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3章 夕花の新たな生活①

 三章

 

 夕花の新たな生活は順調に動き始めていた。

 夕花は月森家で白夜と亘理に優しくされ、日中は登美と仕事をする。そんな日々を過ごしていた。

 毎日のご飯も美味しい。寒さにも、ひもじさにも縁がなくなり、神楽家にいた頃の生活とは比べ物にならない。そのおかげか、少しずつ心身が癒やされていくのを感じていた。




 その日も夕花は仕事を終え、月森家に帰るところだった。


 下香墨にある月森家から代書屋まで、歩くには少々距離がある。

 最初の数日は白夜が車で送り迎えしてくれていたが、さすがに白夜も仕事があるらしく、ずっとは無理とのことだった。


 しかし、まったく歩けないような距離ではない。かつて夕花は、上山手区の神楽家から綾地町まで毎日歩いて通っていたのだから。白夜に歩くことには慣れていると言っても、白夜は夕花を一人歩きを許してはくれなかった。

 代わりに白夜は知り合いに頼み、人力車と車夫を手配してくれたのだった。

 夕花としてはそこまでしてもらわなくても、と思うのだが、白夜からその方が安心出来ると説得されては受け入れるしかない。


 そう考えていると月森家に着き、人力車がゆっくりと止まった。


「はい、着きましたよ」

「慎さん、今日もありがとうございます」

「恐縮です。では、また明日」

「はい、また明日よろしくお願いします」


 車夫の慎は夕花の父親くらいの年代だろうか、車夫という仕事柄、たくましい体をしている。しかし、口調は車夫とは思えないほど丁寧かつ穏やかで、夕花にもとっつきやすい雰囲気をしていた。車のない神楽家で父たちが移動に人力車をよく使っていたから知っていたのだが、車夫の彼らはみな威勢がよく、少々荒っぽい態度の人も多かった。だから慎の人となりと、落ち着いた運転は夕花にとって安心出来た。


 夕花は慎にペコッと頭を下げ、月森家に入る。

 扉が開く物音を聞き付けたのか、亘理がパタパタと小走りで出迎えてくれた。


「おかえりなさい、夕花様!」

「ただいま、亘理くん」

「夕花様、疲れていませんか? お茶はいかがです?」


 亘理はニコニコしながら夕花の周りをくるくる回った。子犬のような可愛らしさに頬が緩む。


「全然疲れていないわ。もしよければ、亘理くんの仕事を手伝わせてもらえないかしら」

「もー、夕花様は帰ったばかりなんですから、休まないとダメですよ」

「でも……じっとしていてばかりだと落ち着かなくて」


 これまで神楽家にいた時は朝晩を家事にあて、日中は代書屋で働く生活だった。基本的に朝から晩まで忙しいのが当たり前だったので、時間があっても何をしたらいいのかわからなくなってしまう。


「ね、お願い」

「うーん、少しだけですよ。今から夕食の下拵えをするので、その手伝いをお願いします」

「ええ、任せて」


 亘理と台所に移動し、芋の皮剥きなどを手伝う。


「夕花様が手伝ってくれると、白夜様もよく食べてくれるのでありがたいです」


 よく食べると亘理は言うが、白夜はそんなにたくさん食べている様子はない。確かに最初に比べれば食べている量が増えた気はしていた。白夜だけでなく、夕花もである。亘理の料理は美味しく、夕花が食べやすいように味付けや量を調整してくれるおかげだ。


「白夜さんはお仕事?」

「はい。二階の書斎に篭ってます」


 二階には白夜の寝室や書斎などがある。夕花は二階には数えるほどしか上がったことがない。そもそも、白夜が何の仕事をしているのかも聞いていなかった。

 今度聞いてみようと思いながら、芋の皮を剥き終えた。


「夕花様、ありがとうございました。あと一つお願いしたいのですが、いいですか」

「もちろんよ」

「白夜様にお茶を持って行っていただけませんか? 根をつめているみたいなので、強制的に休憩させたいんです。夕花様が持ってきたお茶なら、白夜様も飲むはずですから」

「わかったわ」


 了承すると、亘理からお茶とお菓子の載った盆を渡された。

 カップやお菓子は二人分で、これは夕花にも休憩するようにということなのだろうと察した。


「美味しそうなお菓子ね」


 こんがりと焼けた長方形の焼き菓子だ。鼻を近付けなくても甘い香りがする。


「フィナンシェっていうお菓子です。バターとアーモンドパウダーのいい香りがするんですよ。小ぶりなので、夕花様でもペロッと食べられるはずですから」

「うん、ありがとう」


 夕花は盆を持って二階に上がる。

 書斎の扉をノックしようとしたところで、お盆を持つのに両手が塞がっていることに気が付いた。確か亘理はこういう時、片手でお盆を持っていた気がするのだが、慣れない夕花が真似をしたらひっくり返してしまうかもしれない。

 どうしようかとオロオロしていると、突然書斎の扉が開いた。


「驚いた。上がってくる物音がしたから亘理かと思ったら」


 白夜が驚いた顔で夕花を見下ろしていた。


「ごめんなさい。両手が塞がって、ノックが出来なくて……」


 夕花がそう言うと、白夜はクスッと笑った。


「そういう時は声をかけてくれて構わない」

「……次からはそうします」


 何故それを思い付かなかったのか。夕花は赤くなるが、お盆を持ったままでは顔を隠すことも出来ない。


「入りなさい」

「お、お邪魔します」


 白夜に扉を押さえてもらい、夕花は書斎に入った。全体的にシックな色をした壁紙で、眩しすぎない照明と、大きな本棚が印象的な部屋だ。

 手前にテーブルとソファがあり、その奥に立派な黒檀のデスクがある。デスク上に所狭しと紙が積まれているのを見えたので、夕花はテーブルの方にお茶とフィナンシェを置いた。


「亘理くんが、休憩した方がいいと言っていました」

「もうそんな時間か。二人分あるということは、君も休憩をしていないと見た。一緒にお茶にしよう」

「はい」


 白夜に促され、夕花はソファに座った。

 亘理の作ったフィナンシェは、言っていた通りバターとアーモンドの香りがして、とても美味しい。表面はサクッとしているが、中身はしっとり柔らかで、口の中でホロホロと崩れていく。淹れてくれたお茶にもピッタリだ。


「あら、白夜さんのフィナンシェと少し違いますね」


 白夜が食べている方は黒い粒のようなものが入っているのが見える。


「ふむ、いつもと違うと思ったが……これは亘理の試作品だろう。口を付けてしまったが、こちらも一口食べてごらん」


 夕花は躊躇ったが、試作品の味は気になる。


「じゃ、じゃあ一口いただきますね」


 差し出されるままに、パクッと一口食べた。

 ふわっと広がったのは紅茶の風味だ。


「あ、紅茶の味がします。この黒い粒は紅茶の茶葉だったんですね」

「そうか、なるほどこれは紅茶だったのか」


 白夜ももう一度紅茶風味のフィナンシェを食べて納得したように頷いた。


「どっちも美味しいですね。あ、もらってばかりでは失礼ですよね。白夜さんもどうぞ」


 夕花は白夜の口元に自分のフィナンシェを持っていく。


「……だが、歯型が付いてしまう」

「構いませんよ。私も白夜さんの方を食べましたし、お互い様ですから」

「そ、そうかな……」


 白夜は困ったように眉を寄せていたが、夕花のフィナンシェを一口食べてくれた。

 改めて考えると、随分気恥ずかしいことをしている。夕花はまだ婚約者らしいことは何もしていない。口付けすら交わしていないのだから。

 じわっと頬が熱くなったのを誤魔化すように、ゴクンとお茶を飲んだ。


「……美味しいな。夕花と食べると、いつも食べていたものまで特別に感じる」


 白夜はひどく静かな声でそう言う。


「きっと、誰かと一緒に食べるから美味しいのではありませんか? 私も神楽家にいた頃は一人で食事をしていたんです。あの頃は何を食べても味気ない気がしていました。と言っても、亘理くんの作る食事は、あの頃よりずーっと立派で美味しいんですけどね」


 白夜は紅色の瞳を夕花に向けた。


「誰かと一緒に……そうか。そういうこともあるんだな」

「ええ、絶対あります」


 夕花は大きく頷いた。


「亘理くんとは、一緒に食べたことはないんですか?」

「そうだな……亘理は、ああ見えて己の職分からはみ出すことはしようとしない。一度、誘ってみてもいいが、笑顔で断りそうだ」


 それを聞いて夕花はクスッと笑う。


「それなら命令ということにしてしまうのはどうでしょう」

「いいかもしれないな」


 白夜は目元を緩ませて笑っている。優しい表情だ。

 トクン、と心臓が音を立てた。

 この頃、白夜と話していると、鼓動は早まるし、頬も熱くて仕方がない。

 夕花は慌てて話を変えた。


「そ、そういえば、白夜さんってどんなお仕事をされているのですか? ずっと聞こうと思っていて」

「言っていなかったか。作家をしているんだ。本棚のあの辺りにあるのが俺の本だ」


 白夜はそう言って、書斎の一番奥まったところにある本棚の一角を指し示した。分厚いハードカバーの本がズラッと並んでいる。


「作家だったんですか!」


 夕花は目をぱちくりとさせた。あの辺りと白夜はざっくり言ったが、ざっと十冊以上ありそうだ。同時に納得もしていた。


「だから、白夜さんの手にはペンだこがあるんですね」

「気付いていたのか」

「はい。実は初めて会った時に、綺麗な手なのにペンだこがあるって思って。書き物をする人の手だって、嬉しくなったんです」


 白夜は無言て頭を掻く仕草をした。いつもより顔が赤く見える。


「何だか恥ずかしいな」


 そう言って立ち上がり、本棚から一冊抜き出し、夕花に渡してきた。


「君に興味はないかもしれないが、もし暇があれば読んでみてくれ」

「あ、ありがとうございます!」

「続きはそこから勝手に持って行って構わない」


 夕花は頷いた。ずっしりとした本の著者名には月森白夜と書かれている。


「本名で活動されているのに知りませんでした。申し訳ありません」


 夕花は生きるのに必死で教養がない。そんな自分を恥じた。


「謝ることじゃないさ」

「実はこの屋敷に来て、初めて暇な時間が出来たのですが、どう過ごしたらいいかわからなかったんです。これから少しずつ読みますね。楽しみです」


 本のタイトルは『兎に狼が殺せるか』と書いてある。殺すという物騒な言葉に一抹の不安が湧き上がる。


「あの、もしかして怖い本だったりしますか……? 私に読めるでしょうか……」


 夕花は仕事の一環で資料集や詩集に目を通すことはあったが、小説を読むのは初めてだ。幼い頃、母と一緒に絵本を読んで以来かもしれない。あの時の本も、愛菜が来た時に取り上げられてしまったが、おそらくもう捨てられてしまっているだろう。


「怖くはないと思うが、こういうのは人それぞれだから、無理そうなら読まなくて構わない。もう少し読みやすそうな本や婦人雑誌がよければ、今度一緒に買いに行こうか」

「が、頑張って読んでみます! でも、一緒に買い物にも……行きたいです」


 夕花があたふたしながらそう言うと、白夜は優しい微笑みを浮かべる。その微笑みに、夕花は胸が温かくなるのを感じたのだった。

 それから結局、亘理が夕食が出来たと呼びにくるまで夕花は白夜と話をして過ごしたのだった。


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