4章 忍び寄る悪意①
四章
その日も、代書屋で夕花は真面目に仕事をこなしていた。数時間後、いつもより三十分程度早いが、頼まれていた仕事は全て片付いてしまった。
「うーん、少し早いけど、今日は仕舞いにしようか」
「はい。登美さん、お疲れ様でした」
「でもねえ、アンタの迎えが来るまで、まだ時間があるんじゃないのかい? いつもは人力車が迎えに来てくれているんだろう」
人力車で店の前に乗り付けるのは目立ってしまって恥ずかしいし、そもそも広くない道で人通りが多いので、邪魔になってしまう。そういうわけで慎にはいつも少し離れた場所に待ってもらっているのだ。
「迎えの人はいつも早めに来て待っていてくれるので、もういるかもしれません」
「そうかい。まだいなかったら一旦戻ってきなさいね。人気のないところで待ってたら危ないから、くれぐれも気を付けるんだよ」
「ええ、そうします」
登美は夕花を何かと気にかけてくれる。
ありがたいことだと思いながら、夕花は店を出た。
慎との待ち合わせ場所まで行ったが、まだ来ていない。さすがに三十分前は早過ぎたのだろう。
一度代書屋に戻ろうと思ったところで、ふと思い付いたことがあった。
白夜と亘理に饅頭をお土産にするのはどうだろうか。
代書屋と饅頭屋は数軒しか離れていないから、どちらにせよ方向は同じだ。それに人通りが多く、寄り道をしても比較的安全である。登美も饅頭屋に寄るなら構わないと言ってくれるだろう。
そう思って、饅頭屋に向かい、蒸したての饅頭を購入した。
「夕花ちゃん、仕事上がりかい。たくさん買ってくれてありがとうねえ」
「とても美味しいお饅頭だから、家族に食べて欲しくて」
亘理ならたくさん食べるだろうと多めに買ったのだ。饅頭屋のおかみさんはニコニコ顔で「一つおまけね」と入れてくれた。
「わ、ありがとうございます!」
白夜と初めて会った時、ここの饅頭を美味しいと食べてくれたのだ。二人で分け合ったのは思いが通じ合った今、くすぐったい思い出だ。つい先日の甘いひとときまで思い出し、夕花は頬をほんのりと染めた。
饅頭を買ってもまだ時間が余る。やっぱり代書屋に戻って登美とおしゃべりでもして待っていようか、そう考えた時、夕花の腕を掴む手があった。
「あ、あのっ……」
「え?」
驚いて振り返ると、そこには神楽家の使用人、早紀がいた。
「さ、早紀さん……⁉︎」
夕花は思いがけない姿を見て、目を丸くした。
「やっぱり夕花さん……いえ、夕花様……」
「な、何か用ですか」
夕花は思わず身構えた。神楽家にいた頃、早紀は夕花を様付けどころか、名前で呼ぶことすらなかった。彼女から暴力を振るわれたことはなかったが、冷たい言葉を投げかけられるの日常茶飯事だった。そんな彼女に再会しても喜べるはずがない。
「て、手を離してください。いまさら私に何の用ですか」
しかし早紀は掴んだ夕花の腕を離そうとしない。
「ち、違うんです。偶然見かけただけで……あたし、ずっと夕花様に謝りたくて……怒ってますよね。わかってます。で、でもあたし……」
早紀はやつれて顔色が悪い。夕花を掴む手は乾燥でひび割れているし、髪も以前よりボサボサに見えた。憔悴という言葉が似合っていた。
「ちょ、ちょっと……道の端に行きましょう」
そんな早紀の様子に少し前の自分を重ねてしまった。早紀も夕花の腕を離そうとしないし、せめて通行の邪魔にならないよう、道の端に避けた。
「あの、早紀さん、何かあったんですか?」
「実は、夕花様が嫁いだ後……あたし一人で家事をやるようになったんですけど……」
早紀はぽつぽつとこれまでのことを語る。夕花が神楽家にいた頃は八割以上の家事を夕花が行なっていたから、残された早紀の負担は大きかったようだ。
「人を増やすよう頼まなかったの?」
「奥様と旦那様に頼んだんですが、でも元々、夕花様に賃金は払ってなかったじゃないですか。だから二人分の賃金を払うのが嫌だって言われてしまって」
早紀の手は小刻みに震えていた。
「しかもあの日以来、お嬢様は荒れて、あたしに八つ当たりするようになったんです。最近じゃ叩かれることだってあるし……。旦那様は最近妙に気が大きくなって、愛人になれと誘ってくるんです。奥様にはあたしが旦那様を誘惑したせいだって責められて、何時間も正座をさせられたり、食事抜きにされたりで……」
「まあ……」
夕花は眉を顰めた。
神楽家の現状はかなりひどい様子だ。白夜から何千万もの大金を受け取っていながら、出すものを惜しみ、父に至っては娘として聞くのも恥ずかしい。
「それで、実は辞めることを考えているんです。故郷に帰ろうって。でも、夕花様にはこれまでお嬢様に命令されていたとはいえ、散々酷いことをしてきてしまったから、ずっと謝りたいと思っていて……」
早紀は青い顔で深々と頭を下げた。
「これまで申し訳ありませんでした」
夕花は慌てた。道の端に避けたとはいえ、人の目がある中で、こう頭を下げられては困る。
「そんなに頭を下げないで、ね?」
夕花は早紀に頭を上げさせ、持っていた饅頭を一つ、早紀に握らせた。
「顔色がよくないわ。このお饅頭美味しいのよ。食べてちょうだい。きっと体が温まるはずだから」
「あ、ありがとうございます……」
泣きそうな顔で饅頭を両手で握り込んでいる。
「あの、夕花様は、お金持ちのお家に嫁がれたのに、どうしてこんなところに?」
「白夜さんに許可をもらって、この近くの代書屋で働いているのよ」
「そうだったんですか。……夕花様は偉いですね。あたしも故郷に帰って、真面目に働こうと思います」
「ええ、頑張ってね」
話しているうちに時間も経った。そろそろ慎も来ている頃だろう。
夕花は早紀と別れて、待ち合わせ場所に向かい、帰宅したのだった。
お土産の饅頭を、白夜も亘理も喜んでくれた。その日の夕飯後のデザートとして、みんなで美味しく食べたのだった。
それから数日後、いつものように仕事を終えて代書屋を出る。慎との待ち合わせ場所に向かおうとしたところで声がかけられた。
「──夕花様」
「あら、早紀さん」
そこには早紀が立っていた。嬉しそうに夕花に笑いかける。しかし妙にそわついた態度だった。
「夕花様、先日は突然すみませんでした。でも夕花様のおかげで辞める決心がつきました。それで……今日は夕花様を待っていたんです」
「どうしたの?」
「……実は今日、神楽家には誰もいないんです。あと一時間は絶対に戻ってこないはずです。なので、今から神楽家に行きませんか?」
「そんなこと……」
出来ないと言おうとした夕花を遮り、早紀は小声で捲し立てた。
「実はあたし、お嬢様の部屋で古い写真の入った箱を見つけたことがあるんです。お嬢様は面倒くさがって、全部押入れに入れたままなんですけど、その中に前の奥様のお写真があるかもしれなくて……」
夕花は息を呑んだ。
「前の奥様の写真……私のお母様のってことよね?」
早紀はコクンと頷く。
母の形見を一つも持っていない夕花には、写真は喉から手が出るほど欲しかった。
「全員がこんな時間に留守にすることなんて滅多にないですし、あたしももうすぐ辞めるんで、新しく入る使用人に引き継ぎなんかもありますから……もうこんな機会はありませんよ」
「で、でも……今から行って帰ったら、遅くなってしまうわ」
何より白夜に心配をかけたくない。そう首を横に振る夕花に、早紀は言った。
「でも早くしないと、お嬢様たちが戻ってきちゃいます! 今しかチャンスがないんです。次の使用人は、押入れの写真を全部捨ててしまうかも……」
そう言われると夕花の心はぐらつくが、断ることにした。
「ごめんなさい、今の家族を心配させたくないの。迎えも来てるはずだから……」
しかし早紀は、夕花の腕をしっかり握って離さなかった。
「迎えの人には残業があると伝えたらいいんですよ。いえ、あたしが伝えてきますから、夕花様はこのまま神楽家に行ってください。ここからなら急げば三十分です。一時間ちょっとで戻ってこれるでしょう。勝手口の鍵は扉脇の植木鉢の下です。押入れを開けたら古い箱があるからすぐにわかります。だから、急いで!」
「わ、わかったわ」
早紀の勢いに押し切られるように、夕花はつい頷いてしまっていた。