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2章 吸血鬼の屋敷⑥

 翌朝、目覚めた夕花は、これまで目まぐるしさに忘れていたことをようやく思い出した。


「あっ……代書屋……!」


 結局、登美に辞める挨拶も出来なかった。

 このまま何も言わずにいては、きっと心配をさせてしまうだろう。あんなにもよくしてくれた登美に不義理をしてしまうのは心苦しい。


 夕花は朝食の席で、そんなことを考えてぐずぐずとしていた。食事が終わり、コーヒーを出された頃、勇気を振り絞って口を開いた。


「あの、白夜さん、お願いがあるのですが……」

「どうかしたか?」

「私が綾地町の代書屋に勤めていたのは、白夜さんもご存知でしょう。今回、急なことで辞める連絡も出来なかったので、せめてご挨拶しに行かせてほしくて……」


 何せ、白夜と初めて会ったのは、あの代書屋でのことなのだ。彼も覚えているはずだ。

 そう伝えると、白夜はふと考え込むようにしてから言った。


「夕花は代書屋を辞めたいのか?」

「い、いえ……出来ることなら勤めていたいです……でも……」

「では辞める必要はないだろう? ああ、もしかして俺のせいで無断欠勤になってしまったのか。それなら俺も一緒に行って謝罪しよう」


 夕花は思いもよらぬ返答に、目をぱちくりとさせた。白夜の家に来た以上、仕事は続けられないとばかり思い込んでいたのだ。


「え……いいんですか?」

「君が働きたいと言ったのだろう。この家にいたいならいていいし、遊びに行きたいなら構わない。何か欲しいなら購入費用を渡す。危険な場所には行ってほしくないから、何でも許せるわけではないが、なるべく夕花の意見を尊重したいと思っている」

「あ、ありがとうございます。でも、同行してもらうのは申し訳ないので一人で……」

「申し訳ないことなどない。君を一人で歩かせるよりずっといい。コーヒーを飲み終えたら出かける準備をしようか」


 下香墨にあるこの屋敷から、中泉寿区の綾地町まで徒歩では少々厳しい距離にあるそうだ。夕花は白夜の車に乗って綾地町に向かうことになった。一度目は意識がなかったが、車に乗りながら目を回しそうになったのは言うまでもない。人気のないあたりに車を止め、外に出てようやくホッとした。

 白夜は日中の外出のため、黒い中折れ帽を目深に被っている。当たり前のように手を差し出され、夕花はおずおずしながら白夜の手を握り返したのだった。


 綾地町は今日もいつも通りの賑やかさである。

 代書屋に着き、戻って来れた嬉しさと、怒られるという緊張感に、夕花は胸をドキドキさせていた。

 引き戸を開くと、いつも通り、気難しい表情の登美が文机に向かっていた。


「あ、あの、おはようございます」


 登美は珍しいことに目を大きく開けてこちらを凝視している。


「登美さん……二日も無断欠勤してしまって申し訳ありません……怒ってるとは思いますが、またここで働かせてもらえ──」


 夕花は最後まで言い切ることが出来なかった。

 文机をひっくり返すような勢いで飛んできた登美が、夕花を抱きしめたからだった。


「夕花っ! 無事でよかった!」


 驚くことに登美は涙声だった。そんなにも夕花を心配していてくれたことに、夕花も胸がジーンと熱くなる。気が付けば夕花も涙ぐんでいた。


「登美さん……ごめんなさい……」

「本当だよ! まったく、心配させてこの子は!」


 登美はジロリと夕花を睨む。その目には涙がわずかに光っていた。


「それで、そちらはどちらさん?」


 登美が顎をしゃくって示したのは、玄関先に立っている白夜である。


「この人は月森白夜さんです。実は……私、急に結婚……いえ婚約をすることになって、今は白夜さんのお宅にいて」

「まあ立ち話もなんだから、上がりなさいな」


 詳しく説明しようとするが、登美に止められてしまう。


「そっちの月森さんも、うちにゃ粗茶しかないが、それでよければ」

「邪魔であれば、俺は表で待っていようか」

「アンタみたいな色男がこんな店の前に突っ立ってたら、見物人が集まって店の前が通行止めになっちまうよ!」


 登美にそう言われ、白夜は苦笑する。


「では、上がらせてもらおう」


 そう広くない代書屋で、三人膝を突き合わせながら夕花はこれまでのことを説明した。


「──夕花、アタシはアンタに起こったことや、幻羽族だってことには驚いてないよ。アンタは立ち振る舞いも言葉遣いも、綾地町の人間らしくなかったもの。そのくせ若いのに随分古くて、色味も年配が着るような着物だし、手も荒れてるから、訳ありでお金が必要なのは間違いなかった。何より、アンタはいい字を書いていたからね。しっかりした娘なのはわかってたんだよ。だから、二日も無断欠勤したのは具合が悪いんじゃないか、美人だから誘拐でもされたんじゃないかって、心配していたんだ」


 登美は白夜をジロッと見る。


「結婚相手が吸血鬼ってのは少し驚いたが、まあわからないでもないね」

「あの……白夜さんは吸血鬼といっても全然怖くないですし、とてもよくしてくれて」

「アタシは綾地町の人間だから、幻羽族と違って吸血鬼に偏見なんてないさ。吸血鬼には金持ちが多いから、この町でも恩恵を受けてるしね。それよりも、少し前に夕花が言っていた、店の前で倒れた男ってのが、その月森さんなんじゃないのかい」

「そ、そうです」

「なるほどね。それで月森さんは、助けてくれた夕花に惚れて求婚したって話かい。夕花の実家の事情は知らないが、あまり大切にされてないのはアタシでも想像がつくからね。少しでも早く惚れた女を大切にしてやりたいってことかい」


 登美の言葉に夕花は真っ赤になった。


「そ、そ、そうなんですかっ⁉︎」


 白夜は恥ずかしげもなく頷く。


「概ねその通りだ。俺は夕花を妻にしたいと思って経歴を調べさせたが、本来後継であるべき本妻の娘が使用人以下の扱いを受けていた。あまりにも不憫で、急いで迎えようと思ったんだ。それで無断欠勤をさせてしまったというわけだ。迷惑をかけてしまったことは詫びよう」

「なるほどね。話はわかった」


 登美はいつもの調子を取り戻してキッパリ言った。


「それじゃ、話は終わりだよ。出て行っておくれ」

「と、登美さん……」


 夕花はその言葉に目を見開く。やはり無断欠勤をしたからか、それとも幻羽族であることを黙っていたからなのだろうか。一瞬でそんな考えがぐるぐる巡る。


「ほら夕花、何をぼさっとしてるんだい。話は終わったんだから、のんびり茶を飲んでいる場合じゃないだろう。代筆の仕事がたっくさん溜まってるんだから。アンタ、二日も働いてないんだし、ばりばり書いてもらうよ!」

「えっ、えっ……?」


 夕花はキビキビ動き出した登美に目を白黒させた。

 白夜はそんな夕花の肩を軽く叩く。


「夕花、店から出ろと言われたのは俺だけだ。君はこのまま仕事をしなさい。終わる頃に迎えにくる。代書屋の店主殿、夕花をよろしくお願いします」


 白夜は深々と登美に頭を下げた。登美は一瞬ギョッとした目をしたが、すぐにいつも通りに唇を引き結ぶ。


「うちの従業員のことだ。言われるまでもないね」


 白夜が店から出ていくと、夕花は登美から注文書をどっさり渡された。


「さあ、今日の仕事も忙しいよ!」

「はい!」


 登美が変わらずにいてくれることが、とてつもなく嬉しい。


「ありがとう、登美さん」

「ほらほら、無駄口叩かない。休憩時間になったら、饅頭屋で饅頭を買ってきておくれよ。饅頭屋のおかみもアンタを心配してたから、顔を出して安心させてやりな」


 夕花は涙を堪えて頷く。

 胸の中がホカホカと温かくなるのを感じていた。




 仕事が終わる時刻に、白夜が迎えにきてくれた。

 白夜に手を引かれて歩き出す。


「今度お詫びに何か差し上げたいんだが、あの店主じゃ受け取ってもらえそうにないな」

「そうですね。でも登美さんは金品は絶対に受け取らないと思います。ああ見えて甘いものが好きなので、亘理くんが作ったアップルパイを差し入れするのがいいかもしれません。とっても美味しかったので、きっと登美さんも気に入るはずです」

「なるほど、甘いものか」

「あ、でも、焼きたてじゃないとどうなんでしょう」

「亘理のアップルパイは冷めても美味しいと思うが、人に渡すものなら、もう少し日持ちする菓子の方がいいかもしれないな。夕花、亘理に頼んでおくから、店主が気にいるかどうか味見を頼むよ」

「は、はい! 味見なら私でも出来ますし、頑張りますね!」


 白夜は夕花を見てクスッと笑う。


「仕事をしている君は凛としていて違った魅力があると思っていたんだが、今の君はとても可愛らしいな」


 夕花はその言葉に頬を染めた。

 白夜の紅色の目が優しい色をしている。


「さあ、帰ろうか」

「……はい!」


 夕花には、新しく帰る場所が出来たのだ。

 白夜の手をほんの少しだけ、強く握り直した。

 



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