41話:変態を元気付けるために御褒美を与えました
フィーリアが出て行った後、医務室のベッド脇には怒りの表情を浮かべたエリルが立っていた。医師に見つからないよう窓を開けて室内に忍び込んだのだ。
枕元に顔を寄せ、小声で話し掛ける。
「ラシオス様、どういうおつもりですか」
静かだが、怒気を孕んだ声色。
何故エリルが怒っているのか、今度はラシオスにも分かった。心配してくれたフィーリアに対し、素っ気ない態度を取ってしまったからだ。
「本当にお嬢様の気持ちが離れてしまいますよ」
「……」
責めるようなエリルの目が怖くて、ラシオスは彼女をまともに見ることさえ出来なくなった。
身体が弱ると精神も弱る。全てに自信を失い、ラシオスは自棄になっていた。彼女を笑顔にすることも出来ない自分なんかがいつまでも婚約者の立場にいていいのかと、本気で思うようになっていた。
「フィーリアが、離れたいと望むなら」
これでフィーリアだけでなくエリルからも見捨てられてしまうかもしれないと思うと胸が締め付けられるように苦しくなった。いつになく弱気になっているとラシオス自身も気付いている。
弱々しい声でラシオスが答えると、エリルは呆れたように大きく息を吐き出した。
このままでは本心を伝える前に二人の関係が破綻してしまう。ラシオスとの婚約を解消してしまえば、フィーリアはローガンの求婚を受けるしかない。不穏な噂の付き纏うローガンに大事な主人を嫁がせたくはない、エリルは常々そう思っていた。
行き詰まった状況を覆すには、ラシオスに発破を掛けねばならない。エリルは奥の手を使うことにした。
「……刺繍」
「へ?」
「お嬢様が十歳の時に練習で作った刺繍入りのハンカチです。出来がいまいちだったので処分を頼まれましたが、密かに保管しておりました。欲しいですか?」
「ほ、欲しい」
エリルがエプロンドレスのポケットから取り出したのは、拙い薔薇の刺繍が入ったレースのハンカチだった。布や糸の色がやや褪せているのは、これが数年前の代物だからだ。
フィーリアの使用済みの品物を収集する趣味を持つラシオスは、エリルの撒いた餌に喰らい付いた。
「お嬢様のことは諦めるんですよね? ならば必要ありませんよね?」
「そ、そこをなんとか」
「いいえ。お嬢様と無関係の方にはお渡し出来ません。……ラシオス様はお嬢様との婚約を破棄されるんでしょう?」
すがりつくラシオスを見下ろし、エリルはわざと冷たく言い放った。これで火が点かないようなら望みはない。その程度の気持ちだったのだとキッパリ切り捨てられる。
「婚約破棄なんか、したくない……」
「何ですか? 聞こえません」
「僕は、フィーリアと絶対に結婚する! 他の男には渡さない!!」
エリルの挑発に乗り、ラシオスは大きな声で宣言した。医務室全体にその声が響き渡る。
仕切りのカーテンの向こうから、ガタッと音がした。誰かが聞いていたのだ。
カツ、カツ、と靴音が近付いてくる。
「ラシオス殿下。お元気になられたのは誠に喜ばしいのですが、そういうのはご本人に言わないと」
聞いていたのは医務室常駐の医師だった。カーテンの隙間から顔だけ覗かせ、ベッドの上で上半身を起こすラシオスをちらりと見て、再び戻っていった。
仕切りカーテンの内側の空間にはラシオス以外の姿はなく、いつのまにか開け放たれていた窓から爽やかな風が入り込んでいた。
「……そうだ、僕は……」
枕元に置かれた刺繍入りのハンカチを手に取り、胸に掻き抱く。先ほどまでの弱々しさはなりを潜め、瞳の奥には意志の強さを感じさせる光が宿った。




