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真空管ラジヲ

作者: 竹部 月子

 手入れの行き届いた庭は、夏椿(なつつばき)の花盛りで、白い花弁が陽射しに光っている。

 中庭を囲むコの字型の廊下を進めば、蒸し暑い空気を清めるように風鈴が揺れていた。

 造りは古いが、なんと素晴らしい屋敷だろうかと、感心しきりの青年は南向きの部屋の前にさしかかる。


 閉じられたままの障子の前を通り過ぎようとした時、グチャリと濡れた新聞紙を踏んだような心地がして正一郎(せいいちろう)は思わず足を止めた。

 案内のために先を歩いていた初老の女中は、それに気付いて振り返る。


「ここは亡くなった奥様のお部屋ですから、決してお入りになりませんように」

「はぁ、心得ました」

 青年は足の裏を確認しながら、そう答える。磨き込まれた廊下には新聞紙どころかホコリ一つ落ちてはおらず、彼の足袋は真白いままだった。




 正一郎はあてがわれた部屋に、風呂敷包み一つだけの荷を置く。女中の足音が遠ざかるのを待ってから畳の上へ大の字に寝転んだ。

「林先生の書生として迎えていただけるなんて、望外の幸せだ」

 あらためて声に出して、その実感を噛みしめる。


 全国津々浦々(つつうらうら)に大学が新設されるようになった昨今、上京しなければ大学生になれない時代は終わった。

 それに伴って「書生」という存在も過去のものになりつつあるというのに、今日から彼の身分は文豪、林喜一(きいち)の書生なのだ。




 今泉(いまいずみ)正一郎(せいいちろう)は東北の農家の息子だったが、地元の大学には進まず、わざわざ東京の大学に進学した。

 林喜一は作家でありながら、大学で人文学の教鞭も取っている。

 彼の小難しい小説の熱心な読者であった正一郎は、林教授の元で学び、いずれは自分も作家になるのだと決めこんで、上野行きの汽車に飛び乗った。


 地元の学校では、常に成績は優。当然のように級長、生徒会長は正一郎に回ってきた。

 弁論大会では上級生まで論破し、今泉を負かせる者などいやしないと、教職員からも一目置かれていたのだ。


 それがどうしたことか、自分が大学の授業についていけていないと気付いた時、正一郎は慣れない下宿生活とアルバイトのせいだと言い訳し、そのうちどうにかなるさとタカをくくった。

 無論どうにもならずに、はじめての良の評定が来たかと思うと、あっというまに可と不可の文字が成績表に踊る。


 しかし、自分の本分は作家になることなのだから、学問はついでに過ぎないと正一郎は折れなかった。

 寝る間を惜しんで長編を書き、手当たり次第に出版社へ送る。返事が無いのは、編集者の見る目が無いからだと鼻息を荒くした。


 一年、二年と、執筆とアルバイトに明け暮れる大学生活は飛ぶように過ぎ、文学部の正一郎にとって最終学年の三年目はあっと言う間に訪れる。

 人気の林教授の研究室はすぐに満員となり、根拠も無く自分に声がかかると思い込んでいた正一郎は愕然とした。

 仕方なしに全く興味が無かったフランス文学の研究室に在籍して、教授から「ボンソワール」と挨拶を強要されるたび、心のどこかがじわじわとすり減っていく。




 学校祭のために自腹で印刷した短編小説を机に山積みにして、楽しそうに往来する人を眺める。

 ぽつんと座る正一郎の前に、誰一人足を止める者は居ない。三年この大学に在籍していて、一冊協力してくれよと、頼む友人のアテすら無かった。

 ようやく正一郎は、自分に才能が無いのだと、井の中の蛙だったのだと、静かに深く打ちひしがれていた。

 

 春先から既に、両親から帰郷はいつになるのかと矢の催促。

 作家になるどころか就職先さえも決まっていないというのに、それでも正一郎は田舎には帰りたくなかった。


「正ちゃん」といくつになっても子どもの時の呼び名に固執し、許嫁(いいなずけ)気取りでついてまわる幼馴染の、しめ縄のような太いみつあみを思い出して身震いする。

 帰ったらとんとん拍子であのイモ娘を嫁に迎えて、農家を継ぐことになるのは分かり切っている。


 土にまみれて、天候に振り回されて、重労働の末に、あんなわずかな賃金を得るだけの生活だけは御免だという気持ちに変わりは無かった。




「ふむ、粗削りだが熱量を感じるいい文章だね」

 ぼんやりとしていた正一郎は、その声にはっとして顔を上げる。憧れの林教授が、自分の本を開いて柔和そうな微笑みで立っていた。


 そこから正一郎は直立不動で、己がどれほど教授を尊敬してこの学校まで来たのか、文豪林喜一にどれだけ影響を受けて物書きを目指したのかを語り、最後に「しかしもう、諦めようかと思っています」と小さな声でうなだれた。


 それはもったいないことだよ、と優しく林は正一郎の肩をたたく。

「本当に自分で納得できるまで、うちで書生をやるといい。ちょうど部屋も空いていることだし、明日からでも移ってきて構わないよ」


 もうとっくに自分の才能には納得して、見切りをつけていたというのに、郷里に戻るのを一日でも先延ばししたいという一心だけで、正一郎はその申し出に飛びついたのだった。




 書生に与えるには上等すぎる八畳間もまた、中庭に面していて明るい。障子を開け放つと、先ほどの奥方の部屋が夏椿の垣根越しに見えた。


 深いひさしの下で、射るような夏の光と反転するようにその部屋だけが暗い。

「亡くなった奥様のお部屋」という一言を聞いただけで、そんな風に見えるものなのだなと青年は苦笑した。




 寝食の面倒を見る代わりに、時々文献の整理などを手伝ってくれたら助かると教授は言ったのだが、屋敷に厄介になってからもう十日はたつというのに、正一郎は一度だけ書斎に辞書を戻しに行っただけ。仕事らしい仕事をしたことが無かった。

 三度の飯は女中の上げ膳据え膳、毎日広い風呂に入り、くたびれた学生服にはアイロンがかかって戻ってくる。


 ならばさぞかし筆が進んでいることだろうと思いきや、そういうわけでも無い。

 そもそも作家として食っていくのは無理だと心折れた後に、何を書けばいいのかと正一郎は文机の前でひっくりかえっていた。

 教授の計らいで原稿用紙も使い放題になったので、くしゃくしゃと丸めて部屋の隅に放ったそれだけが、文豪の真似事のようで滑稽だった。




 今夜はまた特別に蒸すな、と顔をしかめて正一郎は(かわや)に立った。

 一歩廊下に出ると、微かに耳が「ザァ」と何かの雑音を拾う。

「何だ?」

 ザ、ザと音がして、今度は誰かが小声で話している気がする。

 しかしこんな年若い女性のような張りのある声の持ち主は、この屋敷には居ないはずだ。


 ごくりとつばを飲み込んで、正一郎は廊下を進み、亡くなった奥方の部屋の前に立った。音は間違い無くこの部屋の中から聞こえる。

「それ……は、きき……さい……」


 わずかに拾えた言葉の後で、音楽が始まったので「それではお聞きください」と言ったのだと、青年は理解する。

 耳を澄ますと重厚な前奏の後で歌が始まったが、日本語ではないその曲に聞き覚えが無い。


 障子にはりつくようにして聞いていると、急に音量が上がって正一郎は飛び上がった。

 意味の分からない単語の羅列から、かろうじて「Love」が聞きとれたような気がした後はもう何もわからない。うねるように音の波が脳に入り込んできて、奥歯が浮くような心地がする。

 

 耳をふさいで頭をかかえた正一郎は、だしぬけに背後から肩をたたかれて、その場で腰を抜かした。

「はっはっは。今泉くん、驚かせてしまったかね」

「せ……先生」


 丸メガネにくつろいだ浴衣姿で、林教授は笑っていた。そして、開けるなと言い含められていたその部屋の障子を、こともなげにスッと開く。


「妻の嫁入り道具なんだ。大正時代に作られたラジヲらしいんだが、何故か時々こうして勝手に鳴り始めるんだよ」

 がらんとした部屋の中央に、長持くらいの大きさの箱が鎮座している。ダイヤルが三つ並んだそれは、最近では見かけなくなった大型の真空管ラジオだった。


 まだ廊下に尻もちをついたままの正一郎に向き直って教授は言う。

「しかし君は、この部屋に入るなという言いつけを守ってくれたんだね。見た目の通りの誠実な青年で安心したよ」

 今度はラジオの方を向いてバクリと上の蓋を開け、内部を探るように手を動かすと、ガンガンと鳴り響いていた歌が消えた。


「また、こうして(やぶ)から(ぼう)に鳴ることもあるけれど、私が止めにくるからね。ここは開けないでおくれよ。妻との、大切な思い出の部屋だからね」

 今度は背中を向けたままの林の声に、何かそら寒いもの感じて正一郎は絞り出すように返事をした。

「……承知しました」 




「いい加減にしてくれ!」

 ただでさえ寝苦しい夜に、頭まですっぽり布団にくるまって正一郎はうめいた。


 あの夜から、二日と空けずにラジオが鳴る。

 日暮れ早々の日もあれば、今日のように丑三つ時近くなってからの時もあり、決まって同じ曲がサビのあたりで大音量になる。

 あまりに繰り返し聞かされるこの曲を、大学の知人に鼻歌で聞かせると、少し前にアメリカで流行ったラブソングなのだとすぐに分かった。


 しかし分かったところで、部屋に入るなと教授から直々に釘を刺された後ならば、正一郎はラジオを止めてもらうまで耐えることしかできない。

 この季節、どこの家でも雨戸をあけて寝ているだろうに、誰ぞ怒鳴りこんで来てくれないものかと切実に願うばかりだった。


 うるさくて眠れないだけではなくて、聞いていると頭を溶かされるような重低音の歌声に正気でいられなくなる。

 ついさっきは、焼けるような喉の乾きに耐えかねて、知らずにインク壺に口をつけていた。

 このままではおかしくなってしまう、と布団の中で汗みずくになりながら奥歯を噛みしめると、急にシンと音が止んで、正一郎は気絶するように眠りに落ちた。

 



 呆けたように茶碗を持ったままの姿勢でいた正一郎に、膳を下げにきた女中がぎょっとする。

「旦那様にお医者さんを呼んでもらいましょうか。顔色が優れませんよ、暑気あたりでしょうかね」

「……いや、あなたはお元気そうですね。あのラジオの音が気にならないのですか」

 正一郎の言葉に、今度は女中の顔色の方が蒼白になった。そのまま膳をひっつかみ、障子も閉めずに部屋を出ていく。

 ただ事ではないその反応にも、もう青年はぼんやりとした視線を送ることしかできなかった。




 強い夕立が通り過ぎると、無風の夜が来た。いつもは微かな清涼感を届けてくれる風鈴も、力なく軒先に垂れさがっている。


 ジ、ジジ、キュウゥ、ザ……ザ。


 今日も始まる、と血走った目で青年は立ち上がった。

 勢いよく開いた障子戸が、こんな真夜中にパンと破裂するような音を立てたことにも構わずに、正一郎はのしのしと廊下を歩いていく。


 風呂に入ったばかりだというのに、すでに汗で張り付く浴衣が不快。

 中庭の夏椿が湿った土の上で、甘く腐れるにおいがするのも不快。

 そして何より、あの狂ったラジオから垂れ流される音楽が不快でたまらない。


 奥方の部屋の前に立つと、最初にここを通った時よりもっと、ぬかるみにくるぶしまではまり込んだような心地がした。

 それは幼い頃、田んぼでした泥遊びのようでもあって、感じるのが嫌悪だけでないのが性質(たち)が悪い。


 このラジオの音そのものがそうなのだ。

 嫌だと感じるのと同じくらい、もしかしたらそれよりも少し多く、ざらつく自分の内側が悦ぶような震えがある。


「そレでわぁ、お聞キ、くだサい」

 いつもの文言が正一郎の耳に間延びしたように届き、曲が始まる。

 廊下に雫が落ちるほど、青年は滝のような汗をかいていた。


 何度聞いても、Love以外の単語は聞き取れない歌は、じわじわと胸を焦がす。 

 ついにすすり泣くように愛を乞う声が、背筋を這い上がってきた時、正一郎は汗で濡れた指先をプツ、と障子紙に押し込んでいた。


 穴からのぞき込んだ禁じられた部屋の中には、大きな真空管ラジオが一つ。三つ並んだダイヤルが手品のように勝手に左右に振れていた。

 あの日、教授はラジオの上蓋をバクリとこじあけて、なかをいじくりまわして、どうやってあれを止めたのだろうか。


 ブツ、ブツ、と無意識のうちに、正一郎の指が続けて障子紙に穴を開けていく。

 そのうちに、暴力的なラブソングに隠れて、何か微かに別の音がしていることに気付いた。ねばる水音にも似たそれは、例えるなら、泥まみれの(こい)が畳の上で必死で跳ねるような音。


 聞くうちに正一郎の腰から下が、溶けるように力が入らなくなって、体が前にのめる。その拍子に障子を突き破って、手首まで部屋の中へ入ってしまった。

 室内のドロリと濃密な空気に手が浸ると、あとはもう何も考えたくなくなって、正一郎は目を閉じる。


「正ちゃん、障子ばそんなして、叱られっど!」

 不意に真っ黒なおさげ髪の幼馴染が、目の前に立ちふさがった気がして、正一郎の頭が弾かれたようにのけぞった。

 自分が開けた障子の穴から、いつのまにか開いていたラジオの上蓋の中へ、おぞましい何かがズルリと引っ込んでいったのが見えた気がして、正一郎の全身が激しく震え出す。


「いやだ、い、嫌だ」

 歯の根も合わず、立ち上がることもできぬまま、青年は廊下を這いずって自室へ向かう。ぞわぞわと背後から何かが追ってきているような気配があっても、振り返ることすらできない。

 今度つかまったら、本当に終わりだと訴えかけてくる本能に従って、涙と汗にまみれて進む。


 ようやっと頼りない障子戸をしめて、布団を抱えて部屋の隅にうずくまったのを最後に、正一郎の意識はプツリと途切れた。




 林の前で、深く頭を下げた青年は、世話になったことへの感謝を述べて憔悴(しょうすい)した顔を上げた。

「これできっぱり作家は諦めて、家を継ごうと思います」

「……そうかい。残念だけど、それがいいのかもしれないね」


 少し足をひきずるように遠ざかっていく正一郎を見送った林は、その足で南向きの部屋へ向かう。

 まだ、穴のあいた障子は、張り替えられずにそのままだった。


 いくぶん暑気の和らいだ陽射しを背に、文豪の手がラジオのフチを愛し気に撫でる。 

「口に合わなくて残したのかい? まったく、きみはいつになっても、好き嫌いが多いねぇ」

 

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