1章「羽なし」と呼ばれた娘①
一章
少女の長い黒髪に、はらりと雪が降り落ちた。
鈍色の雲から、白い花びらのような雪がちらついていたのだ。
寒いはずだと黒髪の少女は細い首を動かし、空を見上げる。
空に向けて吐いた息も白く、そのまま雲になってしまいそうだった。
彼女の名前は神楽夕花。
目鼻立ちが整っており、慎ましやかな雰囲気の可憐な少女だった。しかし不健康なくらいに痩せた体、それから寒さのために青ざめた肌は、生来の魅力を台無しにしていた。着ているのも、擦り切れた薄っぺらい着物だ。上に羽織った半纏も、綿はほとんど抜けて、防寒の役にはあまり立っていない。冷えた外気が細い体から容赦なく体温を奪っていく。
「……さむ……」
夕花は冷え切った指先にはあっと息を吐きかける。それでもちっとも温かく感じなかった。体が完全に冷え切っているせいだ。吐息程度ではここまで凍えた指は温まらない。
夕花は屋敷の裏庭で井戸水を汲み上げ、洗濯をしていた。この時期、朝の水仕事は辛い。容赦なく手の体温を奪い、冷え切った指がビリビリと痛くなってしまう。指の節にあかぎれができて痛むのも、いつものことだった。
せっかく洗濯をしたのに、この天気では乾かないかもしれない。せめて積もらないといいけど。夕花がそう思った時、屋敷の中から明るい声が聞こえた。
「わあっ、雪だわ!」
夕花の腹違いの妹、愛菜の声だ。住み込みの使用人と楽しげに話している様子が、外にいる夕花にもよく聞こえてくる。
「わたし雪って好きよ。ねえ早紀さん、この雪、積もるかしら。積もったら、女学校のお友達と雪合戦がしたいわ」
「今降り始めたところだからどうでしょうねえ。昼には暖かくなって、溶けてしまうかもしれません」
「そうなの? 残念ね……あっ、そうだ。せめて雪紋様のハンカチを持って行きたいわ。この前に買ったやつ。雪の日に相応しいと思わない?」
「名案ですね、お嬢様」
しかし、楽しげな声は一転し、苛立ちに変わった。
固く閉ざされていた窓がガラッと開き、暖かな風が夕花の頬を一瞬だけ撫でた。しかし、それ以上に尖った冷たい声が夕花に降り注ぐ。
「ちょっと、姉さん。ハンカチにアイロンがかかってないんだけど!」
真新しい藍色のセーラー服に身を包んだ愛菜が窓から顔を出した。傷一つないその手には雪紋様のハンカチが握られている。
愛菜はその名の通り愛らしい外見をしていた。ふわふわした柔らかそうな茶色の髪に、くりっとした丸い目と薔薇色の頬は可憐で、少女雑誌の表紙でもおかしくない美少女なのだ。ただし今はその丸い目が吊り上がって、夕花を睨み付けていた。
「ちゃんとやっといてって、いつも言ってるじゃない!」
愛菜は雪模様のハンカチを丸めて夕花に投げ付けた。バシッと音がしてハンカチが夕花の頬に当たる。大して痛みはないが、ハンカチが地面に落ちて土が付いてしまった。
洗ったばかりなのに。そう思ってハンカチに視線を落とす夕花に、愛菜は片眉を上げた。
「何か文句でもあるの? アイロンをかけてなかったのは姉さんのせいでしょう」
夕花は腹違いの妹の言葉に、粗末な着物姿で身を縮めた。
「ご、ごめんなさい。この数日天気がよくなくて、乾くのが遅かったから……」
「言い訳はよしてよね。ほんと、鈍臭いんだから。しかも、まだちんたらやってるの? この屋敷、そんなに人数いたかしら? 父様、母様、私、早紀さんで四人でしょ。あ、あとついでに姉さんもか。それでもたかだか五人分の家事くらい、すぐ終わるじゃない。これだから羽なしは」
羽なし──その言葉に夕花は下向きに咲く花のように、ますます顔を俯かせた。
「あら、傷付いた? へえ、本当のことを言われても傷付くんだ?」
バサッと音がして、愛菜の背中に白い羽が生えていた。羽を見せつけるように、窓枠に頬杖を突いてクスクス笑う。その姿は絵画の天使のように愛らしく、そして残酷だった。
「天女の末裔である由緒正しい神楽家の長女なのに、おかしいわよね。なーんで羽なしなのかしら」
窓から愛菜の羽がハラハラと舞い、地面に落ちて雪よりも儚く消えていく。
この羽は本物ではない。幻羽族は生まれつき、こうして幻の羽を出すことが出来るのだ。しかし、夕花には幻羽が出せなかった。夕花は羽なしと蔑まれ、父親からも実の娘とは思えない扱いを受けている。
それでも夕花の母親が生きていた九歳頃まではまだよかった。学校にも行けず、外に出ることさえ許されなくても、母からの愛情を感じて生きてこられた。勉強も母親が教えてくれた。
しかし病弱な母親が亡くなるや否や、父が外に囲っていた愛人が後妻として屋敷に入ってきたのだった。しかも後妻には娘がいた。夕花の一歳年下の腹違いの妹、愛菜である。
彼女たちが来てからというもの、神楽家に夕花の安息の地はなくなった。
それから十年近くが経過していた。
亡き母の部屋は後妻の部屋になり、夕花も自分の部屋から追い出された。夕花のものは全て取り上げられ、愛菜に与えられた。夕花は仕方なく空いていた狭い使用人部屋で過ごすしかなかった。夕花が父から冷遇されるのを見て、同情的だった使用人は首を切られ、横柄に当たる使用人ばかりになっていった。
母の形見の指輪や、着物の類も全て後妻に奪われてしまい、夕花は使用人部屋に残されていたお古の着物を直して着ている。今では使用人の早紀の方が、夕花より綺麗なものを着ているくらいだ。
母の亡き後、父は後妻と共に財産を湯水のごとく使っているようだった。数いた使用人も減っていき、今は若い使用人である早紀一人になっていた。しかし家事のほとんどを夕花がしており、彼女の仕事はちょっとした手伝いをするくらいだ。
それに不満を持っても、羽なしの夕花では神楽家を継げない。こうして使用人以下のような扱いを甘んじて受け入れるしかなかった。
「ちょっとぉ、聞いてるの? ぼけーっとしちゃって、つまんない人」
夕花は愛菜に何も言い返せない。雪が地面に落ちてまだら模様を描いていくのをぼんやりと見つめ、愛菜が夕花を罵るのを黙って聞いていた。
苛立った愛菜を宥めるように、早紀が別のハンカチを持ってきた。
「お嬢様、こちらの白い小花柄のハンカチはどうですか? 雪ではないですが、雪を思わせる柄でお洒落ですよ」
「うーん、じゃあそれにするわ。あ、のんびりしてたら遅刻しちゃう! 早紀さん、わたしパンが食べたいから焼いてちょうだい」
愛菜はそれまで罵っていた夕花のことなどすっかり忘れたように、軽やかに走り出した。
「はあ……まったく、お嬢様が学校に行きたくないって言い出したら、あたしが怒られるんですからね。ちゃんとしてくださいよ!」
早紀はそう吐き捨て、窓をピシャリと閉めた。外気との気温差で窓はみるみる曇り、屋敷の中は見えなくなった。それでも、愛菜の楽しげな声が漏れ聞こえてくる。
「……洗い直さなきゃ」
夕花は土の付いたハンカチを拾い上げ、洗い場に戻る。指のアカギレがズキッと痛んだ。
神楽家があるのは、日天国、天都の中央に位置する宮城を取り巻く上山手区。古くから貴族である幻羽族しか住めない場所である。その周囲は川で囲まれ、出入りするには東西南北にある四つの橋門を通る必要があった。
区内の女学校には由緒正しい家の子女しか通うことが許されない。羽なしの夕花には入学の資格がないと父から言われていた。愛菜のセーラー服を何度羨ましい気持ちで見つめたことか。セーラー服は女学校でも最近導入されたばかり。高額なため、買うのも任意だった。愛菜はその高額な制服をどうしても着たいと言い張ったのを夕花は知っている。
父が財産を食い潰し、神楽家はやや傾きつつあるのを夕花ですら感じていたが、それでも愛菜のわがままが許されなかったためしはなかった。