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3章 夕花の新たな生活⑧

 小一時間ほど走ると目的地に到着したようだった。車を止め、白夜は夕花の座る助手席側のドアを開け、手を貸してくれた。


「ありがとうございます、白夜さん。ここは?」


 そこは森の入り口のように見えた。木々が立ち並び、木漏れ日がチラついている。


「ただの森だよ。大した場所じゃなくて悪いんだが、ここを散歩したら気持ちよさそうだと思わないか? 日中でもこれくらい薄暗いと俺でも歩けるから、時々来るんだ」


 白夜を含め、吸血鬼は強い日差しに弱いのだ。帽子を被れば平気だと言っているが、それでも日中は薄暗い方が過ごしやすいのだろう。

 森と言っても足元はしっかり整備をされているようで、二人が並んで歩ける広さの小道になっている。ベンチもポツポツ置いてあるから森林公園なのだろう。


「緑のいい香りがします。素敵なところですね」


 深呼吸すると、緑の香りで胸が満たされ、清々しい気分になれた。

 夕花は白夜に手を引かれて、森の中に入る。薄暗いが、木漏れ日が輝いて嫌な暗さではない。心地よい緑や土の香りがし、時折聞こえる鳥の鳴き声に耳を傾けてながらゆっくり歩く。舗装はされていない獣道を歩けば、落ち葉や草のふかふかした感触を足の裏に伝え、枝を踏むたびにパキンッと軽い音を立てた。


 しばらく歩くと、向こう側からキラッと眩しく光るのに気が付いた。森が終わり、少しずつ開けていく。ふっと開けて向こう側の景色が見えてきた。どうやら森の先にある水面が太陽の光を反射しているらしい。


「あれは湖でしょうか」


 大きな池か湖のように見える。風で小波が立つたびに、キラリ、キラリと輝いている。


「ああ、あっちにはなかなか大きな湖があるそうだ」


 目を凝らして伺うと、湖の周囲には新緑の鮮やかな絨毯のような芝生が広がっていた。

 湖の周囲には木が何本も植えられているようだ。遠目には何の木かわかりにくいが、幹の色合いと森の木々と違って葉がないから桜かもしれないと夕花は考えた。もし桜なら、あと一ヶ月もすればきっと薄紅の可憐な花が咲き誇ることだろう。


「あっちに行ってみませんか? 湖がキラキラして、綺麗ですよ」


 しかし白夜はぴたりと足を止めた。


「すまないが、帽子を車に置き忘れてきてしまった。俺には森から出るのは眩しすぎて、あっちに行くことはできそうにない」

「あっ、すみません!」


 夕花は自分を恥じた。吸血鬼である白夜は日差しに弱いとわかっていながら、迂闊なことを言ってしまったのだ。


「いや、構わない。君だけ行ってきてもいい」

「まさか。白夜さんを置いてなんて行きませんよ。そこのベンチに座りましょう」


 木々の間にあるベンチに並んで腰掛ける。湖は風が吹くたびに水面が煌めいているが、森の中も負けてはいない。枝が揺れ、葉が擦れてサワサワと心地よい音を立てる。木漏れ日も形を変え、チラチラしている様は影絵のようで美しい。


「森の中も綺麗ですね」


 そう白夜に向かって言ったが、白夜は静かな視線を夕花に向けていた。


「夕花、最近悩んでいることがあるんじゃないか?」


 夕花はハッとした。とっくに気付かれていたのだ。白夜が本当は千鶴をまだ愛しているのではないかと疑っていることを。


「あ、ありません……」


 しかしそれを尋ねても白夜を困らせるだけだ。夕花はそう答えるほかない。

 薄暗い中、ほのかに輝く白夜の紅色の瞳から目を逸らした。


「──夕花、君はどこに行っても構わないんだ。あの光輝く湖のほとりにだって、この手を離して行っていい」


 白夜は夕花から握っていた手を離した。


「今だけのことではない。俺は君を自由にしてもいいと思っている」

「え……?」


 夕花はきょとんとした。


「俺は君を形だけの婚約者として、囲ってしまったも同然だ。今も自由も制限させている」

「で、でも……私はあの家から出してもらえて、救われました」

「だが、俺が吸血鬼ということは、君はあの光の当たる場所にはいられないということだ。それが俺には心苦しい。もちろん君のことはちゃんと責任を取る。どこか別の家の養女になれるように手を尽くしてもいいし、綾地町に住む場所を用意しても構わない」

「な、なんで……急にそんなことを言うんですか」


 まさか千鶴とよりを戻すのだろうか。腹の奥にどろりと濁る熱い塊が生まれた。

 これは、嫉妬だ。


「……俺が、血を吸えないからだ」 


 しかし、白夜からの思いがけない言葉に、夕花は目を瞬かせた。


「血を……吸えない?」

「ああ、吸血鬼のくせに俺は血が吸えない。吸わないと以前言ったが嘘だ。吸いたくても吸えないんだよ。それは吸血鬼としての制限が大きくなることを示している。吸血鬼の異能をたくさん使えば体は弱る一方だ。大怪我をしても血が吸えるなら治癒するという能力があるが、俺は血を吸えないから、もしも大怪我をしたら、そのまま死ぬしかない。吸血鬼だから光の差す場所にはいられないくせに、吸血鬼らしいことができない、半端者なんだ」


 夕花は白夜を見つめた。こんなにも見目麗しく、才能豊かで金銭にも不自由しないであろう白夜。しかし、自らを欠けていると感じているのだ。羽なしの夕花と同じように。


「わ、私……てっきり、千鶴さんとよりを戻したいのかしらって……」


 夕花は呆然と呟いた。


「千鶴……? 何故千鶴の名前が出るんだ。彼女とは円満に婚約を解消した。わだかまりも未練もない」

「えっ、でも……」

「もしかして、叔母のパーティーでのことを言っているのか。あれは地震が起きて、千鶴の方にランプが落ちてきたから咄嗟に庇っただけだ。愛していなくても、友人が危険な目にあっていれば助けるに決まっているだろう」

「千鶴さんは頬を赤らめていましたし……」

「それはその前に、千鶴の夫の話をしていたからだ」

「え、夫……? 千鶴さんの?」


 夕花はポカンと口を開けて聞き返した。


「それを言い忘れていたか!」


 白夜は額に手を当てた。


「千鶴はとっくに他の相手と結婚している。元々赤坂財閥が傾いていてね、彼女は金銭的な事情で俺の婚約者になったんだ。だが千鶴は赤坂財閥を自分が立て直すと申し出て、俺は金を貸しただけだ。彼女は実際に、すぐに立て直して金を返してくれた。俺とも円満に婚約を解消したんだ。その後、すぐに恋仲だった幼馴染の男性を婿にして結婚したんだよ。だからよりを戻すということはありえない」


 白夜の話を、夕花は呆然としながら聞いた。


「それに言っておくが、俺は千鶴を女性として好きだっとことは一度もない。しかし何故そんな風に思い込んだ? 君に変なことを吹き込むやつでもいたのか?」


 夕花はふるふると首を横に振った。


「い、いえ……、本を読んだからです。白夜さんの書いた本『兎に狼を殺せるか』あれを読んだ私は、てっきり千鶴さんと白夜さんのお話なのだとばかり……」


 出ていく女性を愛しながら、手放すことを選んだ話。

 夕花はすっかり二人の話なのだと思い込んでしまったのだ。


「あの話を書いたのは、千鶴と婚約するよりも前のことだよ。千鶴とは無関係だ」


 白夜は怒ることもなくそう言った。

 夕花は完全に思い違いをしていたようだ。早とちりに顔から火が出るほど恥ずかしい。


「すみません……私、早とちりしてしまって」

「だが、いい線はついている。……確かに狼は俺自身がモデルだ。でも一つ違うのは、狼は兎に恋愛感情を持っていたわけではないということ。……兎のモデルはね、俺を置いて出て行った、母親なんだ」

「……お母様……ですか」


 白夜が語ったところによると、白夜の両親にはそれぞれ恋人がいたらしい。どちらも相手はごく普通の、異能のない人間だった。しかし両親は恋しい相手と添い遂げることは許されなかった。白夜の父は吸血鬼の月森家当主として、母は月森家に金で売られた幻羽族の娘として、吸血鬼の血を受け継ぐ子供を作る必要があったのだという。


「だが、形ばかりの夫婦となってもうまくいくはずなかった。吸血鬼は子供のうちに最低でも一回は両親から血を与えられるものだが、母はそれを拒んだ。俺が小さい頃に、義務は果たしたと出て行った。父は俺が生まれた時にはとっくにいなくなっていた。親の愛と共に与えられるべき血を与えられなかった俺は、血を吸ったことがない」


 そんな、と夕花はショックを受けていた。


 夕花も羽なしとして、父から愛されていなかった。しかし、亡き母だけは夕花を愛し、全力で慈しんでくれたのだ。そのおかげで夕花は今も母の思い出を胸に生きていける。しかし、白夜にはそれすら与えられなかったなんて。


「俺が血を吸えないのは精神的なものだ。婚約を解消する時、千鶴が好意で血を吸わせようとしてくれた。だが、俺は千鶴の血を吸えなかった。吸血鬼の本能としては吸いたいのに、どうしても頭が拒んで飲み込めないんだ」

「で、でも、血を吸わなくても生きていけるのなら、それでいいではないですか」


 血を吸えば怪我が治癒するといっても、何か起きない限り大怪我などしない。異能の力も極力使わず、危険な場所にも行かず、静かに暮らせばいい。


「通常の吸血鬼ならな。だが、俺くらい強い異能の力を持っているだけで、まったく血を吸わずには生きていけない。少なくとも十年に一度くらいは飲む必要があるそうだ。どうしても吸えない場合は、血液から作成した薬を飲むんだ。俺も幼い頃に、幻羽族の血液から作った薬を飲んでいたんだが、ある時から薬を飲んでも効果がなくなってしまった」

「白夜さんが血を飲めないとなると、今後どうなってしまうんですか……」

「おそらく、寿命が著しく短くなるだろう。あと何年生きられるか、わかったものではない」

「……そ、そんな……」

 夕花は血の気が引くのを感じていた。

「どうなるかわからないということだ。それもあって夕花をそばに置いておくのが辛いんだ。もうすぐ死ぬかもしれない俺なんかのために、母のようにしたいことを我慢させ、好きな人とも添い遂げられずに、ただ人生を消費させてしまうのが、辛い」

「そんな、私はしたいことを我慢なんてしていません! 代書屋で働かせてもらっていますし、好きなのは──」


 白夜だと、言えなかった。代わりにカアッと頬を赤らめた。


「白夜さんは、同情で私を助けてくれたんですか……? やっぱり、倒れたところを助けた恩返しには、大きすぎます」

「俺は……君に初めて会ったあの頃、ひどく病んでいた。血を吸えなかった──いや、親の愛情を口にできなかった俺は、ろくに睡眠も取れず、何を食べても味がしなかった。ふらふらと出歩いて、亘理にも何度も迷惑をかけていてね。綾地町にいたのは、きっと母を探していたんだ。母から血を吸わせてもらえれば、なんとかなるんじゃないかって」

「白夜さんのお母さんはあの町にいるのですか⁉︎」


 しかし白夜は首を横に振る。


「……いや、いないよ。いないってわかっているのに、吸血鬼でも幻羽族でもない恋人のところに向かった母の面影を、あの町で探してしまうんだ」


 きっとそれは、綾地町が異能を持たないごく普通の人たちの営みの場所だからなのだろう。夕花も綾地町の人々の明るさや優しさに何度も心を救われた。そしてそれは、白夜も一緒だったのだ。


「俺は倒れた時も、もうどうでもよかった。このまま目をつぶって終わりにしようと思ったんだよ。そこを君に救われた」

「ただ代書屋の座敷に寝かせただけですよ」

「君はあの時もそう言ったね。だが、そんなことはないよ。君のそばは久しぶりに安らかに眠れたし、君と分け合った饅頭はあれほど美味しいものを食べたのは初めてだと感じるくらいだった。もしかしたら君が心を尽くしてくれたから余計そう感じたのかもしれない。そして俺は目を覚まして、この世で最も美しいものを見たと感じたんだ」


 夕花はあの時を思い出そうとしたが、よく思い出せない。美しいものなどあっただろうか。


「それは?」

「──君だよ、夕花」


 白夜は、目を細め、優しく微笑む。そのあまりの美しさに、時間が止まったかと錯覚していた。

 少なくとも息をするのを忘れて白夜の微笑みに見入っていた。いや、魅入られていたのかもしれない。

 ハッと我に返り、呼吸を再開した夕花に白夜は言う。


「俺は、君を愛している。目を覚ましたあの時、君の姿を見てから、どうしようもなく君に惹かれてしまったんだ」

「白夜さんが……私を……?」

「だから、月森家の力で半ば無理矢理に連れてきてしまった。君が神楽家で幸せなら、我慢できたかもしれない。調べさせた君の生活に、どうしても放っておくことはできなかった。でも、俺のわがままはこれで終わりだ。俺は狼、そして君は兎だ。手放すことも愛だと受け入れるよ」


 白夜はそう言って、夕花の頬を優しく撫でた。するすると離れていき、白夜の感触がなくなる。それがとても寂しい。


「……嫌です……」


 夕花はなんて言ったらいいものか、全然わからなかった。ただ、嫌だと小さな子供のように繰り返す。


「私、白夜さんのそばにいたい。それが私の望みなんです。だって私、私も──白夜さんが、好き」


 心の中がぐちゃぐちゃで、涙を止めることはもうできなかった。神楽家でどんなに辛くても、何度も我慢できていた涙が、感情と共に溢れ出る。しかし、諦めの涙ではなかった。俯いて流す涙とは違う、白夜の方を真っ直ぐに見たまま、熱い心をぶちまけるような涙だった。


「白夜さんが、私の好きにさせてくれるというのなら、私は白夜さんのそばがいい。私は兎じゃありません。あんなに賢くもないし、気高くなんてない。それに何よりも、私は狼を……白夜さんを愛しているんですから!」


 狼を愛さなかった兎とは違う。

 夕花はその本心を白夜に向けて叫んだ。


 気が付くと、夕花は白夜に抱きしめられていた。

 白夜からする甘い匂いに包まれ、白夜の温かさを感じる。


「そんなことを言ったら、もう二度と君を手放さない。いいのか?」

「いいに決まってます……!」


 夕花も白夜に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。心臓が今更ドキドキとして、口から飛び出してしまいそうだ。顔も真っ赤だし、泣いたばかりの目もきっと赤いことだろう。

 白夜は夕花の頬を両手で挟む。


「目が赤くて兎みたいだ。……でも兎ではないんだな」


 目を閉じて、と耳元で囁かれ、夕花は目をギュッと閉じた。頬に、額に、そして唇に、柔らかな感触が降ってくる。クスッと白夜が含み笑いするのが聞こえた。


「そんなに強く閉じなくていいんだよ」


 余計に恥ずかしく、おそるおそる目を開くと、白夜の端正な顔が間近にあった。

 再び唇に白夜の唇が優しく触れる。何度も何度も、キスの雨が降ってくる。夕花は手を振るわせながらも、それを全て受け入れた。


 夕花にはもう、白夜以外は何も見えない。木漏れ日の煌めく薄暗い森も、森の外の輝く湖も、全てが意識の外で、ただ白夜のことだけが心を占めていた。 

 思いは通じ合い、二人はとろけるような甘いひとときを、心ゆくまで過ごしたのだった。


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