3章 夕花の新たな生活③
夕花は白夜が書いた本を読んでいた。
これまで娯楽とは無縁な生活をしていたから、小説を読むのはほぼ初めてのようなものである。月森家に来てからというもの、昼は仕事で、帰宅してからは亘理の手伝いや白夜と会話をしていたが、夜になると暇になるため、借りた本を開いてみたのだ。
少しだけ読もうと思っていたのだが、あまりに面白くてページをまくる手が止まらない。読む速度が遅い夕花でも数日で読み終えてしまった。
最初こそ『兎に狼が殺せるか』というタイトルから怖い話なのかと連想したがそんなことはなかった。
美しく真っ直ぐな性格の少女、「兎」が親が決めるままに「狼」と政略結婚をしたが、自立して婚家から出ていくという話だった。
夕花自身と境遇が似ているのに、夕花とは比べ物にならないほど、賢く気高い主人公に魅了され、そして兎を思って身を引く狼の心情には胸が引き裂かれる思いだった。読み終えてからもほう、と息を吐いてぼんやりしてしまう。
白夜はこの作品で文学の賞をもらったらしい。著者近影には今より少しだけ若いように見える白夜の写真が使われていた。
白夜の書斎の本棚には他にも著作が並んでいた。この本の続きもあるのだろうか。
時刻はまだ寝るには早い。白夜は起きているだろうか。夜の方が小説を書くのが捗ると言っていたから、まだ仕事をしているかもしれない。
仕事の邪魔になってしまうかもしれないが、この本の続きがあれば読んでみたい。そう思って夕花は二階の書斎へ向かった。
「し、失礼します……」
コンコンとノックをしてからそっと書斎の扉を開ける。
デスクに向かっていた白夜が顔を上げて微笑んだ。
「夕花、何か用か?」
「お仕事の邪魔をしてすみません! この本を読み終わったものですから……」
「構わないよ。資料の整理をしていただけだ。おいで」
夕花は白夜にエスコートされ、ソファに座った。白夜も区切りがよかったのか、その横に腰を下ろした。
「もう読み終えたのか。君の仕事柄なのか、読むのが早いんだな」
「いえ、そんなに早いとは思わないのですが……あまりにも面白くて手が止まりませんでした。それで、続きがあるか気になってしまって」
「すまない。それは一巻で完結なんだ」
「そうなのですか? 賞をもらったと書いてあったので、そんなに人気作なら何巻も出ているものとばかり……」
夕花の目論見は素人考えでしかなかったようだ。少しだけ残念で肩を落とす。
「ああ……担当編集には続きを書かないかと熱心に誘われたんだが、どうしても書けなかった。兎は狼を殺せるほど強くなり、しかし殺さずに出ていく。それで話は終わり。続きはないんだよ」
白夜は本に視線を落としているが、どこか遠いところを見つめているように見えた。
その姿に夕花は自分の発言のせいだと感じた。失言に首がヒヤッとして頭を下げる。
「あの……素人の私が生意気なことを言ってしまって、すみませんでした」
「あ、いや、違うんだよ。これは俺がどうしても書けなかっただけの話だから。そうだな……次は別の系統の本がいいかもしれない」
「どんな本があるのですか?」
「俺の著作以外にもたくさんあるからね。タイトルや表紙で選んでも構わない」
夕花は白夜に着いて本棚の前で背表紙をじっくり眺める。
「色んなジャンルがあって、目移りしてしまいますね」
そう言った時、突然、下からドンと突き上げるように揺れた。
「きゃあっ!?」
地震だ。それもグラグラと重い本棚が揺れるほどの。
とてもじゃないが立っていられず、よろめく夕花を庇うように白夜が支えてくれた。
「ここは危ない。一旦廊下に出よう!」
「は、はい」
そのまま夕花を抱えて白夜は廊下に飛び出た。
「い、今の、地震……ですか……」
地震という存在は知っていたが、夕花は地震を経験したのは初めてだった。この国の天都周辺、特に宮城と上山手区は地震でも揺れないようにできている。幻羽族の中でも特別な力を持つ宮守が、宮城に籠り帝や天都を守護しているからだ。
「すみません……驚いてしまって。下香墨では地震が起こるんですね」
「……いや、ごく小さい地震ならまだしも、今のような大きな地震は初めてだ」
「もしかして、宮守様に何かあったんでしょうか……」
今までにないことが起きたというのは不安である。夕花は首を傾げた。
「ご主人!」
と、そこに亘理がトタトタと階段を上がってくる。
「あ、夕花様もこちらにいたんですね! よかったー。お部屋にいないから、地震でびっくりして飛び出しちゃったかと思いましたよー!」
「おいおい、夕花は猫じゃないんだぞ」
「えへへ」
亘理は笑う。夕花もそんな軽口を聞いてようやくホッとした。
「揺れはおさまったみたいだな。だが、また揺れるかもしれない。書斎は本棚が倒れたら危険だから、今日はもう仕事をやめておこう。夕花も本はまた今度でいいか?」
「はい」
「そうだ、寝るには少し早いですし、あったかいハーブティーを飲みませんか? 地震が怖かったのも吹っ飛んで、よく寝られますよー」
「うん、お願いしようかしら」
その晩、夕花は背中を白夜に優しく撫でられ、さらに亘理が淹れてくれた温かいハーブティーを飲んだことで、地震に怯えることなく眠れたのだった。