人を呼ぶぞ、ここから出ていけっ!」
父は唾を飛ばしてそう怒鳴る。
白夜は形のいい唇を歪め、薄笑いを浮かべた。そんな表情をすると整った顔立ちゆえに、ひどく迫力がある。
「泥棒? どちらが。青波様、貴方の本物の孫、神楽夕花はこっちです」
白夜は優雅に夕花の肩を抱き、祖母の見えるように前に押し出した。
「えっ……?」
祖母は目を見開き、愛菜と夕花をキョロキョロと交互に見比べる。
「その子が……本当に……?」
「そ、そんなわけないじゃない! 私が夕花よ、お婆様!」
「そうですよ。父である儂が言うのです。こちらが夕花で間違いありません!」
父の言葉に、祖母はおろおろとしながらも、古い写真を取り出して、夕花をじっと見つめる。それはおそらく亡き母の若い頃の写真なのだろう。
「ですが、夕花の子供時代の写真にも、若い頃の紫乃にもよく似ています。無関係な子には見えません」
「何を言っているのよ、母様と離れ離れになったのは三十年も前なんでしょう。記憶なんてとっくに薄れているわよ。写真だってそんなに古ぼけてるじゃない。ねえお婆様、わたしが孫なのは嫌?」
愛菜は祖母にかけ寄り、甘えた声で腕を絡めた。
「そ、そういうわけでは……でも」
「お義母様、この子が間違いなく我が妻、紫乃の産んだ子です。そっちの娘はかつて我が家で使用人をしていた娘です。我が神楽家の血筋には無関係ですよ!」
「そうよ!」
父と愛菜から憎々しげに睨まれて、夕花は立ち竦む。
父からは、ずっと愛されていないことは分かっていたが、そんなにも疎まれていたのだ。
胸がギュッと苦しくなった。しかし、夕花は亡き母の子供として、何も知らない祖母が騙されて食い物にされるのを黙っているわけにはいかない。
顔を上げて、ハッキリと言った。
「私が夕花です。母が亡き後、父や後妻から使用人のような扱いを受けてきました。そっちは腹違いの妹、愛菜です! 母が亡くなってすぐ、後妻と愛菜が屋敷に入ってきて……形見の品も全て取られ、私は学校にも通わせてもらえなかったんです!」
「つ、作り話だ! 証拠を出せ!」
証拠と言われて、一瞬怯んだが、すぐに思い付く。
「愛菜が通っていた上山手女学院に問い合わせれば生徒の名前がわかるはずです! 神楽夕花ではなく、神楽愛菜が通っていたという証拠になります!」
夕花には名案に思えたが、父は鼻で笑った。
「いいや、通っていたのは神楽夕花だ。病弱ゆえに一年遅れで入学したが、学校に提出した書類にはそう書いてある」
「えっ!?」
その言葉に夕花は目を見開いた。
父はこの計画を立てたのは最近だと思っていたが、実は何年も前から愛菜を夕花に成り変わりさせることも想定の内だったのかもしれない。
「で、でも、女学校の友人には愛菜と呼ばれていたはずです!」
神楽家に、愛菜の同級生が遊びに来たこともあったが、その時は愛菜と呼ばれていたことを思い出してそう言った。しかし愛菜は父親そっくりに鼻で笑う。
「それが何か? わたし、夕花って名前じゃなくて愛菜って名前になりたかったの。愛菜って名乗っていたのはそのせい。ただの子供のごっこ遊びよ。それの何が悪いのかしら。父様の知り合いにも尋ねてみたらいいわ。神楽家にいる娘は私だけって、みんな証言してくれるはずよ」
クスクス、と愛菜は笑っている。確かに、夕花は一度も父の知り合いに紹介されたことはない。覚えていないくらい幼い頃にはあったかもしれないが、それで今の夕花だと断言できる人もいないだろう。
「ねえ、お婆様、あの人は可哀想な人なんです。この家の使用人で、お嬢様になりたいって妄想で、おかしくなってしまったの」
「そんな……違います! 私は本当に……」
夕花が夕花であると知っている人は、ごくわずかしかいない。白夜や綾地町の人々だ。しかし、彼らに証言してもらっても信用性に欠けると言われてしまうだろう。
「間違いなく、儂の可愛い娘である夕花はこっちだ!」
そう言って父は愛菜を指し示した。愛菜もふふんと笑っている。
何の証拠も出せない。夕花自身、夕花であることを証明できないのだ。その事実に夕花は泣きそうになったが、グッと堪えた。
「──では、貴方は嘘をついたことになりますよね、神楽家ご当主殿?」
突如、それまで黙っていた白夜が口を開いた。
「な、何を……」
「俺は月森白夜と申します。神楽夕花の婚約者の……吸血鬼です」
白夜はそう礼儀正しく祖母に礼を取った。
「まあ、吸血鬼の方ですか……」
祖母は目を見開く。驚いてはいるようだが、以前の愛菜のような怯えは見当たらず、少しだけ安堵した。
「神楽家のご当主に、ご息女を妻にしたいと持ちかけ、了承されました。神楽家には娘は一人であるのなら、それは神楽夕花さんに間違いないはずです。そして妻にする代わりに大金をお渡ししました。正式な契約書も残っています。しかし、彼女が神楽家の娘ではないとしたら、契約違反になるのではありませんか?」
「それは、その……ゆ、夕花が吸血鬼には嫁ぎたくないと言ったから、仕方なく」
「仕方なく、で貴方は嘘をつくのですか? 娘を吸血鬼に嫁に出したくないというのなら縁談を断ればいいではないですか。だというのに、大金を受け取るだけ受け取り、偽物の娘を寄越したということになりますよね?」
白夜は白々とした冷たい目で父を睨む。父はその迫力にブルッと震えた。
「た、確かに騙したのはこちらが悪かった。もらった金も全て返そう。話は終わりだ! そんなもの、何の証拠にもならない!」
「そうですね。夕花であるという証拠にはならない。しかし、貴方は利益を得るためならいくらでも嘘をつく、という証拠にはなるでしょう?」
「た、確かに……」
祖母はそれを聞いて、眉を顰めて父に胡乱げな視線を送った。本物の夕花がどちらであっても、娘婿が嘘をついていることになると気付いたのだ。金銭目当てに人を騙すような人物を信じられるはずがない。
父はぐぬぬ、と唸っていたが、ハッとして口を開いた。
「お義母様、この夕花こそ間違いなく儂と紫乃の娘なのですよ。その証拠に幻羽を出せます!」
そう言われて愛菜は得意げに頷いた。
「ええ、そうよ。見てください、お婆様。そいつは偽物だから幻羽が出せないんだもの!」
愛菜はバサッと純白の幻羽を広げた。煌めく羽の麗しさは、確かに夕花にはないものだった。




